寧波攻略戦4
寧波が白旗を上げるまでには、爆撃から2日間を要した。
司令官の呉三桂が突然爆死してしまったため、守備軍の方針が固まらずに小田原評定を続けていたからだ。
その間、御蔵軍は鄭氏龍軍の兵に陣を譲るかたちで徐々に包囲網から撤兵し、機甲部隊や装甲艇は舟山島まで引き上げている。
ジョーンズの建設部隊も石材の採掘を終え、艀への積み込みは温州と福州の水軍に任せて重機類と共に舟山島まで帰港した。
だから寧波港に残っているのはハミルトン少佐以下、百道中尉が指揮する自動車化歩兵2個小隊、轟中尉の寧波飛行場分遣隊、石材を舟山島まで輸送するための小型船舶隊、それに通信班だけの小所帯となった。
ハミルトン少佐が居残ったのは、市街地を包囲している車騎将軍に敬意を示してである。
けれども続々と到着する福州・温州水軍の軍船や、温州・台州の商人船で、さしもの寧波港もパンク寸前の賑わいだから、司令部付近では人が減ったという感じはしない。
飛行場などの警備は、台州城攻めのときに轟中尉と顔を合わせていた温州や福州の武官が請け負ってくれている。
ハミルトン少佐や百道中尉、轟中尉などの将校は、鄭芝龍の許可を得て南明軍将校との交流(顔合わせ)や情報交換も行った。
この時に御蔵側が南明軍側に提供したのが、河南地域の地図の青焼き複写や上虞・紹興・杭州など、今後南明軍が進行するであろう城市の航空偵察写真だ。南明軍将校は、空から眺めた城市の写真を見て「まるで今にもこの手に取るかのようだ。これでは何も隠すことなど出来ない相談だな!」と大いに驚愕した。
また安定を取り戻した寧波港には、戦を恐れて逃げ散っていた住民も徐々に戻って来つつある。
男たちが清朝への忠誠を示す弁髪を剃り落としてしまって、港の周辺に禿頭ばかりが目立つのは、ちょっと奇妙な風景である。
頭巾を扱っていた商人は、不意の戦時景気に沸いていた。
この様な中、小倉藤左ヱ門は配下の軍船と共に呂宋に向けて寧波港から出航している。
藤左ヱ門自身は、市街に籠る清国軍が降参するまでは出発を待つ心算だったのだが、鄭芝龍が「寧波の敵軍は最早死に体。躊躇わず呂宋に向かわれよ。」と勧めたからだった。
そして鄭芝龍は「途中、馬祖島に立ち寄って、黄尚書に文を渡して頂きたい。」と藤左ヱ門に手紙を託している。
礼部尚書の黄道周は、弘光帝の側近として重きをなしている男で、癇癪持ちの老人だが頭の切れは良いし、明朝に対する忠が厚く統率力もある。
御蔵勢という強力な援軍の力で、温州の魯王と和し、台州や寧波を既に奪還したことを皇帝の耳に入れるのには、あの癇癪持ちの老人を通して行うのが最も効果的であろうと考えたからだ。
小倉藤左ヱ門は「謹んで務めさせて頂きまする。」と文を受け取った。
「それともう一つ、是非とも遣り遂げて欲しい事がある。」
鄭芝龍が滅多に見せない厳しい目をして、藤左ヱ門に語りかけた。
「何でございましょうか、車騎将軍様?」
鄭芝龍は、ウムと頷くと「トマトの苗を持って来て欲しいのだ。」と胸中を明かした。
「とまと?」
藤左ヱ門は混乱した。トマトならば赤い実を愛でる観葉植物として、イスパニアが新大陸から持ち帰って呂宋では普通に栽培されている。ただしその実には毒があり、食せば死ぬと言い伝えられているのだが……。
「御蔵勢の御大将と会食をした折、ピザという小麦粉を焼いた饅頭が出た。」
鄭芝龍は大まじめに、藤左ヱ門にピザの話をする。
「その饅頭の上に塗り付けてあった物が、トマトを煮詰めた汁よ。美味いばかりでなく、滋養もあるし保存も利くのだとか。生で食しても羹にしても、良い風味を出すらしい。塩気のある土地や水に乏しい地でも育つというから、戦で荒廃した場所で育ててみない手はないだろう。」
包囲された寧波市街から白旗を上げて出て来たのは、呉三桂軍の副将格だった尚可喜という元明軍の将軍で
「降伏は到底致しかねるが、停戦になら応じても良い。」
と尊大に交渉を持ちかけてきた。「我の首を刎ねたところで、大清皇帝陛下は何の痛痒も感じぬわ。我らが上虞まで兵を退くのを黙って見ているか、この地を焦土と化して雌雄を決するのか、好きな方を選ばれよ。」
言葉こそ強いが、いってみれば面子を立てるための方便である。
応対した鄭芝龍の弟の鄭芝鳳と従弟の鄭芝鶴は、尚可喜の態度にムッとしたが、文官服に身を包み書記官のような顔をして交渉の席に参加していた趙が
「お亡くなりになった呉将軍様の最期の賭けは、寄せ手の明軍と新倭寇とが、この寧波の地の支配を争うて共倒れになる事だったのではありますまいか? 後世に記録を残す記録係として興味がございまして、是非ともお教え頂きとうございます。」
と飄然と問うと、尚可喜は明らかに顔色を変えた。兵数に勝る鄭芝龍軍と未知の兵器を駆使する新倭寇とが、協同して市街に押し寄せれば、寧波の防衛など不可能であるばかりでなく、一方的な殺戮に遭うであろうことを身に沁みて知っているからである。
そしてその事を、寄せ手の鄭芝龍も先刻承知だという事も。
趙の発言により、緊張した会談に一呼吸分間が空いたおかげで、鄭芝鳳が鄭芝龍から『何より明の再建を最優先するのだ。市井の者を害し市街を荒廃させるよりも、穏便に撤兵させる道を選ぶよう。』と指示されていたのを思い返した。
鄭芝鳳は「これ、記録係の分際で武人同士の真剣勝負に口を挟むな。」と、尚可喜の前で趙を窘めて見せる。
そして「尚将軍が、民に被害が及ばぬよう腐心されておるのは、よく分かりました。卑怯な追い打ちは致しませぬ故、余計な荷物はそのまま置き捨てて上虞に向かわれよ。また戦場で相見えましょうぞ。」と清国軍の徹兵に同意した。
悠然とした態度に見えるよう虚勢を張って市街に戻る尚可喜を見送った鄭芝鶴は、趙に対して
「流石は黄尚書様の懐刀と名高い趙士超様。見事に尚将軍の勢いを挫きましたな。」
と、記録係というトボケた役割を演じて、場の空気感をサラリと変化させた手腕を称えた。
鄭芝鳳も「あのまま、あの狸にいい様に言わせておれば、腹立ちのあまり切って捨てていたやも知れません。さすれば血みどろの攻城戦に突入してしまっていたでしょう。尚可喜にしてみれば、それが狙いであったのかも知れませんが、誰も望まぬ結果になっていたはず。……礼を言います。」と頭を下げた。「しかし、あの『記録係として』という言い草、なんとも不思議な味わいの言葉でありますな。」
趙士超は何時もの趙大人の顔に戻ると、頭を掻いて
「いや、そう面と向かって礼を言われるのは心苦しい。実を言えば、あれは知人の真似をさせて貰ったのだ。御蔵の島で『新聞』なる記録文を認めている若者の。……片山修一という名で、若年ながら、かなり『出来る』男が用いる技なのですな。」
と白状した。
「後の世まで自分の行状が残るのだと聞かされると、人は皆、襟を正さずには居られないものですからな。」
尚可喜は、鄭芝鳳の言った『余計な荷物はそのまま置き捨てて』という言葉の意味を、正しく理解していた。
彼は揚子江以南で徴募した兵や、寧波で新規動員した民兵、南明朝に降伏する道を選んだ兵を『置き捨てる』と、北方から従えてきた古参兵のみを引き連れ、それぞれ3日分の食糧のみを持たせて西門から粛々と退去して行った。
二万余を数えた清国寧波守備軍の内、尚可喜と行動を共にした者は三千足らずである。
尚可喜は出立にあたり、寧波へ残る者たちへ
「儂は、勝手に退いた罪により応天府で処断されるであろうが、それは仕方の無い事である。明を捨てて清に降った時、命運は決していたのだ。諸君らは命を粗末にするなよ。」
と言い残していたということであった。




