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カヤキ8 久兵衛くんにアラビア数字で立方体の体積を計算してもらう件

 僕は貝原子誠くんの顔を穴が開くほど見つめて、少しの間ぼおっとしていたらしい。

 子誠くんが狼狽うろたえて

「どっ・どうかなされましたか?」

と腰を浮かせたのを見て、我に返った。


 「あ! いえ……。」

僕は慌てて首を振る。「子誠様が、噂に聞く”神童の久兵衛”君か、とビックリしたのです。」

 そして「わずか8っつで、かの塵劫記を解き明かしたと名高い。」と付け加えた。「算術は物事を考える上での基礎の基礎となる技術ですからね。」

 ここで”あなた様は後の世に影響を及ぼす大偉人に育たれるのですよ”なんて口走るわけにはいかないし、”あなたの本を持っていますからサインお願い!”なんてのはもってのほか


 貝原子誠くんは――僕が数学の重要性を言ったのに対してだろう――我が意を得たりとばかりに満面の笑みで頷き

勿体無もったいのうございます。これからは久兵衛と呼び捨てでお願いいたします。御蔵人みくらびとで森羅万象に通じておられる片山殿から、子誠様などとお呼びいただくと、なにやら”こそばゆう”なります。」

満更まんざらでもないような。

 後に主君を激怒させる(可能性がある)くらいの人物だから、若い時分から”自らをたのむ”タイプであると視た。

 まあ若い時って誰しもが、自分の未来に対して希望と自信に満ち溢れている傾向があるのが一般的というか、あるべき姿なんだろうけど。で、久兵衛くんの場合は、それが誇大妄想ではないのも僕は知っている。

 世間に揉まれて角が取れたら、たぶん早良さんとか雛竜先生みたいなパーソナルに育って行きそうな気がするんだ。


 「じゃあ、これからは久兵衛くんと呼ばせていただきますよ。」と彼の提案を受け入れ「年齢としも近いみたいだし、僕のことは修一くんでお願いします。朋輩ほうばい、ということで了承していただけますか?」とトモダチ付き合いになることを、今度はこっちから逆提案。

 後の貝原益軒こと現・久兵衛くんは「ありがたき幸せ!」と即座に同意してくれた。

 ――いや、賢人貝原益軒先生と友達になれるなんて、こっちの方こそ望外のラッキーなんだけど。


 「久兵衛くんが算術に明るいのを見込んで、一つ提案があるんだけど。」と、僕は言葉遣いをイキナリ友達言葉に変更する。

 僕の申し出に彼は「なんでございましょう……」と言いかけて「いや……なんじゃろう修一くん?」と口調を改める。「算術についての話し?」


 そうそう、と僕は頷いて「加減乗除かげんじょうじょを行うのに、記号としてアラビア数字を使うのが楽だと思うんだよ。」と紙と鉛筆を取り出す。「これは鉛筆といって、筆と矢立てに代わる筆記具なんだけどね。」

 そして興味津々で鉛筆を覗き込んでいる久兵衛くんに

「壱は1、弐は2、参は3……って具合に書くんだけど、数の位取りが大きくなった時にが記し易いんだ。」

と説明。

「例えば”弐千五百参拾壱”であれば”2531”と、文字数が少なくて済むし、見やすくもあるでしょう。そして”弐千五百参拾壱”に乗すること”弐拾参”は『2531×23』でよい。」


 2531

×  23

――――――――――

50620

 7593

――――――――――

58213


という具合に筆算をやって見せると、久兵衛くんは膝の上で架空バーチャル算盤そろばんを弾いて「正!」と頷いた。「拙者だと何とか暗算でもイケますが、算盤の苦手な者でもこの方法であれば、苦も無く正解を得られまするのぅ。」との感想。


 同じく割り算(除算)での計算要領もやってみせ、ついでに”底辺×高さ÷2”で三角形の面積を出す。当然、久兵衛くんは平行四辺形の面積の半分という三角形の面積を出す理屈は既に承知しているから、これはアラビア数字と筆算での計算が『見やすいよ』というデモンストレーションだ。

 実際に”底面積×高さ”という立方体の体積の例題を出したら、久兵衛くんは訳も無く今日目にしたばかりのアラビア数字を使いこなした。

 地味な手順ではあるけれど、地域社会における神童しんどうの影響力は馬鹿に出来ないから、アラビア数字の普及に一歩前進かも。


 それから「円弧の長さを求めるときや、円の面積を出すときには円周率という定数を使って、これはだいたい3.14っていうくらいで近似値が出せるんだけど、途中でいちいち計算するのはメンドウだから、とりあえずπって書いておけばよいんだ。πそのものは10万桁とかまで計算されているみたいなんだけどさぁ。」みたいな話をグダグダと続けていたら

「おぉ? 朝から数学三昧かぁ?」

なんて具合に伊能先生が入ってきた。暢気なイントネーションは、久兵衛くんが監視役であり、彼を僕が懐柔している最中と見做みなしての、慎重な処世術だろう。


 先生の後ろには岸峰さんと尾形軍曹殿も続いている。

 岸峰さんは先生の往診カバンを持って、助手を務めるといったてい。軍曹殿は何故か岸峰さんのリュックサックを背負って、手には灯油の携行缶を下げている。携行缶は洋灯用だろうけど、リュックの中身はなんだろ?


 さて岸峰さんは、僕の目を見ると口を結んだまま一つ頷いてみせた。ここには久兵衛くんが居るから、今は藤左ヱ門さんの話は出来ないという意思表示だ。

 そして、えて、なのだろう。「はかなげな美少年を引き込んで、朝っぱらから御優雅なこと!」と毒づいてきた。タフな彼女にしては、ちょっとヤリ過ぎ。やはり立て続けに起こる事態に少し疲れているのか……。

 一方、軍曹殿はクスリと笑って久兵衛くんに会釈し、僕には背負っていたリュックサックを下ろしながら

「補給品を持ってきた。もう手持ちの糧食が無くなった頃だろう。コッヘルと灯油コンロも入れてあるから、必要であれば庭で飯も炊けるよ。他に藁半紙や鉛筆も入っている。まあ荷造りしたのは岸峰くんだから、その他に何が入っているのか詳しい内容は知らないけれどね。」

と、その中身を教えてくれる。


 僕は有難うございますと頭を下げ、軍曹殿や伊能先生に

「黒田の貝原子誠くんです。」

と久兵衛くんを紹介する。「物凄く優秀な人物で『後には筑前にその人アリと貝原の名を世にろ示すのは確実』だと思いますね。」


 伊能先生は僕のヒント一発で正解を導き出したようで、一瞬、目をみはったが直ぐに表情を元に戻して

「ほお? それほどの神童であるならば、特別に新品の医術道具を見せてやろう。たぶん筑前では――長崎を含めても――初お目見えの珍品だぞぅ。」

と岸峰さんからカバンを受け取り、中身のいくつかを座卓の上に並べる。

 久兵衛君は体温計や聴診器、ペンライトなど目の前に出された不思議な器械に魅せられて、ひどく興奮している。「ややや! 御蔵さまの御医者殿は、これらを用いて脈を取るのでございますか?!」

 無理もない。これらの器具は町医者ところか、江戸城にだって存在しないわけで。将来、医者で博物学者になる予定の貝原益軒が、感性を刺激されないはずがないよ。


 「実際に使う処を見せてあげよう。」と先生は諸々をカバンに戻し、「臨時の見習い心得こころえに任じるから、付いて来なさい。」と立ち上がった。「片山くん、子誠くんをしばらく借りるぞ。」

 すると「それでは自分は、患者が暴れないよう押さえておく助手を務めましょう。」と軍曹殿も立ち上がり、三人は薩摩藩氏の部屋へ向かった。


 どうやら僕と岸峰さんを二人だけに――という配慮、と受け取って良さそうだ。


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