豪雨の上虞9
白襷隊を率いて中央大路を北上していた張孟衡は、敗走してくる田雄隊の兵と遭遇した。
想定外の事態というわけではなかったから、予定通りに大路の中央部分から敗残兵を後送し、白襷隊は前進を継続。ほどなく、田雄隊に追い打ちをかけている清国兵を眼前に捉えた。
精魂尽き果てて足取りも覚束ない敗走兵とは違い、清国兵は高揚感に突き動かされて剣を振りかざし、鬨の声を上げ続けていたから、両者の区別はすぐに付いた。
清国兵は白襷隊を新たな攻撃目標と看做し、田雄隊を破った勢いのままに殺到してきたが、白襷の逞兵は、気炎のみで戦技の伴わない新兵集団の突進を槍衾で易々と受け止めると、藁人形でも相手にするようにズブズブと芋刺しにした。
清国兵の最前列は、先に屠った敵との余りの強さの違いに驚いたが、悲鳴を上げる以外、何もできないままに泥水の中に転がった。
敵味方の距離が狭まると、白襷隊からは倭刀装備の剽悍な兵が躍り出て、枯草でも刈るように清国兵を切り捲った。
未熟兵はツツッと間合いを詰めてくる戦い慣れした白襷兵に対処できず、手元まで飛び込まれると長柄槍の柄ごと袈裟切りにされた。
また槍を捨てて腰の剣を抜いた清国兵も少数いたが、剣の短いリーチではとても倭刀に抗し得ず、腕や手首を落とされて戦闘能力を失った。
白襷隊は一当てで敵の攻撃を粉砕すると、逃げ出した清国兵に追い打ちはかけずに、張孟衡の号令で田雄隊の生き残りを収容しながら後退した。
この判断は、評価が分かれるところである。実際に上虞攻城戦が終結した後で、温州軍内部で議論の対象となっている。
清国兵の未熟さは戦った時の手応えで明白であったから、積極的に戦果を拡大すべきであったとする言い分と、敵戦力の詳細(増援分)が全く分からない以上、深追いを避けて味方の戦闘力を温存したのは妥当とする言い分の二つだ。
ただし田雄隊が壊滅した直後の戦場に於いては、張孟衡の選択に異を唱える者は出なかった。
張孟衡が攻撃発起点である南門近くにまで兵を下げた事に対し、馬得功はその判断を了としたし、顧炎武もそれを支持した。
理由は分かりやすい。
田雄隊の生き残りに休息を取らせ、再編する必要があったからだ。
戦場では将を失った隊は、兵が逃散して消滅してしまう事がまま有るものだが、田雄が戦死したのが敵城内での出来事であったため、田雄隊の敗残兵は比較的纏まって白襷隊に収容されている。
修羅場を潜った経験を持つベテランは、新兵には無い靭性を備えるものだから、今後の清国との長い戦いを考えれば、無駄に消耗させてしまうわけにはいかなかった。
さて、張孟衡が引き上げてくるまでの間の、馬得功と顧炎武の行動である。
馬得功が配下の兵団を上虞城南部分の面制圧に投入したことは先に述べたが、彼は手元に残した予備兵力に、検疫済みの建物を接収し湯を沸かすように命じている。
清国兵は付け入りを受けて退却準備をする間も無く後退したから、井戸に毒や汚物を投げ込んで汚染するトラップを仕掛ける暇は無かったはずだが、豪雨によって流れ込んだ下水で井戸の水質が悪化している可能性は捨てきれない。上部が開放された井戸の持つ欠点である。
天水桶の水を、湯と湯冷ましにすることによって、安全な水を確保したわけだ。
ここに顧炎武の郷党が、当座の食い物を携えて到着した。
馬得功は郷党の到着を喜ぶと、配下の予備兵力が行っていた作業を引き継ぐよう依頼し、予備兵力の将兵には城壁上の回廊に登って、清国兵が詰めている城壁上の望楼や監視廠を攻略するように命じた。
攻略部隊は楯をかざして前進し、いくつかの監視廠を奪ったが、西門や東門を守る大型の望楼は陥落させることが出来なかった。
門を守る望楼には広い屋根と煉瓦造りの壁があって、そこからは雨の影響を受けずに清国兵が火縄銃を撃ちかけてきたからだ。また清国側は望楼の守備に弩も投入しており、鳥銃射撃の合間には銃眼から矢も射かけている。
攻略部隊は狭い回廊を慎重に前進し、距離を詰めてから突撃を敢行したが、兵の行動範囲が限られているために肉薄攻撃に至る以前に射すくめられて攻略は頓挫した。
ただし清国兵も望楼から出てこようとはしなかったから、両者距離を保ったまま城壁の上で睨み合いの膠着状態に入った。
程なくして顧炎武自身が増援を率いて入城し、温州軍側の戦力も多少は充実してきた。
張孟衡が後退してきたのも、丁度このタイミングである。
顧炎武は天候が回復してきたこと理由に、城外で待機している鳥銃隊を呼び寄せることを提案した。
また田雄隊の生き残りに食事と休息を取らせ、白襷隊と馬得功の配下にも守備を増援の兵に引き継がせて少し休ませるよう同意を得ている。
夜が近づきつつあり、清国軍・温州軍ともに戦闘行動は下火になっていた。




