ハシマ23 奉行所調役 牛込宗成氏が挙手の礼を嫌がる件
「千石船みたいな大きなヤツが来るかと思ったら、バートル級に毛の生えた様な船か。ちょっと拍子抜けだね。」
双眼鏡を覗きながら、乙型艇の篠原艇長殿が感想を言う。
長崎から高島に乗り込んで来た筵帆の和船が、30m弱の全長しか無かったからだ。船幅も7~8mくらい。
御蔵島沖の水上交通遮断作戦で交戦した舟山賊軍船の等級でいえば、確かに宝船級の大きさには及ばず、大きめのバートル級である。
37㎜砲を使うまでもなく、重機関銃でも撃沈可能なサイズだ。(但し第二次世界大戦の時、米軍機がドイツ海軍の駆逐艦をシツコイ機銃掃射で沈めている例があるから、重機の威力は侮れないんだけど。)
でもあの船、急いで用意可能だった船の中では、最大級のはず。
「いえ、あれが千石船なんです。教科書に出て来る弁財船っていうタイプです。え~っと、貨物積載重量が100から150tくらいなはずです。どうでしょう、長崎にあった船の中では、南蛮船を除けば最大級じゃないんでしょうか。」
僕は予め予習しておいた知識を述べる。(長崎遠征で、どんな船に遭遇することになるのかは重要だったから、この項目は予習から外せなかったんだ。)
「幕府は海外渡航を禁止するため、諸大名や貿易商が持っている500石積み以上の貨物船を一時没収していましたから、あれは奉行所の持ち物なのでしょう。でも、その没収命令は何年かで解除されたんで、返してもらった大村藩だかの持ち物である可能性も有りますけど。」
幕府天領の長崎は、ぐるりを大村藩に囲まれているし、大村藩は一応「親戚筋」とされている。まあ『願譜代』っていう”名誉親戚筋”ってヤツだ。
ただ、大村藩自体は総面積における水田耕作面積が極端に狭く、名目43,000石弱(藩主直轄23,000石)しか無い経済的にはキビシイところのある藩である。
「それより、注意すべきは回りにいる艀級です。あの小さい矢倉が載ってて、何枚も楯を並べているタイプ。小早とか小早船っていう軍船です。関船よりは小型だけど、片舷に8~20丁くらいの櫓を持ってる駆逐艦とか哨戒艇みたいな役回りの快速船なんで。」
関船が姿を見せずに小早が出張って来たという事は、関船は長崎港防衛の任務に就いているんだろう。
高島からは、武富さんとの打ち合わせ通りに白い狼煙が上がっているから、小早も千石船も敵対行動を採る心算は無いらしい。
もし幕府側が敵対行動を採ると武富さんが判断すれば、黒い狼煙が上がっているはずだ。
古狸の武富さんの判断なら、ます間違いはないだろう。
黒狼煙の時には、幕府船の安全が確保出来る程度離れた水面に、15迫か10加で威嚇射撃を加えて、穏やかに交渉の場に出てもらう予定だったのだけど、まあ何事も無くて重畳。
笠原機が機体をバンクさせて乙型艇の上空を飛び過ぎると、高島上空を旋回して援護配置に着いた。
「じゃ、自分らも行こうかね。デートで相手を長く待たせるのは失礼だからね。」
篠原艇長は全速前進を命じた。
高島の桟橋で高速艇を出迎えてくれたのは、武富さんと江里口さん、それに武富さんの上司らしい陣羽織の武士。その他のお侍は、ちょっと後ろに控えている。
接岸した高速艇からピョンと飛び降りて、略帽を脱いで陣羽織のお侍に一礼する。今日は端島の採炭現場視察だから、安全第一で作業服が礼服(で問題無い)。
……まあ実を言うと、一応これは打ち合わせ済み事項。
すると「これ、畏まらんか! 御家老の御面前であるぞ!」と武富さんから”予定通り”にカミナリを落とされてしまった。
陣羽織の一見”にこやかな”ナイスガイは、深堀領主で佐賀藩家老の鍋島安芸守様で間違いない。
僕は大慌ての風を装って、敬礼!
武富さんも「何をしておる、頭が高い! その場に直れと言っておるのだ!」と、そちらも慌ててみせている。僕らに土下座を要求しているわけだ。
ここで、すいっと篠原艇長が歩み出て
「捧げェ 筒ゥ!」
と大号令をかけた。
機関長を除く5名の高速艇の乗組員も、整列してそれぞれM1カービンやBARといった個人装備の小火器を身体前面に立て、捧げ筒の最敬礼を送る。機関長は艇の重機関銃の横で挙手の礼だ。
「なんだ? その仕草は?」
驚いた風の声を出す江里口さんに「最高の栄誉礼ですよ。」と篠原艇長殿が説明を入れる。「帝より閲兵を賜る時にも、この礼をお送りいたします。」
「お聞きになりましたか、御家老。」武富さんが、大声てビックリしてみせる。「あの仕草が御蔵の最高栄誉礼とのことでございますぞ。……いやはや、所変われば品変わると申しますが、これは驚きでございますな!」
「なるほど、目庇に右手を宛がうのと、筒先を天中に向けて鉄砲を押し頂くのが、最高の栄誉礼であると申すのだな! しかも天朝様に礼を尽くすにも、あの仕草をせねばならぬとか。ここは拙者も従わねばなるまいな。」
安芸守さまは(わざとらしく)大声で感嘆してみせると「では、この通り。」とカッコ良く挙手の礼を決めてみせた。
御家老さんの横で、武富さんと江里口さんもビシっと敬礼を決める。
……もう言うまでもないと思うけど、昨日の宴会の時の打ち合わせ通りである。
ちょっとアルコールが入っていたこともあって、みんなノリノリだったから。
(ちなみに素面だった僕や岸峰さんは、いくら何でもフザケ過ぎなんじゃないかって、ちょっとだけ心配していた。けれども早良中尉殿は――酔っている感じは全然無いのに――「そのくらいやって、長崎のヒトたちには違いを認識してもらった方が、この先、楽でしょうね。」と賛成だったんだ。)
武富さんは、長崎からの千石船や小早に先行して、深堀領蚊焼村から艀で急行して来た御家老様に、入念に敬礼の方法を伝授してくれたらしい。
さすがはソフィスティケイテッド・ラクーン・ドッグ。
ナイスガイの安芸守さまも、スムーズにこの一連の小芝居に乗ってくれてるところを見れば、そうとう出来るヒトみたいだ。やはり御役目がら、一本調子な人では務まらないポストなんだろう。
「ささ、皆様がたも。」安芸守さまが、後ろで固まっているお侍たちにも敬礼を促す。「礼に応えるに、礼をもってせねば、遺恨となりましょう。」
佐賀藩家老に要請されて、後ろで成り行きを見守っていたお侍たちも、慌てて敬礼を真似る。
けれども「初めての敬礼」だから、サマになっていないこと夥しい。
彼らは武富さんの予想によれば、長崎奉行所勤務の与力と同心、それに長崎に蔵屋敷を持つ藩の情報収集将校である『長崎聞役』であるものと思われる。
この会見の場に、”いわゆる武装兵”の姿が見えないけれど、彼らは弁財船と小早で待機しているのだろう。たぶん古狸の武富さんが「戦などではございませぬよ。天朝様の隠れ里より参った御親兵との親睦の場でございますぞ。」とか、弁論を駆使して丸め込んじゃったに違いない。
福岡黒田藩と佐賀鍋島藩とが、年替わりで長崎警護役を幕府から仰せつかっているわけだから、今年が福岡藩の持ち回り年であっても佐賀藩の意向の影響は大きいわけで。
でも一人だけ、空気を読まないというか、場に流されないというか、ガンとして答礼をしてこない人がいる。
武富さんが「さ、さ。調役様も、早う。」と急かせても、一歩も譲らない。
調役、と呼ばれていることから、その陣笠・陣羽織のお侍が長崎奉行所調役の旗本であることが分かった。直参旗本、いわゆる江戸幕府における御殿様の一人である。
長崎奉行所では二名の「長崎奉行」の下に「支配組頭」がいて、支配組頭が「支配下役」「支配調役」「支配定役下役」を管理するという構成になっている(はず)。
奉行は1,000石以上の大身の旗本で、一年毎に江戸・長崎で交互に勤務する。
江里口さん情報だと、現在、その任にあるのは「馬場利重」と「山崎正信」の二名で、今年は禄高2,600石の馬場利重氏が長崎詰めの番。
奉行より下の役職には、1,000石未満の小身の旗本が着任するわけだから、この調役は数百石取りの御殿様だと考えて間違い無い。
まあ名目数百石でも、長崎勤務だと付随する『役得』があるだろうから、所領から上がる収入よりも裕福ではあるだろう。
ちなみに、ここより下の役職である与力・同心は、能力を買われての一代限りの役職で世襲職ではない。
所領も決まっていなくて扶持米と呼ばれる年俸制だ。
区分も「御殿様」ではなく「御家人」というステータスである。
(ただし世襲ではないと言っても、仕事をする上では職務に通じている必要があるから、実際には代替わりがあっても子供か養子がその職を引き継ぐことが、往々にして行われていたようではあるけれど。)
で、その調役サマだ。
武富さんに敬礼を促されても「その様な作法は、諸士法度には、ござらぬ。」と言い出した。
武家諸法度という法令は、大名向けの法令として日本史の教科書には必ず出て来るからメジャーだけど、諸士法度というのは、それの旗本以下向け版。
「長崎奉行支配調役 牛込宗成、調役の責により、諸士法度によらぬ礼には応じられぬ。」
頑固で真面目で融通の利かないヒトなのか、それとも袖の下みたいなものを、暗に要求しているのか……。




