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それぞれの思惑(温州軍)3

 反乱のために着々と手を打っていた馬得功だが、真意は田雄にも打ち明けてはいない。

 ――彼奴きゃつめは、明の旗の下に再び馳せ参じれば容易く受け入れられるだろうと、事の次第を軽く考えている……。何の策も持たずに魯王の所に出向けば、その場で首を刎ねられることだって有り得るのにもかかわらず。


 そう慎重に成らざるを得ないのは、弘光帝が応天府から姿をくらます時点で、自分らが弘光帝の総軍官であったという過去があるからだった。

 彼は、帝が逃走したのは、田雄(と自分と)が帝をドドに売ろうとしているのを察知されたためであろうと、正しく理解していた。

 ――一度は明を裏切ろうとしていた者を、受け入れる度量が魯王にあるだろうか?


 許しを乞わなければならない相手が、仮に「果断」な唐王であったならば、十中八九は死を賜ることになるのは疑い無い。唐王なら、明国と皇帝に叛こうとした「けじめ」として、他の将兵を許す代わりに、我らを処断するであろう。

 ただ、魯王はどうであろうか? 彼は元々、弘光帝とは皇帝の座を争っていた人物であるし、帝位に着いた弘光帝の愚鈍さ・無能さを苦々しく思っていたとも考えられる。明国復興のためという大義名分があれば、弘光帝に叛こうとした我々でも、目を瞑って味方として処遇してくれるのではあるまいか? いや、むしろ高く評価してくれないものとも限らない。

 (この時の馬得功は、自分がその弘光帝の下で、馬士英や阮大鋮ら宦官派人脈によって引き立てられて要職にいたという点を、自分に都合の良いように「忘れて」いる。人間は自分の過去に対しては自己弁護が強くなるために、どうしても自分の悪評に対する評価は甘くなるものなのである。)

 ――ならば密かに、嵊州の陣中にあって、内部から討魯王軍の弱体化を図ろう。降伏した後に、事の次第をつまびらかに申し開きをすれば、魯王としても”ゆるし”を与えやすかろうと云うもの。


 これが討魯王軍総指揮官二人の内の一人の、秘めたる『決断』であった。


 馬得功は物見や伝令のもたらした魯王軍や新倭寇の情報を研究すると、嵊州の将兵に向かって

「敵は『降参したくば、武器を捨てて白旗を持ち、我が傘下に来たれ』と誘いをかけてくる。また『城や砦ごと寝返るのであれば、門を開き城壁に白旗を挙げよ』と脅しをかけてくるぞ!」

と訓示した。

 「誘いに乗ってはならぬ。敵の甘言に耳を貸すな!」というのが、訓示の表向きな”結論”であるのだが、何の事は無い、配下に大々的に『降伏の作法』を教示しているのである。


 これには流石に田雄も苦言を呈したが

「田雄殿は何を言っておられるのか? 相手は斯様かよう姑息こそくな手法を以て開城を誘ってくるのだ。敵のやり口を熟知しておらねば、易々と敵の手に乗ってしまうであろう。」

と取り合わなかった。

 上下一体化した士気が高い軍勢であるならば、馬得功の訓示は守城の心得こころえとして一概に非難されるべきハナシではない。ただし、今の決して戦意が高いとはいえない陣中にあっては、兵に逃亡や降伏の正しいやり方を示唆する『悪手あくしゅ』であろう。

 それを堂々とやってのけたのだ。


 当然兵の中には、それも古参の部下には馬得功の意図を察した者もいた。

 ――総兵官は、魯王に降る心算に違いあるまい……。

 ならば匪賊に喰われる危険を冒してバラバラに逃げるよりも、総兵官の指揮下で一丸となって降伏する機会を窺う方が、安全に生き延びることが出来るであろう。

 馬得功の訓示以降、古参の兵は周囲の新参の動員兵に、それとなく「堅く城を守るべき理由」を耳打ちするようになった。


 以上のような複雑に絡み合った打算から、それまでは櫛の歯が欠けるように陣から消える兵が続出していた嵊州の陣であったのだが、逆にパタリと逃亡兵が出なくなったのであった。

 物事は、それを企画した人物の思い描くようには進まないことも、この世にはままあるのである。





 臨海を下して北進する魯王の下には、清軍からの逃亡兵・降伏兵、匪賊・流賊などが次々に合流していた。『今関羽』と呼ばれるようになった関仁などもその一人である。


 それ以外にも在野の有力者が、義勇軍を組織して参軍している例もある。

 顧炎武こえんぶ黄宗義こうそうぎといった『復社ふくしゃ』党系の人物である。

 復社とは、史可法や銭謙益ら東林派の流れを継承する派閥であり、弘光帝が帝位に就くと馬士英や阮大鋮らから弾圧を受けて地方に雌伏しふくせざるを得ない立場に追いやられていたのだが、魯王の派閥とは元々親近性があったから、魯王が兵を挙げると「反清援明」を叫び、呼応して兵を興したのだった。


 顧炎武や黄宗義の思想は、「学問とは、四書五経に注釈を加えるだけの社会から乖離かいりしたものであってはならない。現実の社会問題を改革するためのものでなくてはならないのだ」という『経世致用けいせいちようの学』であり、率いる義勇兵も彼らの思想に傾倒している郷党きょうとうであったから、戦意は群を抜いて高かった。

 ただし、顧炎武や黄宗義は”実学”を標榜しているといっても思想家・学者・社会改革者のたぐいであって、専業の武人や兵站線へいたんせん管理の実務家という訳ではないし、これまでに大軍勢を率いて戦場を駆けた経験も無い。それぞれが率いている兵卒の数も千名に満たない小勢である。


 魯王としても、彼らの優秀さを高く評価はしていたが、だからといって未経験者に戦争の『実務』を丸投げにしてしまう事も出来ない。

 根幹の部分では高い能力を持っているのだから、清との戦が終わって明国復興の時が至れば高い地位に引き上げるとしても、今はまだ武力がモノを言う段階である。彼らには経験を積んでもらわなければならないのだ。

 魯王は二人を参謀格の客将として幕僚に加えると、配下の宿将しゅくしょうに陣中での有り様を教育するよう命じた。


 と・こ・ろ・が、である。

 共に行軍する中で、理想家である顧炎武は、匪賊あがりの関仁とは、どうにもりが合わなかった。互いに相手の手腕は――アイツは俺に無いモノを持っている––と認めていても、細かな部分でどうにも許し合えない感情的な部分が出てくるのだ。

 郷土を守るために兵を挙げた顧炎武と、一度は匪賊として無頼の道に進んだ関仁だから、これは仕方の無いことであるのかも知れない。


 魯王は黄宗義と相談すると、関仁を車騎将軍(鄭芝龍)の寧海攻めに加勢させることに決めた。

 海から寧海を衝く福州水軍の陽動として、陸路から関仁は寧海に迫るのだ。

 関仁勢は、寧海を下した後はそのまま車騎将軍と共に泰化・寧波へと進軍する。

 参軍として関仁の軍勢に同行するのは黄宗義自身である。


 経世致用の学徒でありつつ優れた詩人でもあった黄宗義は、御蔵勢の持つ「新しい知の息吹いぶき」に明るく強い詩情を感じていたから、海に近い道を寧波へと向かう軍に同道することに何の異存も無かった。


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