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ハシマ20 お刺身の化学と武富さんの秘めたる力の件

 篠原艇長がこしらえた握り寿司は、山葵の代わりに辛子からしを使い、ヅケを酢飯の上に乗っけた所謂いわゆる『島寿司』風のニギリだった。(伊豆諸島で作られている郷土料理だね。)


 出来上がったヤツの一つを摘んだミッチェル大尉殿が

「どれ、ワラワが皆に先んじて、毒見をして進ぜよう。」

とニッと笑うと、僕が止める暇もなく口に放り込み、いきなりせた。「ぐほっ、げほっ。」


 ――まずいっ! 英語で何か口走っっちゃたら、これまでの経歴偽装がバレるっ!

 背筋に冷たいモノが走ったが……そこは尉官級情報将校! 「効くゥ~。」と日本語を絞り出した。

 お女中・女官に相応ふさわしい話し言葉ではないけれど、そこは御愛嬌ごあいきょう。見事なものだ。


 「やあ、これは……ミッチェル様、大丈夫でございますか?」

と江里口さんが慌てて椀にいだサイダーを勧める。「篠原殿が、えらい量の辛子を練っておられるなとは思いましたが、まさか確かめもせず御口おくちになさるとは……。」


 「なんのこれしき。」

 大尉殿は目を真っ赤にした状態で、それでも余裕をカマして江里口さんに寿司を薦める。「高島の白身魚は天下一じゃと感服いたしましたぞ。」

 「お褒め頂き、鼻が高う存じます。この島のすずきは、外潮そとじおの流れが厳しいゆえか、身の締まりが良うございます。」江里口さんはそう応じると、ヅケの握りを一つ手に取った。


 「スズキには、普通のスズキと外洋性のヒラスズキがいますからね。高島で獲れたスズキはヒラスズキなんじゃないでしょうか。」と岸峰さんが注釈を加える。「あと、明国の沿岸にはタイリクスズキと分類される、更に別種のスズキも生息しています。」

 「ほう。鱸と一口に言うても、いろいろなのですなぁ。」江里口さんは感心しながら、手に持った寿司を何とな~く口にして、大尉殿同様盛大にムセた。「こ、これは、効き申す……。」


 「辛子には山葵と同じく、物を腐り難くする作用がありますので、ちょっと強めに効かしてみましたが……こりゃ少し盛り過ぎましたかな?」

 頭を掻く篠原艇長殿に、その発言を耳にした武富さんが反応する。

 「辛子や山葵が、物を腐りづろうするというのは存じておりますが、何故なにゆえにその様な力が有るのでしょうな? 御蔵様ならば、その辺りの調べも御存じではございませぬか?」


 「え~っと、何だったかな? この前、ラジオで聞いた気がするんだけど。」

 防疫給水班の技官さんが、先日やったばかりの放送分『夏の食中毒を防ぐ』の回で触れていた話題なんだけど、篠原さんは忘れちゃってるみたいだ。

 もっとも、艇長殿は多忙な任務の合間に聴取しているんだから、全部覚えているのは無理だよね。


 助け舟を出そうとしたんだけど、雪ちゃんが「ハイッ!」と挙手して、先を越されてしまった。

 「アリルイソチオシアネート、で良うございましたな。師匠?」

 「正解です。アブラナ科の細胞の中に含まれている揮発性抗菌成分。ちゃんと覚えていたね。」


 雪ちゃんには、実験棟でバクテリアに対する阻止円の試験をした時に比較対象物として使ってみせていたから、印象が強かったんだろう。まあ篠原艇長殿とは、学習環境においてアドバンテージに差が有り過ぎ(とも言える)。ちゃんと覚えていてくれたのは嬉しいけど。


 「ほほう。ありる……ナニヤラの力が、物を腐り辛くするのですか。」

 感心する江里口さんに、得意顔の雪ちゃんが「ハイっ!」と頷いて「モノを腐らせるのは、目に見えぬほど小さな生き物――バクテリアや微生物と呼ばれる生き物なのですが――それが増えて、モノを密かに喰ろうておるからなのでございます。」と追加説明。「腐るのは困りものでございますが、微生物の中には良い腐らせ方をするモノも居りまして、その時は特別に発酵と呼びまする。酒や味噌をかもす時や、糞尿から焔硝えんしょうを生じさせる折の作用でございますな。」


 「なぁるほど。小倉殿は年少なれど、物のことわりに明るうございますなぁ!」

 江里口さんは驚いて、懲りずにもう一つ寿司を摘み、また盛大に噎せた。「この……つ~んと来るアリルナンヤラが、その微細なイキモノを懲らしめる訳ですか! 拙者、蘭学らんがく書は少々嗜みましたが、今日初めて知りましたぞ。」


 「それでは刺身を切る時に、獲れたて直ぐの魚より一晩寝かせた魚の方が甘味が増すのは、その微細なイキモノとやらが、魚肉を食うて発酵とやらを行っておるからなのでしょうかな?」

 ほんの小僧ッ子に見える雪ちゃんが、次々に新知識を披露するのには武富さんも余程驚いたようで、かなり突っ込んだ質問を飛ばしてくる。「傷んだ刺身は酸い臭いがすると云うに、上手に寝かせた刺身は甘うござる。”傷んだ”は即ち”腐り”で、”甘うなる”が即ち”発酵”という事でございましょうや?」


 「腐り即ち腐敗が、言葉を変えた発酵と同義であるという点に於いては正しゅうございますが――魚肉を寝かせるのは、バクテリアにて発酵させるのとは、ちと違うております。傷んで酢臭うなるは、それこそバクテリアが魚肉を喰ろうて酢酸や酪酸らくさんを生じさせるゆえにてございますが。」

 雪ちゃんは学習の成果を、キッチリおくするところなく発揮する。「それに引き換え、寝かせた魚が甘くなるのは、魚肉中のタンパク質と呼ばれる構成成分が、細胞内のタンパク質分解酵素によって、分解されてアミノ酸と呼ばれる更に小さな成分に変化するからです。ええっと、細胞の自己消化作用――それに類する作用機作ですね。」


 岸峰さんが、僕の脇腹を肘でつついて、コッソリ耳打ちしてくる。「途中から雪ちゃんに、片山クンが”降りて”きたね。」

 すごくくすぐったそうな表情だ。「勿体もったいぶったセリフ回しなんて、もうソックリ!」


 あ~僕は皆に、こんな喋り方してるって思われているんだ……。


 雪ちゃんは更に続けて

「アミノ酸の中で、甘さを感じさせるアミノ酸には『グリシン』や『アラニン』などが有ります。また旨味を舌に感じさせるアミノ酸には『グルタミン酸』や『アスパラギン酸』といった物があるのです。刺身のコリコリ・シコシコ感は無くなってしまいますが、寝かせることによって刺身の中の単位量あたりのアミノ酸が増え、甘味・旨味が増すわけですね。」

喝破かっぱした。「師匠、これで良うございますよね?」


 「おおむね正解です。」僕は弟子の成長を褒めておく。なんだかチョッと恥ずかしいけど。

 じゃあ、ついでだから、もう一つ口頭試験を追加してみよう。「それでは、新鮮な刺身を”洗い”にすると、身がキリっと締まるのは、何でだったかな?」


 「はいっ! それは、筋肉に含まれるエネルギー物質 ATP――アデノシン‐3‐リン酸――が水で洗い流される事により、死後硬直の筋肉収縮が一気に進行するから……で、ヨカッタでありましょうか?」

 僕がマルですよと言う前に、「”洗い”にすると、身がピンとなるのには、そういった訳があったのかい。」と篠原さんが感心する。「小倉さん、よくそこまで勉強したなぁ。」

 「小城おぎでは、”鯉の洗い”は名物料理ですからなぁ。なるほど、洗いにすると美味いのには、ちゃんと理屈があるわけですか。」江里口さんも、雪ちゃんの解説にビックリ。「いや拙者の存じあげぬ言葉が多過ぎて、何もかもが分かったというのではござらぬが。」


 「江里口殿、鯉をはじめとする川魚の生食には、海の魚と違って少しばかり注意が必要でしてね。」

 川魚の生食に関する話題が出たから、ここは一言、注意喚起を入れておいた方が良いだろう。

 「ジストマとか肺吸虫と呼ぶ、目に見えないほど小さな虫が住んでいることがあるのです。食べた人のきもを腫らして命を縮める虫なんですが。まあ、コイやフナは、ハヤみたいな小魚に比べたら、ジストマを持っていることは少ないんですけど。」

 北部九州では、モツゴやモロコ(それに加えてオイカワやカワムツなど)細長い小魚は全てひっくるめて『ハヤ』と呼ぶことが多い。フナやコイに比べてジストマに感染していることが多いとされるモツゴやタモロコは、焼くか佃煮で食べるからジストマ症患者の発生数は目立たないんだけど。


 「むう。その様なやまい、確かに耳にした事がございますぞ。」

 武富さんが難しい顔で頷く。「一度罹れば、人参を用いるしかないとか。よく煮るなり焼くなりすれば、罹ることはないという話ですが、領内では生でも食されておりますなぁ。」


 「いや、人参は効かないんですよ。」岸峰さんが険しい顔で否定する。「迷信です。人参には、薬効はありません。高価なだけで。あんなモノを、高い金を取って病人に処方する医者は、偽医者でクズです。」


 強い言葉を使った岸峰さんに、武富さんはちょっと驚いたみたいだが

左様さようでござるか。なればお女中は、如何にしてその――”じすとまな”る虫におかされた者を救いおるかを、御存じなのでございましょうな?」

と問い質した。


 「ございます。プラジカンテルという薬です。」

 岸峰さんの返答は、明解だ。――但し――


 「まだ開発中です。」と僕は慌てて追加する。「存在も構造も既知なので、合成は出来るだろう、という事です。今のところ病院の技官と化学班の技師が実験中……といった段階でしかありません。現在手持ちのクロロキンは、副作用が強い――ええっと、病人の身体への負担が大きいので、あまり処方したくはありませんし。」

 プラジカンテルを作るのにも試すのにも、なんといっても人手と金とが必要ですから、いざとなれば使うしか無いんでしょうけど、と結んだ僕に

「我が藩の、藩医や蘭学者を使うてみては如何でござろう?」

と武富さんは、驚く様な提案をしてきた。

 「宿疾しゅくしつを完治させる妙薬みょうやくが手に入るとなれば、殿の心も動き申そう。そして――話の持ちかけようによっては――長崎や日田の奉行ぶぎょうや、黒田・立花・細川といった他藩も手を貸してくれるやも知れませぬ。」


 それまでアルカイック・スマイルを保っていた早良中尉殿の眼鏡が光る。

伝手つてが、お有りだ、と考えて宜しい?」


 異国船警固番所の責任者なんだから、武富さんにはそれなりの地位と『顔(あるいは手蔓てづる)』が有るんだろうとは思っていたけど、佐賀藩内だけでなく、長崎奉行所や他藩にも影響力なりつなぎが有るってことなのか!


 「そこはもう……日頃から仲良うさしておいて頂かねば、お役目・仕事に差し支えが出ますからな。」

 武富さんはニンマリ笑ってみせる。「出島を擁する長崎や、警固番を置いておるこの島は、中々に微妙な立ち位置にございますゆえ。……ま、それなりに。」

 そして北の方――長崎の方向だ――にチラと視線を向けると

「明日になれば、使いに出した船も戻りましょう。当然、長崎から遠国奉行おんごくぶぎょうの手の者が、黒田の藩兵を連れて同道しているは間違いの無いところ。根回しは拙者が致します故、端島の石の炭、掘り出しおる姿を検分させて頂けますな?」

と提案してきた。


 「話が早い。有り難いことです。」早良中尉殿は眼鏡の弦を押し上げると「須美様、武富殿にお任せして宜しゅうございますね。」とミッチェル大尉殿に確認を取った。

 大尉殿は「良きに。」と中尉殿に頷くと、武富さんに「お手数をかけます。」と澄ました顔で会釈えしゃくした。


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