ハシマ4 アセチルサリチル酸から車騎将軍の人となりを想像してみる件
長崎(というか佐賀鍋島藩の飛び地である端島)遠征を明日に控え、僕は御蔵病院に中谷さんを訪ねた。
酔い止め薬があるなら処方しておいてもらおうか、と考えたからだ。
――まあ、それは口実で、本当は鄭芝龍という人物を中谷さんがどう視たのかというのが訊きたかったからなのだけど。
中谷さんは寧波陥落後に、お忍びで病院なるモノを視察に来た車騎将軍の応対をしたのだという。
鄭芝龍は寧波占領直前に舟山島で高坂中佐殿と会談していて、僕は御蔵司令部に戻って来た中佐殿には既に御蔵空港で突撃取材済みだ。
連絡機から降りてきた中佐殿は、待ち構えていた僕に嫌な顔も見せずに
「車騎将軍閣下の人となりに関するインタビューですか?」
と笑うと「非常にクレバーな政治家のようにお見受けしましたよ。」と答えてくれた。「あの御方が南明朝の重鎮でおられる限り、提携関係は良好に進むでしょう。商道徳上の信頼関係の重要さも知悉していらっしゃるし。」
「そして、ここからはオフ・レコードでお願いしたいのですがね、片山君?」と断わりを入れると
「閣下が目指しておられるのは、中国大陸から女真族を追い払う事ではなく、民の安寧と国家の発展のように見受けられました。取りあえずは揚子江以南の混乱を回復して、産業復興を進めることでしょう。南海でのオランダやスペインの隆盛を肌で感じていらっしゃるわけですから。……清国との戦争に明け暮れていては、中国全土を掌握しても、南から西欧勢に蚕食されて行くのは目に見えていますからね。ですから南明朝が勢いを取り戻しても、海岸を封鎖して内陸に引きこもったり、民生を顧みずに重税を課して民衆を圧迫する従来の旧弊な政治体制に戻ろうとする場合には、閣下が南明朝をそのまま支持し続けるかどうかには、疑問が残るとも言えますね。」
と結んだ。
僕が「何だか……少し、雛竜先生と似ていらっしゃるような……。」と中佐殿の話から感じる鄭芝龍の印象について述べると、中佐殿は
「ああ片山君。それは時系列が逆なのではないでしょうか。鄭隆氏の方が、車騎将軍閣下の考えに影響を受けたお弟子さんなのでしょう。」
と僕の認識を正した。「斎藤道三がいなければ、織田信長は歴史上活躍しないままに終わった――みたいな、ね?」
中谷さんは研究棟に居た。
野戦病院出張中に溜まっていたストレプトマイシンのデータ解析に余念が無いようだ。
舟山野戦病院では昼夜を問わずに猛烈に手術をこなして、清国負傷兵から『神医』と呼ばれていた(花さん談)ということなのだけれど、戻って来た中谷さんは何時もの中谷さんのままで、僕の質問に顔も向けてこずに分析チャートを捲りながら
「僕は一介の研究者に過ぎない。心理学者でも八卦見でもないんだよ? 病気の症状には知識があっても、人物をどう見るかなんて訊かれても『健康体でしたよ』としか答えようがないね。」
とニベもない。
僕も中谷さんが「研究者中谷」モードの時には、愛想もクソも無い事は従前から承知しているので「そうですか。じゃ、イイです。」と一旦話を打ち切ってから
「明日から長崎に行くんですけど、船酔い止めの薬って処方してもらえますか?」
と話題を換えた。
すると案の定、中谷さんは食い付いてきて「酔い止めかぁ。スコポラミンが利くっていう研究はあるけどねぇ……。」と、こっちに向き直る。
「え~? スコポラミンって、自白剤とかにも使われる薬品じゃなかったですかぁ?」
僕が不安そうな声をあげたせいか、中谷さんは若干「医師中谷」モードに変化して
「神経や脳に作用する薬って事になるわけだから、そんなモノだよ。要は使用量の多寡によっては、酔い止めにも使えるって話でね。船酔いで死にはしないんだから、向神経剤を使わずにすむんなら我慢しておけって事さ。」
と解説してくれる。まあ、知らない仲じゃないから、口ぶりはツッケンドンだけど。
「僕は我慢するなり、ゲロ吐いちゃうなり、どうとでもなるんですけど……。」と僕が口ごもると
「ああ、そうか! 岸峰君も一緒なんだね。」と中谷さんは漸く察してくれた。「そりゃ、何とかしてあげたい気持ちは分からんでもない。彼女は酔い易い方なの?」
「チハの操縦訓練で、彼女が砲手、僕が弾薬手を務めた事があったのですが、その時に頭からヤラレました。彼女、最初にチハに乗った時にも、袋の中にモドシてましたし。」
今回僕たちが乗り組むのは、1,300tの夕潮だ。そこそこ大きなフェリー改装艦だけど、9,800tの海津丸よりかは揺れるだろう。
中谷さんはフゥンと笑うと「ま、粗相をしてきた相手が、憎からず思っていた女性なんだから不幸中の幸いだとでも考えるさ。」と茶々を入れ「ガールフレンドにスコポラミンを使う方が、倫理的に罪深いね。彼女には、仁丹か薄荷ドロップスでも舐めさせておき給え。」と受け取り様によっては人聞きの悪いことを言う。
――仁丹か。そういえば北門島上陸の時、大発の中で、出発前に石田さんに分けてもらっていたのを舐めたっけ。
「仁丹って、持っていらっしゃいます?」
僕の質問に中谷さんはウーンと唸ると「いや、病院には無いねぇ。でも酒保には有るんじゃないかな。キミは酒も煙草もやらないから、仁丹くらい優先配給してもらえると思うんだけど。」と教えてくれた。「寧波の『壁』を落とした時に、生薬をゴッソリ入手しただろう? その中に桂皮やメントールなんかも入っていたから、オリジナルとは多少は異なっているかも知れないけど類似品の製造はイケるって薬学畑の先生が言っていたから。まあ、まだホンモノも在庫があるかも知れないんだけどね。」
そして彼は「ああ、そうだ。アセチルサリチル酸!」と額を叩くと「アスピリンを念のため処方しておいてあげよう。」とメモ帳を一枚破ると処方箋を書き始めた。「鎮痛・解熱に効能が有るんだから、船酔いにも効くかも知れない。本来の薬効としては、僕の知識に酔い止めは入っていないんだけど、偽薬効果が期待出来るかも知れないしね。」
中谷さんはメモ書きを僕に渡すと「薬局に持って行きたまえ。出してくれるから。」と告げた。「野戦病院でも重宝されたんだよ、アスピリン。」
僕は驚いて「アスピリンで外科手術?!」と訊き返してしまった。
だって歯痛止め程度の鎮痛効果で、切ったり縫われたりするのって、メチャクチャ痛そうじゃないか。
今後の入手困難を考えたら、敵兵に貴重なモルヒネを使うわけにはいかないっていうのは納得なんだけど。
僕の勘違いが可笑しかったのか、中谷さんは「いや術後だよ、術後。」と苦笑した。「フェノールからサリチル酸を合成して、無水酢酸でアセチル化する工程は既知だから作れないこともないし、アスピリンがモルヒネより貴重度が低くて、使うのに抵抗が無いってのは確かにあるんだけどね。」
「えええ! じゃあ手術の時は麻酔無しだったんですか?」
「おいおい、それでは患者はショックで死んじゃうだろ。……まあ、そんなに酷くない症例には、強い酒を飲ませて酔った勢いでってのも有りはしたけどさ。ホントは外科の対応が必要な患者に酒を飲ませるのは、危ないから御法度だというのは承知の上だけど。」
手術に使ったのは麻沸散だよ、と中谷さんは続けた。
「普陀山の学僧が用法も知っていたし現物も持っていたんだ。純度の低いアヘン製剤だね。中国では古くから使われていたらしい。ほら、三国志時代の華佗が用いたのがコレだって伝説付きらしいんだよ。でも、その伝説の神薬のお蔭で、モルヒネが節約出来たのは有り難かったね。明の時代までは、純粋に麻酔薬としてだけ使われているらしくて、後に魔の嗜好品となり多数の廃人を生み出したばかりでなく、幾多の戦争の種となった事を思うと皮肉だけどね。」
「それ聞いて安心しました。」僕は胸を撫で下ろす。「今後、モルヒネが切れた時に備えて、その麻沸散の入手ルートを、なんとかしなきゃなりませんね。」
「うん、僕も同じ事を考えた。」中谷さんが頷く。「一応、向こうで加山少佐殿と、こっちに戻って来てから院長先生とには意見具申してる。ああ、それと舟山に商館を造る警部補殿にもね。……ただ、物が物だけに厳重な管理が必要になるね。だから安易に記事にはしないでおくれよ?」
「承知しました。オフレコという事で。」
そう言えば、と中谷さんは宙を眺めて「鄭将軍はアスピリンの鎮痛効果に、大層興味を持ったみたいだったなァ。……患者自身が――白い錠剤ってトコに神秘を感じたのかも知れないけど――術後この錠剤を魔法の薬と珍重していたからね。さながら江戸の講談に出て来る御種人参みたような扱いだったねぇ。」
「へええ。そんなに効いたんですか。」
「うん。それこそ偽薬効果も含めてなんだろうけど、投与時間的に効用が切れた時分になっても、痛みを忘れたままなんだ。」
――人間の、思い込みの力って強烈だからなぁ……。
「それで鄭将軍がアスピリンを高値で買いたいって言われるので、合成法が確立する以前の柳の樹皮を煮詰める方法をお教えしたよ。河南地域には、柳の木はいっぱい生えているだろ。人手をかける事が出来るなら、大金を支払わなくても済むじゃないか。ついでに柳エキスを服用する時には、漢方の胃薬も併用するようアドバイスしておいた。アセチル化していないサリチル酸は、胃を痛めるからね。」
――! 大儲けチャンス、ロスト~!!
中谷さんは僕の顔色を見てニヤニヤすると
「キミ、要らん事をして金儲けの好機を失いやがって、って思っただろう。」
と図星を突いてきた。「そうさ。アスピリンを高値で売りつける機会は逸したよ。」
しかしね、と彼は真面目な顔に戻ると
「『医は仁術』というばかりでなく、今後の事を考えれば、鄭将軍が柳エキスの鎮痛剤を自力で調達出来るようになることは、南明勢力下での住民の生活向上に繋がると、僕は思うんだ。現に鄭将軍はアルコール消毒や煮沸殺菌の有効性にも着目していたし、病理学に基いた医師の育成の必要も理解したようだ。南明朝での医療の近代化や、公衆衛生への取り組みの取っ掛かりが出来たわけだ。これは一時の間アスピリンでボロ儲けするよりも、長い目で見れば、より良い生活を皆が送れるようになるのを意味している。決して損な取引ではない、と思うね。」
なるほど。これは中谷さんの読みが正しいだろう。
短期利益を期待するより、長期的な発展を見込んでの『投資』なんだ。
「仰る通りですね。目先のことしか見えていなかったようです。要反省、です。」
僕の返事(と言うか、感想)を聞いて、中谷さんは珍しく照れくさそうな表情を見せた。
「同感してくれて嬉しいよ。……まあ、鄭将軍に柳エキスの製法を教えたのは、ある意味、僕の独断専行だからね。利益を上げる機会を損失したって事で、非難されても仕方が無いかなって思わなかったといったら嘘になる。けれど鄭将軍なら――南明朝の中に抵抗勢力がいたとしても――多少の反対など押し切って、医療や公衆衛生改革を、民衆のために進めていく力と意思があるんだと思う。」
僕にとっては「自称ヘンクツ」な研究者である中谷さんが、高坂中佐殿と同じく鄭芝龍という人物を、近代合理主義的な信用の置ける人物だと判断しているのが分かったという事が、大きな収穫だった。
僕は研究室を辞去するにあたり「花さんは病棟ですか?」と質問してみた。
看護師見習いをするかたわら、中谷さんの実験助手(見習い)を務めていることが多い彼女の姿が、研究棟に見当たらなかったからだ。
すると中谷さんは、少し複雑な表情になって「彼女は、まだ野戦病院に居るんだよ。」と教えてくれた。
「僕にはストマイの件があるから、少しアッチに余裕が出てきたんで、慌てて戻って来たのだけれど、彼女は多少なりとも支那語が話せるじゃないか。だから看護婦としての成長著しい事もあって、主任さんが手放したがらないんだ。御蔵病院に帰って来るのは、少し先になりそうでね。」




