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カヤキ7 貝原益軒という人物はメッチャ優秀な超絶マルチ人間なんだよ! な件

 さて、目の前で会釈をしている貝原子誠こと、後に益軒という号を名乗ることになる人物は、いったい如何なる為人ひととなりかというと――


 貝原益軒先生は1630年生まれ。日本史でのトピックスをピックアップすれば、林羅山はやしらざんが三代将軍 家光から後の昌平坂学問所しょうへいざかがくもんしょの原型となる学舎の建設を許された年。世界史では北イタリアでペストが大流行し、ピューリタンがアメリカにボストンの街を建設したころ。

 益軒先生は後に黒田藩の藩校で朱子学を講義したから儒学者と紹介されることが多いと思うんだけど、元々は医者として採用されている。


 子供のころは身体が弱くて本ばかり読んでいるような状態だったが、8歳で兄の『塵劫記じんごうき』という和算(算数)のテキストを無断借用して解いていたというクレバーなガキであったらしい。後に出世してからも常に数学の重要性を強調していたという儒学者にしてはゴリゴリの理系人間だった。


 1648年に18歳で二代目藩主 黒田忠之に仕え衣料品出納係となるが、何をしでかしたモノやら1650年に追放されて浪人生活に。

 忠行は『黒田騒動』という藩内問題を起こしたり、島原の乱で武勲を上げたりという謂わば血の気の多い系の主君で、御禁制の大型船を建造するなど金遣いも荒かった。対してクレバーな若者であった益軒は……まあガッツリ意見してクビになったのだろう。2ヶ月間ほどは小呂島おろのしまという超絶離島に島流しになっていた説があるくらいだから、藩主をかな~り激怒させたようだ。


 浪人になった益軒先生(まだこの頃は「久兵衛さん」なのだけど)は、医術で身を立てようと長崎に留学、学問にはげむ。

 1654年に忠之が死去すると、父 寛斎の運動のかいあって1656年に三代目藩主 黒田光之くろだみつゆきに帰参を許される。

 この光之という人物、父である忠之にはうとまれていて、実家から追い出されて筆頭家老の黒田一任(三左衛門さんだ)の息子である一貫かずとお氏の家で育てられたという経歴の持ち主。武張った親父とは違って書物好きな文治派の人物だったことや、忠之が金を使い過ぎて藩の財政が逼迫ひっぱくしていたことなどもあって有能な文官を欲していたから、テクノクラートとして益軒は重用されることになる。


 ただし表立って藩政に参画するのは1664年の益軒35歳になってから。

 じゃあ1657年~64年の7年間、大人しく福岡で藩医を続けていたのかというと、実はその間は公費で京都留学をしていたのだという。しかも学んでいたのは医学ばかりではない。名だたる大儒の下に通って朱子学などを修めながらガンガン人脈を広げていたのだとか。

 これはもう”アレ”ですね。長崎番に下級の――しかし有能な――人物を配して情報収集を行っていたのと同じく、絶対に京都詰めの『黒田家情報将校』ですよ。

 医者や学者という職種は、戦闘職とは異なり学問修行中という名目さえ付ければ国境くにざかいを越えてフリーハンドで動きやすいから、表に出ていない活躍も有ったのに違いないね。うん。


 この時点で既に『幼少のころは身体が弱く、長生きはしないだろうと言われていた』という初期設定はどこか遠くに忘れ去られていて、小説だったら作者にクレームが殺到しそう。

 まあ成長するのに従ってどんどん強壮になっちゃったのですよ、と書いても、苦しい言い訳と非難されるかもねぇ……。

 ただ益軒の復帰に奔走したという父寛斎も、当初は忠之の祐筆(書記官)を務めていたが、益軒の生後しばらくは浪人して村落で暮らしたり僻地の山番になっていたりと『福岡藩内のあちこちを移動して生計を立てていた』というから、貝原一家は”そういった任務を帯びた”一族であったのかも? などと妄想が湧く。

 だから『身体弱い説』はカモフラージュのフェイクなんじゃないかなぁ……。だとすると、8歳から兄の算術書を読んでいたというのも、好きでやっていただけではなく、一族の必要に応じて英才教育が施されていたという可能性だって出てくる。


 そんな空想はかく

 1664年に『修行』を終えた益軒先生、帰国するや医者としての仕事のかたわら、藩校で朱子学の教授を務める。

 ――ばかりでなく、朝鮮通信使の対応を行い、佐賀藩との境界争いを解決する。

 それだけでもトンデモナイ有能テクノクラートさであるのに、更には福岡藩領を隈無くまなく歩いて、地形・人口・各種生産量・風習を把握し、農業指導も行っている。(この知見は後に『筑前国続風土記』として纏められ、1703年に光之に提出されている。)


 結婚したのは1669年39歳のときで、お相手は17歳の初さん。なんと歳の差22の初婚である。二人はものスゴク仲が良かったらしく、夫婦でやたらと旅をしている。また初さんが62歳で亡くなると益軒もみるみる弱って、後を追うように1年後に没している。


 200冊以上の本を書いた益軒先生だが、本格的に執筆に集中したのは1699年に70歳で引退してからのこと。それまでにも度々”隠居願い”を出していたのだけれど、優秀過ぎて藩から慰留され、引退が許されなかったんだそうだ。

 有名な著作物として

大和本草やまとほんぞう:漢方薬の処方・注釈書に止まらず、薬草ばかりでなく多岐にわたる動植物を詳細に観察して記録した日本初(?)の博物学書。だから益軒先生は、日本博物学の巨人 南方熊楠の大先達であるとも言える。

養生訓ようじょうくん:大ベストセラーとなった健康ハウツー本。平成になっても文庫本が手に入る。「女子供でも読めるように」と平易な文章で書いてあり、中学生だったら内容が理解できるだろう。『接して漏らさず』という有名なフレーズが記してあるのが、この本。

の2冊を上げたい。


 こんなマルチな才能を持った人物だから、エレキテルの平賀源内ひらがげんない(1728-1780年)みたくIF歴史モノに登場しても不思議ではないと思うんだけど(僕の本の読み方が足らないせいか)あまり活躍しているのを見たことが無い。

 本草学者で医者で殖産事業家なトコなんか、似ているのになぁ……。


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