豪雨の上虞1
寧波飛行場の天幕で、最後まで指揮を執っていた轟中尉は総員退避を命じた。
激しい風雨による浸水で、天幕の中に居ても軍靴の踝までが水に浸かり、これ以上持ちこたえるのが不可能と判断したからだ。
天幕の周囲には、水はけ用に深い溝を掘ってあったのだが、降水量が多すぎて全く役に立っていない。
港近くの低地に仮設していた飛行場には、全天候型の98式直協機2機が残置されたままだが、泥田のように水浸しの滑走路では動かしようが無い。
このままにして行くより他なかった。
天候が回復したら、オーバーホールが必要になるかも知れない。
御蔵島の航空隊司令部では、98式直協の主武装を7.7㎜から12.7㎜に換装する計画を進めているから、オーバーホールをするならば、この2機はその実験機に用いればよいだろう――轟は水に浸かった飛行場を見ながら、そんな事を考えていた。
幸い気圧の急激な低下が観測されていたために、台風並みの低気圧の接近が予測され、複葉機の94式偵察機は前以て舟山空港や御蔵空港に移動させてあったし、寧波飛行場の器材や発電機・通信機なども旧寧波城跡高地に築いたプレハブの倉庫や兵舎に緊急移送させてあった。
甬江の水位も上がって、桟橋に停泊していた御蔵軍船舶は金塘島付近の沖合もしくは急遽舟山港にまで避難していたが、河口部に集結している福州や温州軍の軍船には特に動きは無い。
軍船の喫水が浅いせいもあるかも知れないが、外海での渡洋性を重視してローリングやピッチングに対しての復元性に重きを置いている汽船よりも帆船はトップヘビーにならざるを得ないから、低気圧が近づいている時に沖に向かうという選択肢が選べず「仕方なく」という事なのかも分からない。
中尉は総員退避とは言っても、ハンディトーキーを手に高機動車と輸送トラックに分乗して寧波城跡陣地へと向かうだけでよかった。
福州水軍を追尾していた温州商人たちは既に寧波市街に入っていたし、車騎将軍配下の飛行場守備隊は各々港湾近くの壊れていない建物へと雨を避けていたから、人気の無い寧波飛行場に残された天幕は、車上の中尉の目にひどく”ちっぽけ”な存在に見えた。
轟中尉が寧波城跡陣地に着くと、ミラー中尉が部下を指揮して台風に備えて建物を補強したり重機で追加の排水溝を掘ったりしているところだった。
ミラー中尉はポンチョ姿で雑な敬礼をすると、轟に「君が最後か?」と訊ねた。
轟は答礼しながらジープを降りると「ああ。」と頷いた。
「滑走路は最早、泥沼だね。飛べるようにするには雨が上がった後、土か砕石を入れてドーザーで整地しなきゃならん。」
それを聞いたミラー中尉は「じゃあ、しばらく航空偵察は無理だな。」と舌打ちした。
「車騎将軍は、いよいよ寧波を出発する段取りを付けていたのになぁ。とりあえず中で熱いコーヒーでも飲んでいてくれ。」
轟中尉は雨天外套の雨粒を叩くと「まあ、ここからは飛べないね。」と答えた。
「”ここから”はね。」
話は少し遡って、嵊州の温州軍。
嵊州城で休養と再編を終えた温州軍は、いよいよ上虞攻略に向けて軍を動かした。
大軍だから、一度に全軍を動かすと混乱や渋滞が生じる。
先発するのは、嵊州で降伏した馬得功と田雄が率いる降伏兵部隊で、督戦隊として張孟衡の白襷隊が先発隊の後詰を務める。
馬得功と田雄とが先鋒に立つのは、彼らが強く志願したためだ。
また先発隊の参謀を命じられたのは、郷党の義勇軍を率いて魯王(監国)の下に馳せ参じた顧炎武であった。
顧炎武は嵊州無血開城の立役者だったから、今回もその手腕が期待されての登用である。
上虞守備隊が嵊州同様、弘光帝に臣従を誓えばそれで良し、歯向かう場合は監国が着陣した後に総攻撃に移ると決められた。
総攻撃の時までには、寧波を下した車騎将軍(鄭芝龍)の軍も上虞近郊にまで進出してくるであろうから、清国側が上虞で堅く守りを固めていようとも、温州兵と福州兵とが二正面から攻撃を行えば上虞を抜くのは難しくあるまいというのが、魯王の考えであった。
――南明朝で監国の地位を固めるのであれば、露骨に功を焦るより、車騎将軍と戦果を分け合って上手くやる方が良いだろう。
魯王の決定は一見すると消極的に見えなくもないが、大将軍である唐王が車騎将軍の嫡男である福松を自軍の軍師としているのを考慮に入れての、政治的な判断である。
一つ”気がかり”なのは、嵊州の郊外に住む古老が
「どうも強い嵐が迫っているようで。」
と文官を通じて魯王に進言してきた事だ。
温州軍は鳥銃の集中運用で、今までの戦闘を有利に進めてきた経緯がある。
嵐の中では火縄が濡れて鳥銃は使えまい。
魯王は先発隊に「嵐が近づいている。軽挙は慎め。」と伝令を飛ばした。
騎馬伝令が先発隊に追いついたのは、先発隊が上虞の城市を指呼の間に置いたタイミングだった。
馬得功と田雄は、上虞から嵊州に向けて進発した時には殊更にノロノロと前進したのだが、今度の上虞攻めでは監国に良い処を見せなければならず、督戦を司る張孟衡が驚くほどの速度で急行を続けたのだ。
その勢いといったら、街道を固めていた清国側の検問や小砦の守備兵が、分けも解らない内に次々に粉砕されてしまったことからも見て取れる。
守備兵側にしてみれば、数日前には友軍として見送った旗印が、今度は敵軍と化して奔流のように流れ込んできたのであるから、干戈を交えるどころの話ではなかったに相違ない。
嵊州にいた伝令役の女真族騎兵は、馬得功の策によって嵊州開城以前に予め磨り潰されていたから、馬得功や田雄の率いている軍勢が南明側へ寝返っていることすら知らなかったのだ。
だから上虞近郊にまで進出した先発隊の軍功は、馬得功と田雄の手柄であり、顧炎武と張孟衡はほとんど仕事をしていないと言える。
けれども、顧炎武と張孟衡は特に馬得功らに嫉妬を覚えることは無かった。
馬得功と田雄とが自分の立場を強化するために、今回の上虞攻めでは死に物狂いで戦うであろうことは予想の内だったからである。
「雨が降り出したら、鳥銃の扱いに難儀するな。火薬や火縄を湿らせる訳にもいかないし。」
伝令の報告を受けて渋い顔をしたのは張孟衡である。
先発隊の内、鳥銃隊を集中運用しているのが彼の兵団だったからだ。白襷隊は勇猛な突進で名を上げていたのだが、今回は後詰という役柄上、鳥銃兵500と弓兵500とが追加配備されていたのだ。
火縄銃が雨に弱いのは勿論だが、実を言うと弓矢も風雨の影響を受けやすい。
弓兵が用いる弓は合成弓だが、単純弓に比べればマシだとしても湿気を含むと照準が狂う。
しかも雨に叩かれれば放った矢の飛翔距離は縮むし、横風を受ければコースがぶれる。下手をすると長槍より遠距離攻撃力が劣るという事だってあるのだ。
その上、弦が切れやすくなる。
弓兵は予備の弦を複数本(だいたい3本程度)は携行するし、弦は膠や漆あるいは血渋といった材料で一応の耐水・耐湿加工は施されているとしても、もともと消耗品なのである。
「軽挙は慎め、というお達しなのですから、陣を張って勢を示せば良いでしょう。」
そう意見したのは顧炎武だった。「監国様が到着されるまでは、降伏勧告と威圧を行うのが我らが務め。城兵が突出してくれば勿論打ち払いますが。」
その時、「勧告の使者、是非とも自分が務めたい。」
そう言い出したのは馬得功だった。
上虞近郊には騎馬伝令からもたらされた予言通り、大粒の雨が落ち始め、風が強くなってきつつあった。




