それぞれの思惑(温州軍)1
天台から北進し、嵊州を陥落させて、交通の要衝である上虞にまであと一歩と迫った温州軍は、先を急がずに後続兵団の到着を待ちつつ休息を取っていた。
田雄と馬得功といった温州軍の重鎮武官は、温州軍先鋒の兵力でもって一気に上虞攻略を意見していたのだが、総司令官の位置にいる監国(魯王)が手綱を引き締めていたからだ。
田雄と馬得功は、弘光帝が南京(応天府)で明国皇帝位にあったときの総兵官である。
二人は南明の要職にありながら、ドド(清の摂政王ドルゴンの弟で予郡王)の率いる大軍が南京に迫ると、清に内応する気配を見せた。
しかし、その時南京に遊学していた鄭隆(雛竜先生)が、いち早く不穏な気配を察知して皇帝を遠く馬祖島に逃がしてしまったため、適当な「手土産」を持たない彼らは、地位を保ったままドドに降伏する算段も掴めずに、曖昧な立場のまま太湖付近に駐屯していたのだ。
そのような折に、舟山に興った新倭寇が寧波を侵しつつあるという情報を得て、田雄と馬得功は『倭寇討伐』という名分を以て杭州方面に軍を動かした。新倭寇という(ある意味「清」「明」両勢力にとっての共通の敵と認識されるであろう)賊徒討伐が目的であれば、予郡王ドドも悪い顔をしないだろうと考えたからだ。
明朝崩壊後の早くから清の武将として転戦していた呉三桂や尚可喜からは、彼ら二人は猜疑の目を向けられていたが、謎の新倭寇の猛攻は止まる処を知らず、寧波以外にも杭州・金山・上海が焼かれるに至っては呉三桂も折れ、共同戦線を張ることとなった。
寧波に次々と送り込んだ増援が、新倭寇の用いる不可思議な戦法でことごとく撃破された呉三桂にとっては、温州及び福州攻略の遅滞が案じられ、他に打つ手が無かったからだとも言える。
京抗大運河の出口である港湾を塞がれてしまっては、海路で兵力を移送することが不可能になるからだ。
幸い戦略物資は、既に攻勢発起点である台州城ほか台州の各城に大量に集積してあるため、兵を徒歩移動させる事は可能であったのだが、長距離を徒歩移動した兵は疲れもあって士気が下がる。
それに温州で戦うことになる相手は、数ヶ月前には同国人であり味方同士であった兵なのだ。清への降将である自分が、いくら言葉で鼓舞しても、兵には敢えて奮い立つべき動機が無い。「国家」という概念が希薄なこの当時の漢民族にとっては、不快に思う所の多い『明』という帝国ではあったが、明建国以前には、長らく蒙古族の帝国である『元』に支配を受けていたという記憶を引き継いではいたのだ。
その様に士気の低下した兵を以てしても、鎧袖一触で温州を屠るのには、あらかじめ舟山賊(新倭寇)を破り、彼らの持つ優れた軍船を手に入れておくべきという思惑が呉三桂には有った。
温州城攻囲戦が仮に長引けば、戦いに倦んだ元明国兵降参部隊が反乱を起こさないとも限らない。
――舟山賊を内陸に引き入れ、田雄や馬得功の軍を前面に立てて弾除けに使い、その隙に我が精鋭を進めて港に残った軍船を奪取する。田雄の兵なぞ屍を山と積むことになっても惜しくはない。
それが呉三桂の現状打開に向けての策だった。
通信機も航空偵察は存在せず、しかも兵の移動は徒歩か騎馬の時代である。
稀代の名将である呉三桂ですら、陽動や奇襲に関する戦術認識はその程度のものであった。
呉三桂はその計略を口にこそ出さなかったが「予郡王殿に厚く迎えられたくば、寧波における貴卿らの粉骨砕身ぶりを、お見せするより無いであろうと愚考いたしますぞ。」と念を押された田雄たちは、薄々その意図を察していた。
だが、全軍で新倭寇に当たろうとしていた彼らにとっては「寝耳に水」の報告が、遠く台州より早馬によってもたらされた。
『温州の魯王が動き、脆くも台州が落ちた』と言うのである。
台州城の莫大な戦略物資を手にした魯王は、その勢いを以て諸城を下しながら北上中であると伝令は告げた。
蓋を閉ざした貝のように温州城に籠っていた慎重な魯王が、そのように思い切った行動をする(あるいは「した」)というのが、呉三桂には信じられなかった。
何故ならば、福州には唐王が居て、魯王と唐王とは明朝後継の正統性を巡って、激しく対立していると考えられていたからだ。
魯王は、史可法や銭謙益といった東林派人脈に推されて、現皇帝である弘光帝と帝位を争った人物なのである。
結局、馬士英や阮大鋮ら、魏忠賢の系譜に連なる宦官派の力によって弘光帝が誕生する事になるのだが、魯王はその結末に満足してはいないであろうと推察されていた。
(なお、宦官派の頭領だった魏忠賢は1627年に罪を問われて自殺。馬士英は1645年の南京陥落時に、南京から脱出しようとして清国軍から捕縛後に処刑されている。東林派の史可法は、1645年の揚州籠城戦でドドの軍勢に敗北して自決。宦官派の阮大鋮と東林派の銭謙益は、清朝に降伏している。)
呉三桂が、温州攻略は――充分な兵力と物資を背景に慎重に事を進める必要があるにしても――こちらが先に手を出さない限り、魯王の方から戦端を開くことは有るまいと読んでいたのは、魯王は先に福州を下してしまわない限り、北征に出れば唐王から温州を衝かれて腹背から別々の敵に挟撃されると危惧しているだろうと推測していたからだ。
続いてもたらされた報告には、更に驚くべき内容が含まれていた。
『唐王の兵が、青田を経て麗水を攻めている』というのである。しかも唐王は明国大将軍を”詐称”して、松陽他諸城に宣撫使を送り込み、一帯には動揺が広がって一部の城市は再び明に寝返っている、という。
宣撫使を送られた城が、清国に叛旗を翻したという話には呉三桂は驚かなかった。元々は明領だった土地なのだ。旧明国の有力勢力が謀反を促せば、誘いに乗る者は出て来るだろう。
呉三桂が驚愕したのは”青田を経て”という部分である。
――温州を経由しなければ、唐王の軍は青田に至ることは出来ない。だとすれば、魯王と唐王とは恩讐を捨てて手を結んだと云う事か!
二人が手を結んだ理由として考えられるのは、一つしか無い。
――行方知れずになって、何処かで斃死したものとばかり思っていた帝が生きてござったか……。
――暗愚な”あの御方”に、魯王と唐王とを取り持つ手腕は無いであろう……。
――ならば、動いたのは黄道周(=黄尚書)に違いあるまい。あの厄介な老人が帝を操っているというのか!
これは一大事である。
呉三桂にとっては
①全軍をあげて新倭寇(舟山賊)を攻め、返す刀で魯王と戦う。
②新倭寇は一旦放置して、全軍で魯王と戦う。
③軍を二分して、片や魯王に備え、片や新倭寇を討つ。
の何れかを選択しなければならなかった。
常識的に考えれば、まず全軍をもって魯王を破るのが上策であろう。
江南の地の敵勢の動きを読めば、魯王と唐王とが、弘光帝の車輪の両輪となって明国再興を目指していると考えられるからだ。
彼らが応天府を手に入れ、清国勢力が揚子江の北にまで追われる事になれば、あと一歩にまでこぎつけた清国の天下統一遠のき、再び天下は二分される。
明国再興の旗印を待つ温州勢に比べれば、舟山賊など猛威を振るっているとはいえ一時の疾患に過ぎない。せいぜい杭州湾沿岸の略奪が終われば、何処かへ姿を消すであろう。
しかし呉三桂の実戦経験をもってしても『寧波は一旦放棄し、全軍で温州勢に当たる』という決断がつかなかったのは――応天府の予郡王ドドから「寧波の賊徒を平らげ、諸城の民を安んじよ。」という命令が下っていることを脇に置いても――新倭寇の『あまりにもの異質さ』が気に入らなかったからだ。
――あるいは清国にとっての最大の敵は、温州・福州に逼塞した弘光帝ではなく、寧波を侵しつつある不気味な賊徒ではあるまいか?
呉三桂にはそう思われて仕方がなかった。




