それぞれの思惑(温州軍)2
全軍をもって魯王(温州勢)に当たるという選択肢が取れないとなると、次善の策としては
○全軍で新倭寇を攻める。
○一軍をもって温州勢に備え、残余の兵で寧波の賊を討つ。
の二つとなる。
全軍をもって新倭寇を攻めるという策を採った場合、問題になるのは大軍勢を目にした賊が海上に逃げてしまう可能性がある事だった。
敵は船を持っているのである。寧波に兵を進めても、海上に逃げた舟山賊は、場所を替えて杭州や上海に攻め込めば良い。追撃する船を持たない寧波の清国軍は、指を咥えて他城市が焼かれているのを見ているしかないのだ。
それに全兵力を寧波に込めて、再び有るか無いか判断のつかない倭寇の襲来に備えていたら、台州を落とした温州軍は易々と上虞にまで進出するだろう。上虞が敵に取られれば、補給路も退却路も失った寧波の清国軍は士気も乱れて容易く崩壊するに違いない。反乱を起こした兵は、ただ上虞の魯王の下へ奔ればよいのだ。魯王の温州軍が太る分だけ、寧波の清国軍は痩せていくのである。
そうなると軍略家の呉三桂にとっては甚だ不本意ながら、採れる策は『兵を二分する』の一つしか無い。
戦の要諦は『叶う限りの大兵力で敵を圧倒する』ことにある。
呉三桂は、敵を軽んじて兵を小出しにする将帥は愚将である、と考えていた。大軍勢をもって相手を圧倒すれば、戦果は大きく味方の損害は少なくてすむ。
にもかかわらず、小兵で大敵を破り我が勇を誇るのは愚かだ。――山海関で清の猛攻に耐えていた手練れの、経験に上書きされた実感であった。
しかし今は苦渋の選択として兵を二分せねばならない。ならば、どう分けるべきであるのか。
自分(呉三桂)と尚可喜とが、共に温州軍に向かって押し出せば、寧波の賊徒に相対するのは田雄と馬得功の二人になる。
仮に自分らが上虞から南下して天台か臨海で魯王と決戦するに至った時に、寧波の田雄らが崩れ上虞まで賊徒に侵されたならば、自分らの率いる軍も敵中で孤立し壊乱するであろう。大戦を戦うには「天の時・地の利」のみならず「人の和」が必須で、退路を失い動揺した将士を盛り立てて敗勢を立て直すのは困難なのである。
俗に言う韓信が採用した『背水の陣』など、戦の流れの上で”そうせざるを得なかった”だけで、卓抜した韓信の統率力と配下の兵の韓信への信頼が有ってこそ上手くいったから世に称えられているに過ぎず、歴史を顧みると同じような戦法を採用した場合には殲滅された凡将の方が多いのである。
ならば、ここは自分が新倭寇と決戦し、その間、田雄と馬得功を温州軍の足止めに向かわせるより他ないであろうと呉三桂は考えた。
尚可喜を田雄か馬得功と組ませ、残った軍勢と自分が組むとの選択肢は、露ほども彼の脳裏には浮かばなかった。
なぜなら「油断のならない味方は、時に敵より厄介」だからである。いつ裏切るか、いつ崩れるかも判らない味方など、同じ戦場に並んでいれば足手まといである以上に、そちらに警戒の兵力を割かねばならず、かえって戦力が低下する。
そこで呉三桂は田雄と馬得功を呼び寄せると
「貴殿らの兵の半数を、我が与力として寧波に連れて行かせてもらう。貴殿らは上虞から街道を南へ下り、台州から押し出して来る魯王を足止めして欲しい。我が預かる貴軍の兵力分を補うために、屈強な満州騎兵を貴殿らに与力しよう。賊徒を討伐した後には、我らも海路から台州・温州を衝く。退路を失した魯王は温州城に戻る事も叶わずに果てるであろうよ。」
と提案した。
田雄たちの軍から引き抜く兵は寧波攻めの弾除けに使い、代わりに付ける満州騎兵は与力であると同時に監視役の督戦隊だ。
田雄も馬得功も呉三桂の腹は読めていたのだが、置かれている立場上、提案を拒否することは出来ず従わざるを得なかった。
上虞を発った田雄らの討魯王軍は、少しばかりの移動距離を稼ぐと直ぐに大休止・小休止を挟むという極めてノロノロとした速度で「進軍」を続けていたが、嵊州に至って完全に腰を据えてしまい動きを止めた。
ただし、東陽方面・天台方面・泰化方面など、多方面に物見を出して情報収集だけは活発に行っていた。
初めは、その消極的な動きに批判的だった満州騎兵の将たちだったが、馬得功から
「よく物の道理を考えよ。我らの務めは、呉将軍が舟山賊を討伐し終えるまでの間、南明賊を上虞に近付けさせない処に在る。魯王が台州にあるからといって、闇雲に臨海・台州に押し出してしまえば、麗水を落とした唐王の軍が、永康・東陽を経て、この嵊州に殺到するのは火を見るよりも明らか。そうなれば慌てて兵を返しても、唐王の軍勢は遮る物も無く上虞を盗ってしまうであろうが。上虞が寧波防衛の肝であるが如く、この嵊州は上虞を保つための要地であるのだ。」
と論破されては言い返す言葉も無かった。
しかも嵊州で様子見を決め込んでいる間に、悪い噂だけは次々に伝わってくる。
曰く「寧波の湊を睨む城塞が、倭寇の猛攻に落城寸前。」
また曰く「倭寇は象山にも兵を送り込んだ。」
更に「臨海では城兵が清に叛き、南明に寝返った。」など、など。
それだけではない。物見に出した小部隊が、次々に姿を消して行くのだ。
中には、各地で土豪が組織しつつある援明義勇軍に喰われた部隊も居るのだろうが、逃亡して魯王の軍に投降した部隊があってもおかしくない。将ひとりの清への忠誠が高かろうとも、大多数の兵が逆らえば、弓か槍にかかって命を取られて終わりである。
そこで馬得功は、討魯王軍の主だった者を集めて
「いかがであろう。物見や援兵として嵊州から他所に遣わす将兵は、清への忠が厚き者を選抜して、その任に充てるべきではなかろうか。逃げたり叛いたりする者が混じっておれば、ロクな働きも出来ぬであろう故。」
と提案した。
これまでの分遣隊の顛末を見れば、その提案は無理も無いように思えたし、その措置に疑問を持った将領(主に満州騎兵の将校)も
「それでは貴公は如何なる名案を御持ちであるのか、とくと承ろう。」
と正面切って問い返されると、代案を出す事も出来なかった。
かくして嵊州の陣からは、清国に忠誠を誓った将兵は、ジリジリと小部隊に分割されて各方面に分派されて姿を消し、馬得功が魯王に寝返る機会は増大していった。




