豪雨の上虞7
張孟衡は、後から駆け付けて来た者まで含めて白襷隊を集結させると、南門から城内に進入した。
馬得功とは大まかな打ち合わせを済ませた上での行動だ。
彼は雨が小止みになりつつある事には気付いていたが、城外の建物内に待機させている鳥銃隊を運用できるまでには回復していないと判断し、連れて行くのは槍や剣など冷兵器で武装した兵のみにした。
銃手に剣を持たせて、単なる歩兵として投入するのは避けた格好だ。
――城内に攻め込んだ兵団が総崩れになった場合、鳥銃隊の待ち伏せ位置にまで退却すれば500丁の鉄砲の力で、籠城側の追撃を何とかそこで押し返すことも叶うだろう。
それが彼と馬得功とが出した結論だった。
付け入り部隊が勢いのままに政庁社殿を陥落させてしまうならばそれはそれで良く、田雄から「無用な心配をしたものよ!」と皮肉を言われるかも知れないが、我慢して田雄の勇を称えれば済む。
しかし、仮に籠城側に援兵が到着していて兵力が互角であり、城市内の至る所で乱戦となってしまうような事態になると、攻め手側としては一旦城外にまで兵を引かないと収拾がつかなくなる事も有り得る。
撤退戦を演じなければならない破目に陥るかもしれない事を、少なくとも頭の隅には置いておかねばならなかったのだ。
張孟衡は白襷隊を二つに分けると、中央大路の両側に沿って前進を開始した。
大路の真ん中を空けておくのは、仮に田雄隊が後退してくる事があれば空いた穴で退却部隊を通過させ、白襷隊が大路の両側から敵の追撃を受け止めるためだ。
一方、馬得功は配下の兵団を大まかに四つに分けると、それぞれ担当する小路を定めて北上させた。
籠城側の兵が小路や路地を通って南門に浸透するのを防ぎ、占領地域を確定するのが目的である。敵兵の居ない検疫済みの領分を確保するため、と言い換えても良いかもしれない。
野外での会戦と異なり市街戦が厄介なのは、補給路や退却ルートを本道を迂回した敵兵によって脅かされやすい事と、戦闘が建物一つ一つを巡っての白兵戦の連続となる事で、兵力は集中して運用することが肝要と分かっていても『集中させることそのもの』が端から難しい、という性質を持っているからだ。
だから会戦では双方の総兵力の多寡次第で勝敗が簡単に決してしまう傾向が強いのに対し、市街戦では少数の敵兵にでも『部分的な優位』を占められてしまうと思わぬ苦戦をさせられてしまう事がある。
幸い――と言ってよいのかどうかは判断が分かれるところだが――馬得功は駐屯していた経験がある以上、上虞の城市内部の様子は知悉していたから、田雄への援兵は張孟衡に譲り、面倒な”市街戦の面制圧”を買って出たのだが、田雄の軽率さには腸が煮えくり返る思いだった。
――大馬鹿者め! 敵兵力も探らずに、うかうかと付け入りを仕掛けるとは。
攻城側の勢いが勝っている間は、攻め込んだ兵士が戦う相手は、ほぼ敵籠城軍正規兵ばかりで済む。
攻め込まれた側の”非戦闘員”は、自分と家族の身の安全のために大人しくしているものだからだ。(籠城側が住民を根こそぎ兵士として動員していない場合の話。矢石運びや飯炊きなどに使役されていることもあるが、民兵として編成された上で然るべき指揮官がいなければ、自発的・積極的に攻めかかってくることは少ない。)
しかし形勢が逆転して攻め手が不利と見るや、それまで黙って成り行きを見守っていた住民は、女子供に年寄までもが鍬や鎌、棒切れまでもを振りかざして襲ってくる。
街を荒らされた恨みからばかりではない。落ち武者狩りに参加して、物品や栄誉といった利益を得るという目的もあるからだ。
馬得功は「逃げ遅れた者には手荒な真似をするな。捨て置け!」と厳命しながら配下を送り出した。占領後の統治を考えての措置だ。
ただし「歯向かう者は切れ! 女子供とて、容赦不要。」と付け加えるのは忘れなかった。




