ハシマ5 この世には男子の知り得ない生理痛というモノがある件
処方箋を持って病院の薬局に行くと、薬剤師のお姉さん(滋養亭の茂子姐さんと同じくらいの年齢だけど)から
「おや? 健康優良児の室長さんが、薬局に顔を出すなんて珍しいね。さては寝冷えでもして、お腹が痛くなったかい?」
と、子ども扱いで賑やかに迎えられた。
ロビーにいた患者さんたちが、クスクス笑っている。個人情報保護も何も有ったもんじゃない。
薬剤師さんは処方箋を読むなり「何だ、アスピリンか。ハイハイ、ちょっと待っててよ。」と窓口から奥に引っ込むと、しばらくしてから「純子ちゃんのお使いか。純子ちゃんも忙しいみたいだからね。」と小箱を持って出て来た。「用量は、こないだ教えた通りだからって、伝えといて。……何だか早過ぎる気もするけどねェ。」
……ハナシがオカシイ。岸峰さんは頭痛か発熱か、何か具合が悪くなってアスピリンを貰いに来たことがあったのだろうか? 具合が悪かったなら、そう言ってくれれば良いのに。
「彼女、前にアスピリン貰いに来た事があったんですか?」
僕は、ちょっと水くさいナァと感じながら、薬剤師さんに訊いてみる。
薬剤師さんは「そうだよ。」と頷くと、「イライラしたり怒りっぽくなったりしても、そこは室長さん、アンタ彼氏なんだから、グッと大きい心で包んであげなきゃ駄目なんだよ。……まあ、お使い頼まれるくらいなんだから、世の威張リンボの殿方よりか、上手く行ってるとは思うんだけどさ。」
――はいぃ?
いや、彼女から日常生活の中でドヤされるのは、別に珍しいことではないんだけど。
でもそれは”草食系小市民的男子”と”スーパーヒロイン(パワータイプ)型女子”とが友達付き合いをする場合には、ある程度普通というか一般的な関係性の気がするんだがなぁ……。
いわゆる『壁ドン』系イケメン位だろ? 亭主関白を貫ける漢ってさぁ。(これは今も昔も、根本のトコロでは変わらないと思うんだよ。カカア殿下って言葉は歴史が古いんだしねぇ。)
僕は話に噛み合わないものを感じながらも「そうですか。勉強になります。」と、波風立たないようにアルカイック・スマイルで答える。――そう。これが小市民パワーだ!
「箱ごと持って行きなさい。長崎遠征は長丁場になるかも知れないって、ニュースで言ってたからね。小倉さんトコのお嬢さんにも分けてあげるんだよ。……ああ、お嬢ちゃんは口に出しにくいかも知れないから、純子ちゃんに、まとめて預けておくのが良いかもね。中谷センセには、薬剤部から電話入れておくから。」
――雪ちゃんは木造帆船でフィリピンからやってきたくらいだから、船酔いとは無縁だと思うんだけど……。
「有り難いですけど、良いんですか? アスピリン、在庫は。」
さっき、アスピリンが高値で取引出来るかも、って会話をしたばかりだから、小箱とはいえ纏まった量を受け取るのには少し躊躇する。
「アメリカさんの輸送船にはまだ、それこそ『馬に喰わせるほど』積んであるんだよ。陸の倉庫は既にイッパイイッパイなのにさぁ。なんでもアッチは禁酒法の時代に、お酒代わりにアスピリン齧るのが流行ったんだって。『アスピリン・エイジ』なんて言葉があるって言うよ? 今じゃアルコールが解禁されているから、消費量は減っちまっているのに、惰性なのか山積みに送ってきてたんだねぇ。日本でもアセチルサリチル酸は造ってるんだから、わざわざ持って来る必要も無かったのに、何なんだろうね。」
――そうだよなぁ。日本産アセチルサリチル酸なら、銭湯の桶に広告が印刷してあるロングセラーのヤツとか見た事あるもの。北陸自動車道の小矢部サービスエリアの売店だったっけ?
「んじゃ、遠慮無く貰って行きます。」
「ハイハイ。お代は室長サンの俸給から引いておくからね。……と言っても、書類上の処理だけだけどね。」
そうなのだ。一応、御蔵島の勤労者は(あるいは御蔵軍に参加している者には)、司令部から所定の俸給が支払われている事になっている。
けれども、通貨が潤沢に市場に出回っているわけでもないし、生活必需品は支給(配給)制の統制経済で軍票も無いような状態だから、今の処、収入も支出も書類上の数字にしか過ぎないんだ。
この先、南明国や日本と交易が始まって、舟山群島と洞頭列島の一部を含む御蔵島社会に豊富な消費財が自由に回り始めるまでは、自分がどのくらいお金を持っているのか(もしくは持たないでいるのか)に関しては、気に病んでも仕方が無い。
だからこの数字上の管理は、特定の個人がやたらと共有財産である支給物資を私物化しないためのシステムなのである。
一応、僕は司令部付き要員だから、薬剤師さんからアスピリンの小箱と伝票をもらって薬局を後にした。伝票は司令部棟に戻ってから、主計の事務官に提出しなければならない。
酒保に寄ると、ここでも「お。室長さんが酒保に顔を出すのは珍しい。」と言われてしまった。
「主任――いや今じゃ編集長サンか――純子ちゃんなら、お饅頭を食べに電算室の女子連でチョクチョク来てるけどネ。なんでも『女子会』って言うみたいだね。……で、室長さん。甘いモノでも食べてく?」
配給窓口から元気に呼びかけてくれたのは調理班のアイデアマンで、この人には食堂でも日頃からお世話になっている。酒保の窓口には、主計や工場経理の人が交代で入って居る事が多いから、ちょっと意外。
「シェフが窓口にいらっしゃるのは珍しいですね。新作スイーツの試作販売ですか?」
「『シェフ』に『スイーツ』とは、嬉しい事を言ってくれるねぇ。」
シェフは照れながらも自信有り気に「麦類と豆類が、寧波と台州の戦役でいっぱい鹵獲されただろ? 麦芽で水飴を作って、白餡や鶯餡の入った菓子を作ってみたんだ。疲れに効くと結構、好評でね。今日の目玉は、皮に酒粕を使った酒饅頭なんだよ。本当の酒饅頭ってのは、米粉と麹で皮を作るんだけどね。」
麹菌のアミラーゼで、デンプンからグルコース(ブドウ糖)やマルトース(麦芽糖)を作らせるのは、既に酒造や甘酒製造で進めているけど、シェフは麦芽アミラーゼで麦芽糖を作っているみたいだ。
保菌庫にオリーゼ株が有ったものだから、そっちを使う事ばかり考えていて、麦芽の事はすっかり忘れていた。
何たるミス! ビールやウイスキーを造るなら、麦芽でデンプンを糖化する方が本流じゃないか。
……それにしても、岸峰さん。ここに甘味を食べに来てるなら、それ、教えてくれたら良いのに。いや、女子会だから、男子禁制の話題なんかが飛び交っているのかなぁ。
「酒饅頭、美味しそうですけど倹約しておきます。今日は仁丹か薄荷ドロップスが有れば、それを買いたいと思って来たものですから。長崎まで船に揺られるので、酔い止めが欲しいなと考えまして。」
久しぶりにお饅頭を食べてみたい気持ちは有るけれど、目下の最優先入手目標は仁丹だから我慢する。まっ、どうしても食べたいってわけでもないし。イソップ童話の「酸っぱいブドウ」ではないけど、酒粕を使った粕汁の匂いって、実のところ少し苦手なんだよね。
シェフは「なんだ残念だな。未来のスイーツを知っている室長さんから、忌憚の無い意見を聞きたかったんだけどね。」と残念がって、「じゃ、これはアタシからの試食サービスってことで。在庫見て来るから食べてて。感想、聞きたいからさ。」と謹製の酒饅頭を一個プレゼントしてくれた。
これでは食べざるを得ないじゃないか。
僕は有り難く頂戴すると、先ずはガワの匂いを嗅いでみる。
アルコール臭は薄い。
酒粕には排熱を掛けて、極限まで酒精分を抽出したのだろう。いわゆる『本格粕取り焼酎』を作る要領だ。
歴史的な事象としては、第二次世界大戦後に出回った安物の密造『カストリ焼酎』には、工業用エタノールにメタノールを混ぜた「燃料用アルコール」とか「変性アルコール」ってシロモノで水増しした、失明や死につながる有害飲料だったものもあったようだが、今の僕らの世界では、燃料用アルコールはアルコールエンジンを動かすのに必要だから密造酒なんかに回している余裕は無い。T型フォードを復活させるのには、もう少し時間がかかりそうだが、燃料は着実に製造されつつあるという事だろう。
『粕取り焼酎』と『カストリ焼酎』とは、音だけ聴くと一緒だけれど、飲料としての安全性や味の出来栄えはには雲泥の差があるってわけだ。
……お酒が飲めるようになるのは数年先の未成年だから、聞きかじりの耳学問なんだけどね。
饅頭を齧ってみると、匂いを嗅いでみた時以上に酒粕の存在感が有った。アルコールを抽出し尽した後の酒粕の配合比を大きくして、小麦を倹約したのに違いない。
けれどもガワの舌触りには滑らかさと艶やかさがあって……これは酒粕の滑らかさなのか?
あるいは少し米粉も混ぜてあるのかな?
餡は白餡。煮るのに麦芽糖の水飴を使っているせいか、砂糖や液糖の甘さより舌が甘さを感知する速度が穏やかな感じがする。(これは僕が「麦芽糖を使っている」と認識しているから、先入観も有るのかも知れない。)
――いや、美味い。なにか、こう……観光地の売店の店先とかで売ってる酒饅頭より、如何にも高級和菓子を食べている感があるんだ。
「どうだった?」
イタズラっ子ぽい笑顔で奥から出て来たシェフは、僕に仁丹の小箱一つとドロップの缶、そして伝票を渡すと饅頭の食味を問うてきた。
「これ、皮に工夫がありますよね? 小麦粉と酒粕だけじゃないんじゃないですか。滑らかで官能的な舌触りが、餅粉や白玉粉っぽい気がします。餡の甘味も上品だし、お茶席の和菓子みたいな出来栄えだと思います。」
正直な事を言うと、僕は正式な御茶会には出たことが無い。――ただし、そんな席で用いられる実績のある和菓子ならば食べたことは有る。
「褒めてもらえて嬉しいけれど、皮の工夫はキミの言うのとは、ちょっと違う。小麦粉だよ。白玉粉は使ってないんだ。……岸峰君は見事に見破ったけどね。」
うーん! 流石はシェフ。それに食い意地の張った岸峰さんだ。「どんな技を使ったんです?」
「博多ウドンの技法さ。腰を重視する讃岐系とは違って、博多のウドンは――キミの言う通り――白玉団子みたいな、むっちり・滑らか・すべすべが売りだろ? 小麦を粉に挽いてみたら、麺にするのには博多風が適しているなって分かったんだよ。でもウドンの麺って、地方地方で硬さや腰なんかの好みが分かれるじゃないか。それで餅粉を使うことのある酒饅頭の皮にしてみたんだね。」
と御満悦な様子。
そして「よしよし、上出来みたいだな。その内、白玉風の善哉も作ってみようかね。醤油生産が軌道に乗ったら、餅粉を使わない”みたらし団子”にもチャレンジしてみよう。アメリカさんからは、クッキーやビスケットの美味いヤツを、と催促されているんだけどねぇ。でも洋菓子にはミルクとバターが必須だろ? 牧場の牛や山羊の頭数が増えない限り、豆乳と植物性油脂から作ったマーガリンで生地をこさえるから、これ以上どう工夫したものかねェ。」とマシンガン・トークで畳みかけられてしまった。
電算室に戻ると、遠征時の船内着が届けられていた。
洗濯の水量節約のために、Tシャツと短パンという簡衣の上下である。
上下とも濃い目のグレーなのは、海水でしか洗濯できない場合を考慮して、落ちない汚れを目立たなくするためだろう。モスグリーンやカーキでないのは、染料の在庫の関係か。
岸峰さんと雪ちゃんとが、早速試着してみているのは良いとして、なんで座敷童も着ているんだろうか?
古賀さんの船内服だけサイズが合ってなくてブカブカだから、彼女はまるで少年のように見える。
古賀さんも遠征に参加する事になったのかな? 僕らが居ない間は、彼女が電算室長に就くことになっているのになぁ。
キャロラインさんかオハラさんが室長をやるんだろうか。
「古賀さんも船に乗るの?」
「乗りませんよ。私まで遠征に出たら、電算室が困っちゃうじゃないですか。」と座敷童。「今、着ている船内着は片山さんの分です。新作の着心地を確かめたかっただけですから。……脱いだ後に、匂いを確かめたりしないで下さいね!」
「…………。」
それにしても(と気を取り直して)女の子が着るとTシャツと短パンというコーディネイトは、シンプルながら健康的だけど艶めかしくもある――と頭をそっちに切り替える。座敷童が失礼なのは何時もの事だし、腹を立てても仕方が無いじゃないか!
いやホント。
ここは癇癪を起こすより、頭を冷やして「目の保養をするタイム」だ。特に、古賀さんや雪ちゃんよりも凹凸がハッキリしている岸峰さんの。(と言うか、岸峰さんに見入っているのが一番無難でもあるわけで。)
まあ夜に寝る時には、彼女が下着姿でイビキをかいたり歯ぎしりをしたりしている姿を随時見ているわけだけど、明るいトコロでクッキリ細部まで眺めさせてもらうと、やっぱり彼女は綺麗だわ。
「オッ、少年。ワタクシの美しさを再認識して、固まっているね?」
と茶化してきたのは岸峰さんの方から。「でも、これに慣れてもらわないと駄目なんだよ。船の中では選択の余地が無いんだから。ただし、襲い掛かって来たら鉄拳制裁だからね!」
彼女の茶々が照れ隠しであるのは、目元に少し赤みがあることから想像が付く。
けれどもこれまでは『襲い掛かってきたらコロす』とか『眼を潰す』と散々宣言されてきたから、鉄拳制裁にまで報復が緩和されている分、距離感・信頼感は縮まっているらしい。
「ああ……うん。了解でアリマス。鋭意、注意を払います。」
僕の返事に彼女は「なんじゃ、そりゃ?」と応じると「どこ行ってたの?」と質問してきた。
「船酔い止めを貰っておこうと思ってさ。酒保とか回って来たんだよ。」
僕は仁丹と薄荷ドロップスをカバンから出して、彼女に差し出す。「これはスッキリするヤツね。」
「おお、気が利くじゃない。」彼女は喜んで受け取ると「でも、在庫は大丈夫なの?」と御蔵新聞編集長らしく在庫の心配してみせた。
「それは心配しなくてよいみたいだね。まだ豊富にある。」僕は酒保でシェフから仕入れた情報を提供する。
「それにペパーミントみたいなハーブ類は、個人が趣味の園芸レベルで栽培していたものを、植え付け面積を増やして増産し始めているし、肉桂みたいな漢方の生薬は鹵獲した分の他にも、鄭芝龍将軍が順調に勢力を増せば南明の薬種屋で今後購入出来そうなんだ。材料さえ手に入れば、手工業レベルでも製造がが難しい商品でもないだろ? 飴は麦芽糖の水飴を練れば出来るわけだし。」
「それは嬉しゅうございますな。」雪ちゃんはニコニコ顔だ。「ドロップスは美味しゅうございますからなあ!」
「そう言やキミたち。ちょくちょく女子会やってるんだって?」
僕の問い掛けに、古賀さんが「そりゃあ殿方には話辛い話題もありますからね。」と代表して答えてくれる。「例えば、片山さんに対する愚痴とか。他にも片山さんに対する苦情とか。それ以外だと、片山さんに対する不満とか?」
……訊かなきゃ良かったよ。
風向きが怪しいな、と感じたから、僕は「そうそう。それとアスピリンも貰ってきたんだ。」と小箱を取り出す。「中谷さんに処方してもらったんだよ。『酔い止めに効くかどうかは分からないけれども、気休めにはなるだろう。』ってさ。薬局のお姐さんは、雪ちゃんにも必要だろうからまとめて岸峰さんに預けておけって言ってたけど、雪ちゃんは船酔いしないよね? 岸峰さんは戦車酔い対策にでも、処方してもらってたの?」
これを聞いて、岸峰さんは顔を真っ赤にしてギャアと叫び、座敷童は苦虫を噛み潰したような表情で「これだから男子は!」と怒ってみせる。
……なんで?
「それはでございますな、師匠。」
岸峰さんと古賀さんとが答えてくれないから、雪ちゃんが淡々と説明してくれる。
「姉上は、月のモノの痛みに耐えるために、そのアスピリンなる秘薬を処方して頂いていたのでありまする。」
――あっ! 生理痛?!
「殿方には無縁の事ゆえ、師匠がお気付きにならなかったのは仕方の無いことでございましょうが、雪めも、その秘薬の恩恵に与っておりまする。世の女性のためには、広く出回ることが望まれる薬でありましょう。」
僕は狼狽しながら「そ・そうなんだ?」と反応してしまい、あまつさえ流れで「どの位、痛いものなの?」と、かなり失礼な事を口走ってしまった。
雪ちゃんは冷静な表情を崩さずに「そうでございますな。」と、ちょっとの間考え込むと
「説明、し難くうございますが、先ずはキツい歯痛のような、ズーンと深い、長々と途切れる事の無い不愉快な痛みかと。」
と説明してくれる。
「ほお……。歯痛のような。」僕にはこれくらいしか、出せるセリフが無い。
「左様でございます。その痛みが下腹で、日がな、続くわけでございますぞ。」
教えてくれながら、雪ちゃんはちょっとだけ得意そうだ。師匠たる僕が知り得ない知識を、教授するのが楽しいみたいでもある。
「ま、師匠にも、我に教えを乞わざるを得ぬ知の分野があるというは、意外でもあり、愉快でもありまするな。」




