台州始末3
「それでは父上、お先に。」
具足を外して水夫姿になった少年が、藤左ヱ門に礼をする。小倉家の長男、月之進である。
武骨そのものな顔をした藤左ヱ門とは違って、花や雪とよく似た美しい顔立ちだから、容姿に関しては母親の遺伝的影響が強く出たのだろう。
「舟山島を治めておられるのは、はみるとん殿とじょーんず殿という侍大将じゃ。くれぐれも粗相の無いようにな。」
藤左ヱ門も重々しく頷く。
台州城で鹵獲した穀類で満杯になった大船10艘を率いて、月之進は舟山島へ先発するのである。
鄭隆を北門島へと送り届けた武装漁船が、台州へと取って返してこの船団をエスコートしている。
他にも福州軍(鄭隆隊)バートル級ジャンク10艘と、従軍商人の商船2艘が同行するから、そこそこの規模の船団だと言えた。
「若殿さんの手腕なら、舟山への輸送程度の仕事、何の問題もありますまい。」
沖の軍船へと遠ざかる月之進の艀を眺める藤左ヱ門に、横から袁が太鼓判を押す。
袁は昨日、藤左ヱ門の右腕として月之進が水上交通整理で優れた活躍を見せたのを知っているから、この若者を高く評価していた。
無線通信の恩恵に与れる御蔵軍とは違い、旗と銅鑼と大声しか伝達手段を持たない南明軍船団を、月之進は配下のバートルや艀を手足の様に駆使して見事に統制したのだ。
水軍稼業が長かった袁も舌を巻く鮮やかな手腕だった。
「愚息を過分に御評価いただき忝い。」
藤左ヱ門は袁に頭を下げたが、内心では(本当なら大津丸に乗せてもらって、早い処、雑巾がけから覚えさせたいもの。これからは無線通信とエンジン船の時代が来るであろうに。)と考えていた。
海岸と大津丸や海津丸の間を行き来する小発動艇や大発動艇、内火艇の群れを見て、今さらながら藤左ヱ門は焦っていたのである。
米俵1俵は約60㎏。
駄馬輸送の場合には、1頭の馬の背の両側に、米俵1俵ずつを縛り付け120㎏を「一荷」と称する。
人間は年間で1石の米を食べるとされているのだが、その1石というのは約2.5俵(150㎏)である。(厳密に言うと「石」は体積の単位で「俵」は重量の単位だから、あくまで凡そそのくらいという程度に御承知いただきたい。)
だからリヤカーに6俵の俵を積み、自身に3俵の計9俵(540㎏)を一度に運べるジープは、馬4.5頭分の働きがあると言えた。
石で言うなら3.6石積み。一ヶ月間と期限を切るなら兵43人分。約1小隊を養える。
しかも馬が馬方の歩く速度と同じ4㎞/hの速度でしか移動出来ないのに対して、ジープは道路状況を鑑みて速度を殺して運転しても10~20㎞/hは出せるから、1両のリヤカー牽引ジープは馬10~20頭分の活躍を見せた。
福州軍と温州軍は、御蔵軍の軍船への鹵獲品の積み込みに人数を出してくれたのだが、輸送にあたった荷駄隊の指揮官たちは、御蔵軍の輸送機材の機械化に驚きを禁じ得なかった。
10台ほどのジープ隊が城と海岸とを往復する度に、米・麦・大豆の俵が貯蔵庫から100俵単位で消えてゆくのだ。
一方、1000丁の火縄銃を南明軍に引き渡し終えた98式装甲運搬車部隊は、青銅砲や旧式の鉄製大砲、鉄や鉛の実質弾、旧式の金属鎧や金属楯、青龍刀や大斧などの重い個人用武具などなどを回収していた。
城には御蔵軍が持ち込んだ1000丁の他にも、清国軍が火縄銃400丁ほど、弓が2000張、状態の良い槍多数を備蓄していたため、重い武器・旧式化した武器・修理が必要な痛んだ武器は全て、約束通りに南明軍が気前良く譲ってくれたのだった。
銃の数が城塞の規模に比べて少なく感じられるのは、明朝末期の戦乱のために明国全体で慢性的に不足していた事と、寧波防衛のために銃隊が台州からも抽出されて派遣されていたためだった。
今回、南明軍が御蔵軍から受け取った火縄銃の中には、台州城に備蓄されていた銃も混じっている可能性があると考えれば、歴史の皮肉を感じる。
火縄銃の不足を補うためか、元朝時代にまで製作年代を遡れそうな「火銃」という太い筒状の銅製火器、永楽帝が大量に生産させたという鉄製銃の原型の一種である「神鎗」も大量に発見された。
火銃や神鎗は金属資源として回収されたが、竹製のナンチャッテ火器である突火槍は焼却処分である。
突火槍とは言っても、保管中のそれは火薬やバラ弾が装填されていない只の竹材(一部尾栓部分は木材)に過ぎないので燃やしても問題は無いのだが、ただ焼いてしまうだけでは勿体無いと、焚火の中には大砲用の木製台座や、木板に金属を貼り付けた合成楯なども投げ込まれた。焼け残りから金属を回収するためだ。
装甲運搬車部隊は、嵩はあるが重量はそれほどでもない人鎧・馬鎧・大剣・神鎗などをリヤカーに山積みして一旦船まで運び、履帯式の被牽引車をリヤカーの代わりに連結して引き返した。
大砲の砲身や火銃など金属の塊そのものの重量物は、運搬にチューブタイヤのリヤカーを使うよりも、履帯を履いた被牽引車の方が使い勝手が良かったからだ。
実際に物資搬送中にリヤカータイヤのパンクがジープ隊で発生しており、輜重任務にあたる部隊には被牽引車に何を選ぶべきかという課題が生じていた。
ジープには、ジープと同じ太いタイヤを履いた専用の二輪式トレーラーが被牽引車として存在するのだが、タイヤ以外は総鉄製の専用トレーラーは、それ自身が重い。
一方リヤカーは人力で担ぎ上げるのが可能なほど軽量である上に、大発で輸送する時には空荷ならば尾部を下にして立てて並べる事が出来るから、一度に台数を多く運ぶことが可能なのである。
頑丈な専用トレーラーを選ぶか、手返し重視でリヤカーを選択するのか、今後はシチュエーションによる使い分けを考えなければならなかった。
オキモト少尉は鮑隊長と共に、軍庫に備蓄してある銅銭の叺詰めを監督していた。
叺とは藁筵を二つ折りにして、端を縫い合わせた袋である。銅銭を舟山島か御蔵島で降ろしたら、叺は藁半紙の原料に回す事が出来る。
温州・福州へと征旅の歩を進める予定だった清国軍は、占領地慰撫のためにか軍資金を集積していたため、金・銀・銭が莫大に蔵に収められていた。
銭はともかく金・銀が大量に見つかったのは、もしかすると清国は福州・広州までの全土の占領が終われば、台湾のオランダ商館との貿易も視野に入れていたのかも知れない。
「鮑隊長。このストロー……いや藁製のカーペットは、何でまた城中に大量に用意されていたのでしょうか?」
叺に加工する前の筵を摘み上げたオキモトは、その藁製の敷物が大量に備蓄されていたことに疑問を持った。袋に加工したりと色々と用途の多そうなカーペットだが、余りに多い枚数だからである。
オキモトの質問に「矢を避けるため。」と鮑は短く答える。
そして不思議そうな顔をする少尉の顔を見て、説明が足りていないと感じたのか
「竿に結び付けて、城壁の上に掲げるのよ。下部を縛らずにブラブラさせておれば、鏃が筵を貫いても勢いはそこで減じ、矢そのものの行き足は止まる。縛らずにピンと張っておれば、貫き通して城内まで達しようが、わざと緩くしておく事により、矢を搦め捕るのだ。これは『幔』と呼ばれる防御術で、筵や茣蓙だけでなく、麻布や綿布の幔幕を使うこともある。麻や綿が溢れんばかりに蔵に詰まっておったのも、同じ理由であろ。また幔は矢を止めるだけでなく、目隠しにもなる。敵が巣車なんぞの攻城塔を繰り出してきた時には、城中の様子を探れんようにするために、な。矢避けだけでなく、鉄砲避けにもなるという訳だ。」
と付け加える。
――なるほど矢避けと目隠しか。
一旦は納得したオキモトだが「でも火矢を射られたら、簡単に燃えてしまいませんか?」と訊き返さずにはいられなかった。布と藁の防御物では、火攻めに弱いのは明白だ。
「濡らしておけば、いくらかは保つ。」と鮑の答えは明快である。「それに火がつけば切って捨て、新たな幔を張ればよい。使い捨てよ。だから数を揃える。」
そして「濡らした筵は、火消しにも使えようが。攻め手が火矢や火箭を撃ち込んできた時に、濡れ筵で覆うのよ。油や火薬が仕込んであっても、何とかなる。」と結んだ。
この時代の兵器を相手にするのならナルホド効果的な防御方法だ、と考えたオキモトだが
――待てよ? 清軍は温州や福州へ「攻撃」に向かう心算だったのではなかったか? この筵と布の山は、まるっきり籠城戦の備えのようではないか?
と思わずにはいられなかった。




