カヤキ4 薩摩藩氏はパスカルの生まれ変わりでは有り得ない件
「それではちょっと失礼して、船と連絡をとりますね。」
僕は江里口さんに断わりを入れると、本堂の隅に置いてある通信機を持ち上げて縁側に出る。
ハンディートーキーではなく、通信兵が背負って前線で使用する本格的なヤツだから本堂の中で使っても使用には堪えると思うんだけど、開けた場所の方がより電波の通りが良いだろう。
ポータブル・ラジオセットにホイップアンテナを捻じ込んでいると、興味深々という感じで若侍さんが覗き込んできた。「なんですかな? それは。」
僕は作業を続けながら「無線電話ですよ。」と答える。「歯の治療をした患者さんの具合を報告するため、船の医者殿と話がしたいもので。」
「話をする? 半里(2㎞)は離れておりましょうに!」
若侍さんは、ひどく魂消たようだ。
江里口さんはそれを見て
「御蔵の方々には、それしきの隔たりは無いも同然なのですよ。」
と笑う。「あたかも隣に佇んでおるがごとくに、声が通るのです。」
そして「初めて目にした時は信じられない思いでしたが、カラクリの力を用いれば苦も無くそれが行えるのですなァ。」と付け加えた。
「このアンテナだと、話しが出来る範囲は2里(8㎞)くらいですかね。アンテナ線を竿に付けて高く伸ばせば3里(12㎞)から4里(16㎞)先にでも電波は届くでしょうけど。」
僕はスイッチを入れて送受話器を耳に当てる。「こちら片山。夕潮、聞こえますか? どうぞ。」
反応は直ぐに有った。当直の通信士さんだ。(昨日、長距離通信用にモールス信号の練習をつけてくれた人だね。今日は打鍵じゃないからスゴク楽ちん。)
『こちら夕潮、感度良好。片山くんか。伊能先生だね、すぐ来てもらうから、ちょっと待っててくれ。』
僕は通信士さんに「片山、了解しました。このまま待ちます。」と返してから、若侍さんに
「船と電話が繋がりました。今、医者先生を呼んでもらっている処です。」
と状況を説明する。
僕が手に持っている送受話器に、耳を押し当てるようにして息を殺していた若侍さんは
「いや実。……嘘だとは思うておりませなんだが……本当に遥か彼方と話が出来るのでありますな!」
と目を白黒させて『嘘だと思ってはいなかった』なる言い訳も含めた支離滅裂な反応。――いや絶対、疑ってたでしょう? ちょっと混乱しているようだ。
「ご納得いただけましたか?」と僕は穏やかに応じてから「お医者との話す内容は、患者さまのプライバシーに関わりますから、ここから先は聞き耳を御遠慮願いたく。少し距離をお願いします。」と離れていてもらうよう要求した。
「はあナルホド。……ぷらいばし?……は肝要ですなぁ。」
若侍さんは”プライバシー”という単語は分からなくとも、少なくとも『他人が勝手に立ち入ってはイケナイ部分』という風に意訳して理解してくれたようで、江里口さんと一緒に座敷の中に引っ込んでくれた。
そうこうしている内に夕潮の通信室に伊能先生が到着したらしく
『どうだ片山くん? 特に問題は無かろう。』と話し掛けてきた。『今夜一晩はソコソコ痛むはずじゃが、痛いイタイと騒ぐ御仁ではないようだから。』
「背筋を伸ばして読書しておられました。洋灯の明かりが勿体無い、って。追加の鎮痛剤もいらないそうです。」
伊能先生は、ハッハッハと通信機の向こうで笑ってから『薩摩ッポウは剛毅よな。本人がイランと言うなら、放っておいたら良い。また明日、様子を診に行くから。』と僕に指示し『痛みを紛らわすために学問とは、パスカルの生まれ変わりかな?』と感想を述べた。
パスカルが歯痛を紛らわせるために正弦の定積分法を編み出したのは1658年のことで少々先の出来事だから、先生の見立ては――指摘するのも野暮だから口には出さないけれど――間違っているハズ。
ただ先生が無駄口を叩いていたのは意味が無かったわけではないらしく、ちょっと話難い件を切り出す切っ掛けが欲しかったのがその意識の下に有ったようで
『明日、夕潮は早瀬の到着を待って、入れ違いで御蔵島に戻る。岸峰君と雪ちゃんは、帰還組に入る予定だ。自分も、そうした方が良い、と彼女らに助言した。』
と真面目な声に戻って話を続けた。




