ライフ36 金井さんや鴻池さんによれば百科事典が大人気読み物になっているらしい件
「まあ、そういう訳でして、ここはもう『僕たちが知っている歴史』とは別の世界になってしまっているんです。平行世界っていう、空想科学小説ではよく有る設定なんですが。」
演習終了後の一服タイムに、僕は生田さんたちと訓練生控室でお茶をしながら『未来から来たといっても、この世界の未来を知っているわけではない』という件に付いて話し込んでいた。
「だから仮に僕が明と清の戦争の研究者で、鬼のように詳しい事情通だったとしても、台州城が開城するかどうかは既知ではない、という事になります。……まあ実際には只の受験生で、教科書や参考書に書いてある以上の事は知らないんだというのを別にしても。」
「そう考えればその通りだねェ。他ならぬ僕自身が、この明や清の戦争の時代――日本で言えば江戸時代か――からしてみれば、立派な未来人なのだものねェ。でも近松の国姓爺合戦を読んだ事無いし、戦争がどう推移したかなんて気にも留めていなかったよ。台州城がどう落ちたかなんて訊かれても、知らんとしか答えようがないなぁ。」
生田さんが、得心がいった、という感じでお茶を啜る。
僕や岸峰さんの存在のせいで、彼自分もまた『未来人』であるという事が、何となく意識の外になっていたみたい。
「近松門左衛門は1653年の生まれだから、まだこの時代には『国性爺合戦』って、浄瑠璃の台本として、書かれてもいないんですよ。それどころか近松門左衛門、生まれてさえいないです。それに『国性爺合戦』は、歴史的な事実とはかけ離れた内容だから、読んでも戦争の経緯なんかは参考になりません。近松も国姓爺の『姓』の字に姓名の姓ではなく、性質の『性』をあてて、歴史的事実とは異なりますよとコトワリを入れてます。」
こう発言したのは、生田さんと同じ化学工場で事務をしている金井信子さん。
おっとりハンナリした女性なのに、遠距離狙撃が滅法上手い。本人は「こんな事にでもならない限り、自分では死ぬまで気が付かなかった特技ですねぇ。」なんて笑う事が出来る人だ。
「や! ノブちゃん詳しいじゃないか。」
驚く生田さんに
「主研? 事務所で埃被ってた大百科にはフツ―に書いてありますよ。まあ生田主研が、横文字の専門書にしか目を通さないのを知ってますけど。」
と、ノブちゃんこと金井さんは微笑んでみせる。「他の人は、今がどんな時代なのか気になるから、みな目を通しに来てますよ。新町なんかからも、メモ帳持参で大百科を読みに来る人がいますね。他の工場なんかでも同じみたいです。」
「そうそう。事典読みの梯子して回ってる人、居るわ。大百科ばっかりじゃなく、卓上百科事典でも読み応えがあるからね。けっこう活字に飢えている人らって居るもんだね。」
金井さんに相槌を打ったのは、新町造船で鹵獲木造船を焼玉エンジンのポンポン船に改造するプロジェクトに加わっている鴻池さん。熟練の船大工さんだ。
本人は器用貧乏のナンデモ屋と謙遜しているけど、新町造船所だけでなく、鋳造工場や御蔵造船所も駆け回っている人で、メチャクチャ器用な指と腕とを持っている。
ポンポン船への改造プロジェクトは軌道に乗ったとかで、量産は部下に任せて、最近では石炭や薪を燃料にする小型蒸気船の試作が忙しいらしい。
立花小隊では、演習中に銃や車に故障が出て、自分一人で対応が難しかったら先ず鴻池さんに相談する。
「なんにせよ向学心に燃える若人が多いのは、結構な事だと思うよ。島の行く末、先の事を考えれば。新町湯の若いのと、滋養亭のトコの娘さんなんかもそうだね。これまでは左程『本の虫』だとは思ってなかったけどさ。」
「でも不思議といえば不思議ですよねぇ。このまま歴史が変わっちゃたら、近松は『国性爺合戦』を書かないのかも知れないし、近松にならずに杉森信盛のままなのかも。」金井さんが首を捻る。「……ああ、心中物なんかは書くかも知れないから、近松の名前は残るのか……。でも大当たりの代表作が一本、消えちゃいますねぇ。」
「そのあたり、どうなんだろね。」鴻池さんが相槌。「ある日、気が付いたら事典の内容が替わってしまっている……なんて事が有るのかねェ?」
「私たちが『私たちの過去』に移動したのなら、そういった歴史改変による変化が起きる可能性はあるのでしょうが、その場合には同時に私たちの記憶も書き換えられているはずだから、気付くのは不可能って思いますよ?」と岸峰さんがお茶うけの沢庵を齧る。「気付いてオモシロがれるのは、『外の世界』から私たちを見ている『観測者』だけ、なんじゃないでしょうか。」
彼女はポリポリと良い音を立てながら「一方で、移動した先が『ほぼ同様な平行世界』だったら、御蔵島に現存する事典の記述は変わらない。同じ言語が使われていても、なんてったって異なる世界で書かれた本なのだから。でも今後の歴史は記述と違ってくるのも間違い無い。――その場合には、仮に私たちが事物だけを残して元の世界に帰ってしまったら、残された事典なんかは『偽書』とか『魔導書』みたいなモンですね。未知の法則やら技術が満載の。時代の先を行く魔法の書物です。見付けた錬金術師は大興奮マチガイなし!」
「でも未知技術を私たちが披露したら、宗教裁判とか怖くないですか?」
金井さんが疑問を差し挟む。「ガリレオが『それでも地球は動いている』って呟いたのは、1633年の判決の時でしょう? ここの歴史では10年くらいしか経ってないです。」
「日本や支那は新しモノ好きな処があるから『外来知識スゴイ』で押し通せてても、宗教でガチガチの現欧州に足を踏み入れるのは危険なのかもなぁ。『ふらんすに行きたしと思へども、ふらんすは余りに遠し』か。」と萩原朔太郎を引用したのは生田さん。
「朔太郎の慨嘆とは、意味がメチャクチャ違い過ぎていますけどね。」と応じたのは岸峰さん。
「片山さんが編集長を辞任しなかった世界っていうのも、もしかしたらどこかに存在するのかも、ですねぇ。」と金井さんが会話のボールを投げてくる。
「あるのかも知れませんね。」僕は直球で投げ返す。
そして直球過ぎたかな、と反省して付け加える。「別の世界への分岐点の位置は、無限大です。」
電算室に戻ると、心配そうな顔をした雪ちゃんと、ニガムシ顔の茂子姐さんとが待っていた。
「新田さん、こんにちは。雪ちゃん、今日は病院じゃなかったの?」
「アンタが馬鹿な放送をするからだろ。」姐さんの指摘は手厳しい。「居ても立っても居られずに来ちゃったんだよ。雪ちゃんは。」
そして、ホンのちょっとだけ優しい声に換えると「嫌いじゃない、と言わなきゃウソになるんだけどね。でも馬鹿だという認識までは変えないよ。――純さんは大変だろうけど、頑張んなさいよ。馬鹿な相棒を持って苦労だけどね。」
「この度は、相方が不始末を仕出かして申し訳ありません。」
岸峰さんが馬鹿に成り替わって姐さんに頭を下げる。「新田さんには、もう打診が行ったと思いますが。」
「うん、聞いた。源さんが復員してきたら、お神酒徳利で相勤めさせていただきますよ。御安心なさい。……ま、素人だから、名義貸しみたいなモンだけど。」
「師匠がお元気そうで安堵いたしました。」
雪ちゃんがニッコリ笑顔を見せる。
「そうかい? ふにゃふにゃしてる様に見えるけど。」と口にした姐さんだが「ああ……フニャフニャは地か。変化無しなら元気の証拠かね。」
「『失敗する事もあるけれど、私は元気です。』とか『元気があれば、何でも出来る。』とか、気の利いたセリフが出せれば良いんですけどね。ま、立ち直ってはいるみたいですよ。ウチの相方は。」
岸峰さんのフォローに、雪ちゃんはぎこちなくウィンクを決めると
「立ち直ったではなく、立て直した、でございましょう。師匠は相棒にも人を得ておられる。」
と結んだ。「やれやれ。それでは新田様から頂戴したウィスキー・ボンボンを、花めの口に捻じ込んで参るとしましょう。……明日からは、朝から出勤いたします。」
「それではアタシも御神輿を上げるかね。」
姐さんは僕に一袋のボンボンを握らせると「特別サービス。秘蔵のボンボンだよ。中身が減ってるのは、雪ちゃんにあげた分だよ。」と、こちらは年期を感じさせる見事なウィンク。
雪ちゃんがウィンクなんて何処で覚えたのだろう、と疑問に思ったのだが、そうか、姐さんの直伝か。
「じゃあデスク、夕方向けの記事に目を通して下さい。それとボス、こちらが鹵獲品の現在判明分の資料です。正確な重量が分かりませんから、全体収支には反映させずに別表扱いですが。」
成り行きを見守っていたと思しきキャロラインさんが、仕事モードに切り替えて2台のパソコン画面を指し示す。
「すごい量の穀類だね。」
僕も頭を切り替えて集計画面をチェックする。
「食糧班とか糧食工場の人と話し合わなきゃならないだろうけど、島で持て余すようだったら長崎で売ることも考えた方が良いかも知れない。明の人で密貿易の経験がある人がいたら、薩摩とか平戸とかとの交易もアリかも。袁さんなんか詳しそうだ。……これ、中佐殿とかは既に当然レベルで考えているだろうから、ちょっと下に行って打診してくる。『密貿易経験者求ム』って求人出しますか? って。」




