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激突! 寧波城攻防戦2

 爆装偵察機の襲撃に対して、重装騎兵の採った対処行動は、確かに軽爆弾の「破片効果を」軽減する働きは有ったのかも知れない。

 けれども爆圧からは逃れられなかったし、密集していたことで散開していた場合よりも集中した絨毯爆撃を喰らう破目に陥った。


 大亀の甲羅は簡単に叩き割られ、中に籠った兵馬は吹き飛び将棋倒しになった。


 頑丈な鎧や馬鎧を身に付けていたとしても、ほとんどの部分はトラックのボンネットより薄く、戦車並みの装甲を纏っているわけではないし、可動部を増やすためにチェーンか革で繋いである。金属で覆われていない部分も多いのだ。

 また一度倒れてしまったら鎧兜の重さで起き上がることもままならず、し掛かってくる他の身体を退けるのは不可能。

 そもそも300~700㎏もある馬の下敷きになってしまえば、死なずにすんだ場合でも負傷は確実で身動きなど出来ようはずがない。

 転倒しただけで肉体的にはほぼ無傷ですんだ兵すらも、傷付き狂乱状態の軍馬のひづめを避ける事が出来ずに次々と踏み潰されていった。


 そこへ偵察機の機銃掃射が追い打ちをかける。

 馬が50km/h(瞬間的には70㎞/h以上)で走れるとしても、94式偵察機の最高速度は300㎞/hと比較にならない。

 甲羅の外周付近に配置されていて、幸運にも転倒に巻き込まれなかった騎兵も、市街へ逃げ戻ろうとした処を、腹背から7.7㎜機銃弾を浴びてくしの歯をひくように数を減らしてゆく。

 本当ならば騎乗して逃げるよりも、馬を捨てて地面に伏せる方が、生き残るには多少はマシだったのだ。


 2,000騎から成る強力な重装騎兵軍は、使い方さえ誤らなければ有力な突撃兵団に成り得たのかもしれないが、兵装や戦術思想の丸っきり異なる「非対称戦闘」に於いては、持てる潜在力を発揮する事が出来なかった。

 清国軍の陸上増援部隊は、呆気無く壊滅したのである。






 甬江の戦いでも、装甲艇部隊が手堅く戦果を拡大していた。


 数に勝る清国舟艇部隊は、被害をかえりみずに突進して来たのだが、装甲艇を捉えて接舷戦闘に持ち込むことは叶わなかった。

 その要因は二つある。

 一つは、微速後進をかけていた装甲艇側がエンジン出力を上げて後進スピードを増したこと。

 そしてもう一つは、川舟の清国兵が戦闘に備えてかいを捨て、武器や楯に持ち替えたことだ。このために川舟の推進力は船頭が操る船尾のだけとなり、前進速度がガクリと落ちた。


 更にあと一つ付け加えるならば、彼我の距離が接近したために、装甲艇の57㎜砲がほぼ平射角で敵を狙い撃てるようになり命中率がアップしたのも、清国側にとっては不利に働いた。

 トーチカ陣地破壊目的の57㎜砲弾は、命中弾(もしくは至近弾)であれば確実に川舟一艇を吹き飛ばしてしまう。


 装甲艇の艇長は、近接戦闘に備えて小火器の準備をさせていたのだが、どうやら使わずに済みそうな形勢である。


 流石さすがの決死隊も、味方が10艇ほどにまで撃ち減らされた時点で前進を諦め、舟を岸へと向かわせ始めた。

 着岸を待てずに鎧や装備を投げ捨てて、川に飛び込む者もいる。

 今までの戦闘では、逃げる敵には敢えて追い打ちをかけずに、逃げるに任せていたのだが、今回は違った。機銃塔も砲塔も、攻撃の手を休めない。


 寧波市街を押さえている敵指揮官は、明らかに攻撃部隊を死兵化して戦場に向かわせている。

 造反者や逃亡者が出ないよう、徹底的な管理や粛清が行われているのに違いない。

 出撃する兵の身内を人質に捕るなどという手法が採られているのだろう。

 甬江を下れなくなったとしても、陸上を迂回して寧波城を目指しても不思議は無い。

 降伏しない敵兵は、徹底的に叩くのみである。


 重機関銃が唸り、砲弾が河原の土砂を噴き上げ、数を減らし背中を見せた敵敗残兵が市街方向へ逃げ散るまで装甲艇の攻撃は続いた。





 掃討の終わった寧波城では、生き埋めになった敵兵の救出が行われていた。

 突撃に加わった清国兵は、ほぼ全員が戦死していたために、建物の下敷きになって怪我を負っていた兵はむしろ幸運だったと言える。

 突撃部隊でまだ息のあるものは、衛生兵から応急処置を施されてはいたが、助かるには余程生命力が強くないと難しいだろう。

 潰れた建物から救出された兵は、武装解除後に簡単な治療を受けて、監視付きで大発に乗せられたのだが、担架に横たわったまま瓦礫を掘り返す排土板付戦車を目にして、呆然としていた。


 95式軽戦車と武装ジープは、4両の貨車山砲、荷物を降ろして各々10名の兵を乗せた4両の輜重トラックと共に、街道を3㎞先にまで進出して重騎兵隊が壊滅した場所にまで到達した。

 戦車を警戒に就けると、ジープと貨車山砲の兵も加わって救命が叶いそうな敵兵を捜索するが、スタンピードに巻き込まれた重装兵の殆どは既に落命するか虫の息であり、トラックに担ぎ込んだ者は60名に満たなかった。

 敵負傷兵を乗せた3両のトラックを寧波城にまで返すと、残った兵は黙々と倒れた重装騎兵から金属装備を回収した。

 埋葬を行うためには、上陸第二陣のバックホウやホイールローダーの到着を待たなければならない。





 負傷兵輸送のために武装フェリー音戸が甬江河口に到達した時には、4艇の装甲艇が小型輸送船から燃料や弾薬の補給を受けている最中だった。

 装甲艇は補給を受けた後に、再度哨戒活動に就く予定だったのだが、偵察機からの報告では、寧波市街からの再出撃の予兆は認められないことから、暫しの休息をとる事が可能となった。

 甬江の水面には、破壊された川舟のものと思われる木片多数が流れて行くが、死者は時おり視認できるだけである。水上戦の死者は鎧や装備を外す暇が無かったために、そのまま沈んでしまったものと思われる。


 城から守備兵の亡骸なきがらを運び出す作業は、休息を挿んで継続されていたが、同時に爆薬の設置も進められていた。

 石垣や煉瓦塀に爆薬を挿入し、電気式発火の遠隔操作で一気に破壊してしまうためである。

 仮にハミルトン少佐とジョーンズ少佐の部隊が舟山まで引き上げたとしても、城が防衛拠点とならなくなった事を理解すれば、寧波の敵司令官も兵を送り込む試みを断念するだろう。


 舟艇母船天津丸は、負傷兵輸送用に特大発1艇を残すと舟山港に向かっていた。

 ジョーンズ少佐指揮下の重機と作業隊を連れて来るためだ。

 舟山前進司令部には、寧波の清国軍の攻勢と、それを撃退した旨は既報として打電されているため、天津丸廻航後には即座に作業隊の乗船が始まる。


 野戦病院は形が整う処までは出来上がっていたが、御蔵からの増援の医師・看護師は追加資材と共にまだ輸送船で舟山港に向かっている途上だった。

 普陀山からは、医術の心得のある学僧や修行僧が10名ほど野戦病院への協力の申し入れがあり、舟山分院の医師たちが、細菌や感染症の理由、消毒の重要性といった現代医学の基礎を伝えていたが、通訳を介さなければならない事や新しい「単語」を理解してもらわなければならない事が、相互理解の困難さを増していた。

 概念すらが存在していない事象を説明するというのは、互いが理知的であっても(あるいはそれ故に)説明を難しくするのだ。





 寧海にんはい象山しえんしゃんの両拠点を降伏させた鄭芝龍将軍は、温州軍の「今関羽」を加えた兵力を以て、奉化ふぉんほあを攻囲している時に御蔵勢の寧波上陸を知った。

 鄭将軍の情報ソースは、台州飛行場から飛来した『凧』が散布したビラである。

 そのビラには、寧波の清国軍には奉化支援の力は既に皆無である点が淡々と記されており、ビラを読んだ鄭芝龍は奉化けの降伏は時間の問題である事を確信した。


 鄭芝龍将軍は、象山占領後に合流した鄭隆配下の趙や親衛隊長の典、水軍の小倉藤左ヱ門らを呼ぶと、寧波城へ先行するように命じた。

 寧海・象山占領で得た軍事物資の輸送を、御蔵勢の船に依頼するためだ。

 高速な上に風向きに左右されない御蔵勢の船で甬江まで物資を移送すれば、運河を進むのには川舟でも海のように転覆する危険が矮小化される。

 しかも御蔵勢は、甬江河口に清国軍が放棄した川舟を多数保有していると言うではないか。

 輸送代金や川舟の購入代金は、両城での戦利品の中から支払えば良いし、御蔵勢は金銀よりも銭、鉄や錫、銅や亜鉛、綿や紙といった物をを欲しがるようだから、懐はあまり痛まない。

 なんならオランダ商館から手に入るはずのゴムを、安く譲ると約束しても良い。


 けれども鄭芝龍将軍には、御蔵勢は欲深い要求はして来ないだろう、という読みもあった。

 南明朝が寧波(および杭州湾)を自領として回復すれば、御蔵勢は彼らが求めている「安定した状態」を手に入れる事が出来るようになるからだ。

 趙の見聞や、将軍自身が翠光丸で経験した事を考えれば、彼らには領土的野心よりも技術の維持構築のほうが遥かに重要なのであり、若き日々を冒険的貿易商人として過ごした鄭芝龍には、その生き方が眩しく感じられた。

 ――車騎将軍などという、責任さえ負っていなければ!

 彼は御蔵病院で「病気療養」をしている雛竜先生こと鄭隆の立場が、非常に羨ましかったのである。


 「その役目、無事に果たせましたら、一度呂宋に戻りとう存じます。なに、直ぐに戻って参りまする。……今少し、人手を連れて来たく思いまして。」

 藤左ヱ門が恭しく車騎将軍に伺いを立てる。

 この優秀な水軍指揮官は、義によって劣勢だった南明に味方しているのだから、去ると決心すればそれを止めるすべは無いのだが、たもとを分かつというのではないようだ。

 むしろ拠点(生活基盤)を、呂宋から御蔵・舟山へ移すと決心したらしい。

 すでに彼の娘らは、御蔵で新しき知恵と技術を学んでいると言う。


 「良き決心だ、と思いますぞ。」

 それが鄭芝龍の出した答えだった。

 「呂宋への船は御蔵勢に頼まれるのか?」


 「いえ。手前どもの船で参ろうかと。」藤左ヱ門が慎重に応じる。

 大きく頷いた鄭将軍は

「それが宜しい。下手にイスパニアに知られたら、後々面倒が起きよう。……ま、何時までもイスパニアやオランダに隠し通す事は難しかろうが。」

と同意した。


 お読みいただきありがとうございます。


 次話で寧波市街を鄭芝龍軍が占領する、という所まできたのですが、冬童話で泥沼に入ってしまったため、ちょっとの間「並行世界で国姓爺合戦」の方は、お休みを頂きます。

 もし楽しみにしておられる読者様がいらっしゃいましたら、大変申し訳ありません。陳謝平伏雨あられです。


 ……で、その冬童話の方なのですが、卑弥呼の金印の行方と逆さ虹の森の設定とを絡めて、1万字くらいで書くつもりのコンセプトだったのですが、はっはっはっ、どうしようもねえ、既に2万字行っちゃってます。

 誰が読んでくれるんだよ、こんな変化球!

と自分で自分を罵りながらも、書かずにはいられないというヤツでして。

 難儀なものです。物語を描くという行為は。

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