合流1
「あの凧は、舟山から飛来したのでござろうな。」
小倉藤左ヱ門は馬を止めて小手をかざすと、傍らを進む趙に話し掛けた。
二枚羽根の凧は、藤左ヱ門や趙にとっては既に珍奇な存在ではなく、心強い味方であった。
その凧が、翼を振って挨拶しながら、大きく上空を旋回する。
藤左ヱ門は白旗を掲げた配下以外にも、「白地に赤丸」の旗を持った者に、それを大きく打ち振らせる。
アメリカ国やオーストラリア国の旗も作りたかったのだが、意匠が複雑なそれらの旗は奉化の野戦陣では製作が難しく、とりあえず製作が容易な日本国の旗だけを急ぎ仕上げて隊の先頭に立てているのだ。
「おおよそ舟山の『えあ・ぷれーん』かと思いまするが、仕事が早い御蔵勢のこと、すでに寧波の湊に滑走路を設えているのかも知れませんぞ。」
鄭隆の、言わば情報将校にあたる趙の見立ては的確であった。
現在上空を舞っている94式偵察機は、寧波分遣隊所属の機体である。
ジョーンズ少佐は作業隊を上陸させると、重機を使って直ぐに滑走路を造ってしまったのだった。
少佐の目論見は、寧波城・寧波港で出た怪我人の、緊急後送に使うためだ。
(けれども捕虜となった清国軍負傷兵は、どんなに重症であっても飛行機に乗せられるのを泣いて嫌がったため、意識の無い数名を運んだだけに終わっている。――無理も無いといえば無理も無い。)
偵察機は鄭芝龍分遣隊の上を、3度周回し終えると――基地への報告が済んだのだろう――再び機体をバンクさせて北方へ飛び去った。
趙は「御蔵の凧」を見送ると、率いている騎兵隊に前進を命じた。
38式騎兵銃装備の趙直属の配下が先頭を進み、小倉隊の陸戦兵、鄭隆の親衛隊長である典の部下が続くという、総勢120名ほどの隊列である。(小倉隊・鄭隆隊の残りの兵――員数からいえばそちらが本隊――は、船で海上を進んでいる。輸送力は海上輸送の方が圧倒的に上だからだ。)
奉化からの途上、投降兵や志願兵からの接触もあったのだが、歩兵を加えると隊のスピードが落ちるため同道は断り、奉化の車騎将軍に合流するか寧波港の御蔵勢のもとに向かうよう指示している。
車騎将軍や御蔵勢と合流する折には、白旗を上げておくよう教えてあるのは勿論である。
小倉花は中谷医師の下、舟山野戦病院で負傷者の看護に忙殺されていた。
入院患者数は当初予定よりも少ないが、それでも天幕や簡易寝台で病床数を水増ししているのにも関わらず、病院から溢れそうだった。
目の離せない重症者だけでも100人を超えているだろう。
御蔵島の本院で数日間の研修を受けたに過ぎない彼女だが、ここでは充分な技量があるとは言えないまでも必要不可欠な戦力なのだ。
彼女自身も何かを振り切るかのように、担当患者に労わりを持って日々を必死に働いていた。
現場で実地に働く事で、さまざまに吸収する事の多い毎日が続き、彼女の腕は確実に上がっていった。
開設当初に増派された医師数は70人を超えていたし、看護兵や看護婦も150人ほど応援に来ていたのだが、それでも寧波の戦いで負傷し、病院に搬送された多くの清国兵が既に土に還っている。
普陀山から応援に駆け付けて来てくれた僧侶は――医術の心得の有る者は看護にあたってもらっているが――日本軍の僧侶や米豪軍の従軍牧師と共に、宗派を越えて死者を弔った。
土葬するには死者数が膨大なため、荼毘に付してからの埋葬である。
普陀山から応援に来たのは僧侶ばかりではなく、寺に亡命していた女真族官吏や清国協力者も参加している。「人道的立場」から、病院で負傷者看護にあたる者には、舟山野戦病院での行動の自由と身の安全を保障するという連絡と、それに際しての作業報酬の支払いが伝えられたからだ。
「人道的立場」という言葉そのものは近代的な概念だが、戦が身近で人が簡単に死んでゆく世界では、理解するのに脳ミソよりも肌感覚で理解しやすい内容であったのだと言えるだろう。
普陀山で無為徒食の生活をするのに飽き、生活費も心細くなっていた亡命者たちは、このチャンスを逃す事無く、破壊工作や敵対行為を行わないという誓約書に喜んで署名したのだった。
珍しい立場にある参加者としては、御蔵病院に入院していた呂も含まれている。
鄭福松将軍配下の密偵であった彼は、北門島滑走路に駐機していた偵察機に近付こうとして腕を撃たれたのだが、順調な回復を見せてリハビリのために病院内での軽作業に従事しており、病院から医師や看護婦が舟山島に向かうというのを聞いて、自分も参加する事を志願したのだった。
呂は自分の身に起こった経験と、彼の後から御蔵病院に入院してきた清国兵の董の面倒を見ていた経験から、負傷者の包帯交換やアルコール綿での身体の清拭、手術器具の煮沸滅菌や病人食の用意など、多彩な能力を身に着けていた。
元々密偵に抜擢されるくらいだから、頭の回転が速かったのは疑い無いし、性分なのか一つ一つの作業に手抜きが無く着実だった。
今では「看護師の呂さん」として、医師や患者からの信頼も厚くなってきている。
彼は戦場以外での「自分の活きる道」を見出したことを、密かに誇りに思っていた。




