台州始末2
趙は、和田混成小隊に降伏した清国兵422人を引き連れて、海岸へと向かっていた。
台州城内で降伏した20,000とは、別に行動させた方が良いだろうという配慮からだ。
趙とその配下は騎乗だが、清国兵は徒歩である。
「帆が無くとも動く鉄の船に乗る事になるが、心配することは無いぞ。飯も出るし、寝床もある。夜中でも電灯という明かりが灯っていて、眩しいくらいに明るい。台州城の宮殿に住むよりも、豪勢な旅だ。……まあ、女は居ないが、な。」
馬上からの趙の呼びかけに応えて清国兵の間から上がったのは、元気の無い笑いだった。
彼らは度肝を抜かれていたのである。
脱出組と袂を分かって、恐る恐る白旗頼りに東門方面へ向かった彼らを待ち受けていたのは、目を射るばかりの光であった。
しかも、その光を放つ鉄獣の一体が、ギリギリ・ギシギシと唸りを上げながら巨大な顎を持ち上げてみせたのだ。
彼らは「降参! 降参!」と口々に叫びながら、その場にへたり込んだ。
彼らには知る由も無かったが、出迎えたのは97式中戦車である。
ドーザーブレード付き中戦車は、挨拶代わりに排土板を持ち上げてみせたのだ。
操縦兵にしてみれば、ちょっとした余興のつもりでしかなかったのだが、その行為は降伏兵の中に残っていた反感や猜疑心を「恐怖」という圧力で軒並み吹き飛ばしてしまった。
日本陸軍装備の蓬莱兵がライフルを構えて接近すると、彼らは尋問を待たずに「知っている全ての事」を口々に白状し始めたのだった。
「よし、ここで一休みする。船に乗る順番待ちだ。腰を下ろして楽にして良いぞ。」
海岸近くの、海を埋め尽くすほどの軍船の群れを望む平地で、趙は皆に大休止を命じた。
大鍋が並び大量の粥が煮られている。具だくさんの粥らしく旨そうな匂いが辺りに充満している。
「兵隊サン、たんとお食べ! 精が付くよ!」
大声で呼ばわっているのは、洞頭列島や温州から船を仕立てて追従してきた従軍商人達だ。
目端の効く彼ら彼女らは、台州の戦いでは南明朝が勝ちを収めるであろうと踏んでいたのだ。
趙は気前良く金を支払うと「腹一杯に喰え。列を作って順番に粥をよそってもらえ! 一杯で足りないヤツは、二杯でも三杯でも、好きなだけ喰え!」と指示を出した。
気力を失っていた敗残兵たちの目に、ようやく僅かな光が戻った。
全員が粥を啜り始めた処で、趙自身も朝飯を食う事にした。
懐から取り出したのは、偵察隊向けに支給された熱量食である。
包みを破ってバーを齧っていると、降伏兵の一人が不思議そうな顔で「ダンナ、なにを食べておられる?」と質問してきた。
「これか? これは未来の食い物だ。」趙はニヤッと笑みを漏らすと、熱量食をかざして見せた。「この一片で、粥を腹一杯に食べた時と同じ力を出せるのだ。……お前がこれから向かう場所は、そんな世界なんだよ。」
地面に座った彼らの横を、馬無し荷車――リヤカー牽引ジープ――が荷物を満載して、次々に忙しく往復して行く。
鄭隆と英玉は、二人並んで鄭隆の病室のベッドに腰を下ろしていた。
二人は隣り合った別々の病室に部屋を取ってもらっているのだが、英玉が「先生、ラジオが始まります。」と早朝からコッソリ入って来たのだった。
鄭隆は拒む事無く「それは楽しみ。」と英玉を迎え入れた。
二人とも明国風の絹衣ではなく、糊の利いた白い木綿の入院着を身に付けている。
髪を短く刈り、簡素な異国の衣を身に付けた雛竜先生は、昨晩初めて会った時には知らない人の様に感じた英玉だったが、言葉を交わすと紛れも無く愛しい先生のままであった。
――私も、燕の様に髪を短くしてしまおうか。
そんな決意を固めた英玉である。
医者からは睡眠を充分にとるように言われているのだが、少しの間でも先生とは離れていたくない彼女は、どちらの部屋にもラジオが備えてあるにも関わらず、放送をダシに突入を試みたのだった。
『皆さん、お早うございます。6時のニュースです。まず始めに、速報です。台州城が無血開城致しました。』
英玉は既に昨日の内にラジオ放送を体験済みだし、鄭隆は加山少佐たちが無線電話で遥かに離れた人々と会話を交わしているのを見ていたから、ラジオという機械から声が流れてきた事には驚かなかった。
けれども英玉の目には、鄭隆がギュっと身体を緊張させたのが分かった。
「先生、如何なされました? 昨晩『大津丸が台州に赴くから、城は早晩落ちよう。』と見立てておられましたのに。」
――先生の予見通りではないか。
英玉は、そう言いたかったのだ。
「いや……早い。……ここまで早いとは。」
台州の清国兵は寧波の苦戦や温州からの工作で意気消沈していようから、抗戦を諦め撤兵するなり降伏する者が出たりするであろうとは予想していた。
けれども一戦も交えずして、ただ開城してしまうとは考えが至らなかった。
――戦果は大きいだろうが、温州兵と剽悍な満州族騎兵との間に激戦が交えられ、南明軍は苦戦の末に御蔵軍の火力を以て敵を圧倒するであろう。
それが鄭隆の『読み』だったのだ。
『御蔵軍の力無くして、清国との戦いに勝利無し。』
そう福州軍や温州軍に知らしめるためにも、緒戦の温州兵の苦戦は必要。そうでなければ、温州軍は己が力を過大評価し、後々の戦いで思わぬ失敗を招く。
鄭隆はそれを危惧していた。
鄭隆が身体を固くしたのは、そればかりが原因ではなかった。
今、流れたニュースとやらは、何千里も離れた台州で起こったばかりの出来事である。
早舟・早馬を駆使しても、数日あるいは数週は伝わる事の無い軍事機密なのだ。
にも関わらず「ニュース読み」の女性は、皆への呼びかけと共に報じた。
それは、このラジオなる機械を所有しておれば、民・百姓に至るまで須らく秘事を共有するという証であろう。
鄭隆は、その速さと公平性に驚きを禁じ得なかったのだった。
「さあ、早う起きませい。雪の仕事に障りまする。姉上とて仕事を覚えねばならぬ立場。新参者が朝寝して良い道理など有りませぬ。」
雪は姉の毛布を引っぺがした。
姉は良い気で寝坊しているのであろうと考えていた雪だったが、花が目を真っ赤にしていたのに驚いた。一睡もしていなかったらしい。
看護師には夜勤が付き物なので、看護婦寮はそれぞれ個室である。
個室といっても、寝台と机だけで一杯になってしまうような狭い部屋ではあるのだが、相部屋の煩わしさからは解放される。
夜勤明けで昼間に睡眠を取らねばならぬ場合がある訳だから、同僚に気兼ねせずに済む個室は、激務の住み込み看護婦たちにとっては必須であった。
御蔵病院の看護婦は、転移前には広島や呉に実家があったり、島外に間借りしている者がいないわけではなかったが、御蔵病院の特殊性から防諜上の観点で寮住まいが奨励されていたのだった。
昨日は病院に着くなり、早々に「花姫さまはツベルクリン陰性じゃから、雛竜先生のお世話をするのはBCG接種して免疫を獲得してからじゃな。」と院長が宣言したために、花は再び雛竜先生とは離れ離れにされてしまった。
院長は「善は急げというからの。中谷、直ぐに接種してやれ。花姫さまも、早く仕事を覚えたかろう。」と中谷医師に花を任せると、鄭隆や高坂中佐らと共に隔離病棟に向かった。「ついでじゃ。寮も案内してやれ。」と言い残して。
中谷医師は「んんんっ! 僕が女子寮が苦手なのを知ってるくせに!」と左手で頭を掻き毟ってみせたが、「中谷、というヤブ医者です。宜しく。」と右手を花に差し出した。
花も握手という礼は存じているから「小倉家の花、と申しまする。愚妹の雪ともども、ご厄介になります。」と中谷の手を握った。但し、目は警戒したままだ。
「中谷様はご自分の事をヤブなどと申されておりまするが、名医でいらっしゃいます。ストマイなる秘薬を工夫しておられる御仁にございまする。」と雪が中谷の力量を紹介する。
そうでもしなければ、姉は「医者など口ばかり達者なイカサマ師よ。労咳に手も足も出ぬクセに!」などとトンデモナイことを言い出す可能性が有ったからだ。
「いやヤブで間違いありません。切った張ったは苦手でね。」
中谷医師は待合室を抜けると「こちらへ。」と花を外来診察室へとエスコートする。
大理石の柱に取り付けられた輝く電球が、白漆喰の壁と磨き上げられたリノリュームの床を照らしている。
花は草履を脱ごうとしたが、「そのまま。土足で結構ですよ。」と中谷が制する。
「君、BCGだ。」と中谷が看護婦に命じると、「ハイ先生。」と無駄の無い動きでステンレスの膿盆に載せられた接種器が差し出される。
BCG接種器は只の注射器とは違い、細かな針が9本並んだ異様な外見をしている。
ツベルクリン経験済みの花は(この注射は針も多いし、さぞや痛いのであろう)と腕を強張らせた。
「力を抜いて楽にして下さい。」中谷は花の着物の袖を肩まで捲くると、優しく消毒綿で拭き上げた。「見かけは怖いけれども、全然痛くない注射なのでね。あれっ? と拍子抜けしてしまいますよ。」
医師の言葉に嘘は無く、BCG接種は直ぐに終わった。
「これで終わりなのでございますか?」
怪訝そうな顔で訊ねる花に、中谷医師は
「そうですね。今日のところは、これでお終いです。後日、免疫が獲得出来ているのかどうか検査はしますが、まあ間違い無く大丈夫でしょう。免疫獲得の確認が取れれば、鄭隆殿の部屋に入っても良いですよ。……ああ! 今夜の入浴は控えて下さい。激しい運動もしない事。約束できますね?」
と微笑んでみせた。
「先生は、診察室と研究棟では別人のようでございますの!」
小走りで歩む雪が少し揶揄うような口調で、中谷医師に語り掛ける。「日頃からそうしておられればよいのに。」
中谷医師はスタスタと看護婦寮への道を辿りながら「無理だね。」と切って捨てる。「診察室では僕の中に『医師中谷』が降臨するから、ああなってしまうのだけど、素の自分はセッカチで我の強い厄介者なのさ。」
――このお医者様はそう申しておられるが、どちらが本当の中谷様なのだろう。
花は二人の会話を耳にしつつ、早足で飛ばす中谷医師の後ろを付いて歩いた。
――激しい運動は避けよ、と言うておられたのに。
「あら先生。今日は別嬪さんを二人も引き連れて!」
中谷医師が看護婦寮の入り口から大声で案内を頼むと、小太りの寮母が現れてカラカラと笑った。「冗談ですよ。もう、お部屋の用意は出来ています。」
看護婦寮は鉄筋二階建てながら、小規模な小学校くらいの大きさがある。
鉄筋コンクリート製なのは、火事対策で木造よりも火に強い事。二階建てなのは、いざ火事が起きた時に、階段や非常口への道が閉ざされていた場合にでも、最悪、窓から飛び降りて避難出来るようにと云う配慮からだ。御蔵島の建築物に多くみられる作りである。
蘭印戦や太平洋地区の戦局拡大時に備えて、収容者数を過大に備えていたから、今では看護師ばかりでなく工場地区勤務の若い娘も受け入れている。
転移当日に島に不在だった看護師もいたから、あわよくば病院勤務に引っ張ろうという院長の策でもあった。
何時に無くモジモジしている姉に替わって「小倉雪、と申します。姉共々、宜しくお願い致します。」と雪が頭を下げると
「電算室のマスコットの雪ちゃんだね。存じてますよ。こちらこそ宜しく。さぁさ、花姫サンも遠慮せずに上がった、上がった。」
と寮母が招き入れる。
「こちらがトイレット。――厠ですよ。そして、こっちが風呂場。」
寮母がノシノシ歩きながら説明を加える。「雪ちゃんは、もう使い方は承知してるね?」
「ハイ。慣れました。」
「じゃあ、お姉ちゃんに使い方を教えてあげてね。台所はこっちなんだけど……燐寸の擦り方も?」
寮母の問い掛けに、雪は着火具を取り出すと「岸峰様が、これを持たせてくれました。」と火を点けてみせた。
「あらァ! スゴい物持ってるねェ。それが未来の燐寸かい?」
「むしろ後の世では、こういったタイプの着火具に親しんで、マッチを使えない若者も居ると伺っております。」
「へえ? そうなんだ。世の中の流行り廃りは激しいモンだね。御蔵島でもその内に燐寸を使わないようになるのかね。」
寮母と雪との会話を興味深げに聴いていた中谷だったが「雪ちゃん、寮母さんとの会話には侍言葉が出ないじゃないか。」と、つい口を挿んでしまった。
「あれ? ……特に気にかけて言葉を選んでおった訳ではないのでありまするが……。」
「ふむ。面白い。だいぶ片山君の……ああ、それと岸峰君の影響が大きいようだ。着火具の説明なんか、まるっきり片山君の喋り方のようだったよ。」
「そりゃ、お師匠様でございますから似ても参りましょう。弟子は師匠を見て育つと言いまする。」
「違いない。」と中谷が笑うと、つられて花も少し笑った。
二人が暮らす部屋は寮の二階に隣り合わせで用意されていて、寮母は部屋の鍵を渡すと
「部屋も見てもらった事だし、晩御飯を食べなさい。先生も今夜はここで食べるんですよ。……ホントに毎日ちゃんとゴハンを食べているんだか!」
と三人を一階の食堂へと追いやった。
中谷医師は花や雪と一緒にテーブルに着いて「寮母さんは、何時もアアなんだよ。僕をガキ扱いするんだなぁ。」と溜息を吐く。
玄米ご飯に鯨カツ、煮魚と菜っ葉の御浸しという夕飯を食べていると
「アラ、先生。男子禁制の看護婦寮で御食事ですか?」
と含み笑いで声を掛けてくる者がいる。
花が声の主に目を遣ると、BCG接種の時に接種器を用意した看護婦である。
勤務が終わったらしく、白衣姿ではない。現代洋装を知らない花には何という服なのかは分からないが、山吹色をした身体の線がハッキリと分かる裾の短い服である。
――なんと軽やかな衣なのであろう! あのような衣を纏えば、雛竜先生も我を好いてくれるのではあるまいか。
花はその服装を好ましく、また羨ましく感じた。
「寮母さんから、ご招待頂いたんだよ。そうでなければ、こんな女臭い場所までワザワザやって来るものか!」
中谷医師の悪態に、看護師はコロコロ笑うと「ごゆっくり。」と花と雪に会釈して立ち去った。
「先生も隅に置けませぬな。」雪が鯨カツを頬張ったままニマニマ笑う。「美しい御婦人と親し気に言葉を交わされるとは。」
「おや? 雪ちゃんは気が付かなかったのかい? 今の娘は、BCGを用意した看護婦なんだぜ?」
花姫さまはお気付きだったでしょう? と中谷が話を振ると、花は目で同意を示し「美しく装われて、別人のようにおなりでしたが。」と付け加えた。
「ふむ? 花姫さまは洋装がお気に入りのようだね。実は寧波で絹布・綿布を大量に鹵獲したから、衣料廠が軍服だけでなく平服も工夫中なんですよ。先ほど彼女が着ていた服は、その試作品です。衣料廠のカタブツばかりじゃセンスが古いから、新町地区の女の子なんかが参加しているらしくてね。米豪軍の婦人部も乗り気なのだとか。そのうち御蔵島では、モボ・モガばかりが闊歩する世になるのかも知れませんね。」
「センスばかりの問題ではありますまい。」雪が訳知り顔で口を挿む。「あのように腕も腿も露わな服であれば、作業衣袴や浴衣にするより布地が少なくて済みましょう。要は、資源の節約。余り布はパッチワークで別の用途に使うも良し。溶かして紙用パルプに混ぜるも良し。」
雪の話に中谷はクククと笑うと「正に『門前の小僧習わぬ経を読む』だね。電算室にはそんな情報が、たんと集まって来るのだろう?」と話を膨らませた。
「お見通しでございますな。」と雪も笑って「我も運動衣にはブルマ―が良いと提案致しましたぞ。運動衣袴の長ズボンより布地が少のうてすみまする。しかも洗濯が楽。」
「成程。で、採用されたのかい?」
中谷の質問に、雪は頭を振ると
「岸峰様お持ちの逸品は、糸と織りとが特殊とやらで再現不可能との事でございました。検分された衣料廠の技官様は、研究所の方で化学の参考書を元にナイロンの製法が固まるまでは手出し出来ぬと言うておられました。ナイロンさえ出来れば、服や漁具にも大革命が起きようとまで。」
「ふうむ。やはり彼らが持ち込んだ未来の知見は大したものだ。毎度、驚かされるな。」
感嘆の声を上げた中谷医師に「あのぅ……ひとつ問うても良うございましょうか。」と花が遠慮がちに質問する。
「何でしょう? 僕に答えられる質問だと良いですが。」
「労咳に罹るか、罹らずに済むのか、それを分かつ理にございます。」
「ほう?」
「英玉さまも私めも、同じように雛竜先生に仕えておりました。また、先生の部屋に出入りしていた者は、他にも居りまする。その中で、何故英玉さまだけが。」
「病気――病への罹患のし易さは、個人個人でバラバラなのです。獲得免疫による差異、体調や生活習慣による差異。元になる病原菌が存在しなければ、そもそも病気というモノは起こらないモノなのですが、病原菌が居たとしても必ず罹るというモノでもない。体内に入った病原菌が少なければ、身体が有している力によって病原菌は鎮圧されてしまいます。……だから、花姫さまは運が良かった、英玉さんは運が悪かった。そう考えるべきでしょう。」
中谷医師の答えに花は納得がいかなかったらしく
「本当に、そればかりでありましょうか? 医師中谷としてではなく、理を詳らかにする求道者としてのお話を伺いとうございます。」
と重ねて問い質した。
中谷医師は花の真剣さに苦しそうな顔を見せたが「それでは研究者として、お答えしましょう。」と口を開いた。
「英玉さんの方が運が悪かった。――この考えを覆すことはありません。ええ、あり得ないのです。……但し、但し『もしも』の話ですよ? 花姫さまより、もしも英玉さんの方が鄭隆殿と濃厚な接触を保っていたのなら、結核に罹患するリスクが上がるだろう――可能性として、そういうことは考えられなくもない。」
中谷医師が、研究室に戻ります、と逃げる様にその場を辞した後も、花は湯呑を前にしてボンヤリと食堂の椅子に座っていた。
雪が「そろそろ部屋に戻りましょうぞ。食事を終えた後もダラダラ居座っておるのは、空席待ちの方々の迷惑。」と促しても、「え?」と反応したばかりである。
――姉上は余程『濃厚な接触』という言葉に衝撃を受けたようだ。
雪は不憫に思ったが、ならば中谷様にキツく問い質さねばよいものを、とも考えざるを得なかった。中谷様は酷く言い辛そうな御様子であれせられたのに!
雪に腕を引かれて部屋まで戻った時には、花も少しは生気を取り戻した様子で
「雪よ。我は出遅れたようじゃが、まだ負けと決まったわけでもあるまいぞ。」
などと言い出した。
雪は「勝ちも負けもありますまい。共に仲良う先生にお仕えすれば良いだけのこと。」と執成す。「寵を競うなど、先生の方から願い下げでありましょう。」
「主は童じゃから、まだ分かっておらぬのだ。」
と言い放つと、花は頑固に口を結んだ。
雪は「お好きになさいませ。」と受け流すと「明朝のラジオ放送は6時に行われまする。雪はそれを聴かねばなりませぬ。姉上も明日からは、身支度をその時までには済ませておられますよう。」と言い残して自室に引き上げた。
雪は部屋でシャワーを浴びる用意をしながら――自分の事しか考えられぬ大馬鹿者じゃ!――と心の中で姉を非難した。
――我が童じゃと? 師匠には純子姫さまが居られるというに。
――純子姫さまと師匠の寵愛を競うなど、我には元から叶わぬ話。お二方の絆は海より深い。
雪はホウッと大きく息を吐き出した。
入浴を終えて、電算室の簡易寝台よりも寝心地の良いベッドに横になっても、雪はなかなか寝付けなかった。
朝になり、一晩中泣き明かしたらしい姉の顔を見て、雪は(姉上も、本当はお分かりになっているのだ)と気が付いた。
「さあ姉上、起きましょうぞ。今日も素晴らしい一日が待っております。お顔を洗って、気を新たになされませ!」




