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台州始末4

 源さんこと大内源蔵警部補は、綿シャツに地下足袋といった気楽な格好で通訳一人を連れ、台州海岸に店を張った従軍商人たちの露店巡りをしていた。

 軍の進撃が速いせいで、妓楼ぎろう(遊女屋)のような店は未だ無い。

 露店に並ぶ品は、酒や食い物か薪炭しんたん灯明とうみょう用の油といった戦地での生活必需品がほとんどである。


 が、時おり珍品を並べている店がある。

 現代の言葉を使うのなら「アンテナショップ」とでも呼ぶべき意味合いの店である。


 有力な『業者』は、南明軍の有力者と何らかのコネクションを持っているから、小店を出さなくとも出立しゅったつ前に仕入れの指示を受ける事が出来るのだが、実験的な店舗を出しておけば現地での需要の動向が掴める上に、今後の商売に役立つかも知れぬという目論見もくろみもあっての出店だ。

 この様な店を切り盛りしている商人は、抜け目無く『同業他社』の品揃えに目を配っている。


 これに対して徒手空拳としゅくうけんの一旗組は、この遠征に追従することでもうけを得るという目的の他に、仕入れ担当の武将や文官の目にまることで、新たに御用商人への道を切り開くことが叶うやも知れず、と必死だった。

 それだけに、有力商人が扱っていないような商品を店に並べるのである。


 明らかに明国や清国のそれとは異なる服装の源さんは、市の中で異様に目立つ存在であるから、様々な商人が声を掛けてくる。

 彼らは源さんが御蔵軍(あるいは新倭寇)の者だという事に気付いた上で接触を試みているわけで、今までに無いビジネスチャンスを狙っているのである。


 源さんは話し掛けてくる一人一人に愛想良く応じながらも、足を止める事無くフラフラと漂うように歩んでいた。

 そんな源さんが立ち止まったのは、一軒の文房具を扱っている露店で、墨や筆を商っているのだが、墨の値段がバカに安い。同業他社の半値以下という価格設定なのだ。


 墨を手にしてめつすがめつしている源さんに、店主が恭しく話し掛けてくる。

 通訳によれば「最高級とは言いませんが、良い品ですよ。大損覚悟でお安くしております。今後、御贔屓にして頂けるのなら、更に値引きしましょう。」と言っているらしい。


 「旦那、だまされちゃいけません。その墨は、とんだまがい物だ!」

 横から口を挿んで来たのは別の店の主で、その男は源さんを尾行して動向をうかがっていた人物だった。

 外事課のベテラン刑事である大内警部補は、複数の商人から「つけ」られているのに気付いていたのだが知らないフリをしていただけなので、別に驚きもしなかった。


 「どう紛い物なんだい?」

 警部補の質問を、通訳が尾行していた男に伝えると

「良い墨という物は、陶器の蓋に着く油煙ゆえんを丹念に掃き集めて、質の良いにかわで練り固め、長い年月を寝かせた物。そいつが売っている紛い物は、油煙を石墨せきぼくの粉で嵩増しした粗悪品だ。大昔、漢の時代にはその様な品も使われていたそうだが、今日こんにちでは見向きもされない偽墨よ。」

と、怒りをあらわにする。


 「知った風な口をきいて商売の邪魔をするな! 戦場いくさばでは質より量が求められるのを知らんのか!」と安い墨を商っていた男も激昂し、二人が掴み合いの喧嘩を始めそうになったから、源さんは「ま、落ち着け、落ち着け。」と間に入った。

 なおも睨み合う二人に、源さんはポケットから出した紙巻煙草を一本ずつ手に握らせると、自分も咥えてからマッチを擦った。


 ポッと熾った小さな火に、喧嘩の成り行きを見守っていた周囲の群衆から驚きが起きる。

 源さんは自分の煙草に火を点けてから「あんたらも一服しなさいな。」と一触即発だった二人に火を勧める。

 二人の商人は、あんぐりと口を開けたままマッチから目を離す事が出来ない。


 源さんは短くなったマッチを地面に捨てて踏み消すと

「ん? これか? これは燐寸まっちという火熾しだ。便利だろ?」

と、もう一度マッチを擦って見せた。

 そしてフウと紫煙を吐き出すと「この通り、見た目は変かもしれないが、アンタらに振る舞ったブツは煙草さ。煙管きせるいらずで便利だろ?」とゴールデンバットの説明をする。「ま、論より実践。吸ってみなさい。」


 二人の商人は喧嘩していた事も忘れたようで、互いに顔を見合わせると恐る恐るバットを口に咥えた。

 源さんが三度みたびマッチを擦って、二人の煙草に火を点けると、二人とも申し合わせたかのようにオオ! と感嘆した。


 「その燐寸や煙草、商ってみたくはないか?」源さんが恵比寿顔で問い掛ける。

 二人の商人は、顔を真っ赤にして頷く。とんでもない商売ネタを掘り当てた、と興奮しているのだろう。

 手を翻すだけで即座に火を起こせる道具など、見た事も聞いた事もないのだから当たり前だ。独占すれば巨万の富が転がり込む事、間違い無い。

 見物人の間からも「ウチにも!」「俺にも!」と次々に興奮気味の声が上がる。


 「まあ、待ちなさい。私は縁というモノを大事にする男でね。こちらのお二方が優先だ。」と源さんは見物人を制する。

 そして肩から下げた雑嚢をゴソゴソやって

「けれども、木で鼻をくくったような対応も出来まいて。銭は唸るほど持っているから金では売らんが、変わった石となら取り換えに応じなくもない。変な石を沢山たくさん集めて小山を作り、眺めながら酒を飲むのが好きな道楽者なんだよ。特に好きなのが、こんな石さ。宝石とは違って売り物にはならんが、じっと見てると味があるだろ?」

と小さな石コロを幾つも取り出す。

 「うんと集めて舟山島まで持っておいで。舟山島には燐寸の他にも、よそで手に入らない面白いモノがあるからね。島に来る時には、船に必ず白旗を掲げるんだよ。」


 見物人には名前が分からないだろうが『灰重石』『鉄重石』『輝水鉛鉱』なんかのサンプルである。

 『灰重石』はタングステンの、『鉄重石』はタングステンやマンガンの、『輝水鉛鉱』はモリブデンの原料鉱物である。

 タングステンやモリブデンが元素として単離されるのは18世紀のことだから、この時代では只の変わった石に過ぎない。

 中国大陸には、これらの鉱石が世界的に見ても偏在している。この時代に鉱山として開発されているわけではないが、御蔵島での消費分くらいなら、露頭からでも充分に集めてくることが出来るだろう。


 果たして見物人たちは、鉱石サンプルを手にすると一斉に散った。使用人たちに「探せ」「集めよ」と指示を出すためだ。本店にも直ぐに早船を走らせることだろう。


 「さて、見物人も減ったことだし商売の話をしようか。」

 源さんは恵比須顔を崩さないまま、鉛筆と手帳を取り出すと「先ずは、お近づきの証に名前を書いてもらおうかね。」と二人の商店主に差し出した。

 墨汁も筆も無いのに戸惑っている二人に、源さんは「墨は要らないんだよ。ただ書くだけで良いんだ。」と『大内警部補』と書いてみせる。「墨壺が無くてよいから、垂れる心配も無い。エンピツという道具だ。これも燐寸に劣らず便利な物だろ?」


 安墨売りの店主が、更に顔を赤くして『甘愈かんゆ』と書く。鉛筆にも大きな商機がある、と気付いたからに他ならない。

 一方、上等な墨を商っていた方の店主は、青い顔で『郭栄敬かくえいけい』と記した。墨や筆といった筆記具が、今後は廃れていくのではあるまいか、と危機感を持ったからだ。


 「甘さんと郭さんか。お二方には石墨を集めてもらいたい。出来れば大きな塊を沢山欲しいんだ。さっきも言った通り、私は石を眺めるのが好きなんでね。出来るね?」

 二人の店主は「任せて下さい。」「必ずや良い石を。」と、口々に約束した。


 源さんは二人に、マッチの小箱を二つずつ手渡すと「手付てつけだよ。」と頷いた。

 石墨すなわち黒鉛グラファイトは、大きな塊は機械軸受の摺動面しゅうどうめんに、粉末は鉛筆の芯の原料に不可欠な材料だ。

 安墨売りの甘は量を、質にこだわる郭は良質な塊を、それぞれ持ち込んで来るだろう。


 「これで契約成立だ。じゃあ、まずは甘さんの船に案内してもらおうか。混ぜ物用の石墨を、持ってるんじゃあないかと思うんだよ。」


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