仕掛け
「ソンピンという斉の軍師がいたのですよ。『孫子』を書いた孫武の子孫とも言われていますがね。」
早良中尉は台州城の外郭を遠望しながら、台州から臨海に向かう街道沿いに、降伏勧告――というよりも投降「勧誘」の立て札を設置していた。
自らも作業を続けながら、当座の相棒を務めるオキモト少尉に『馬陵の戦い』の説明を始めたところだ。
趙大人指揮下の騎兵の一群も、下馬して同様の作業に当たっている。趙大人自身はト式短機関銃を手に、馬上で抜け目無く周囲を警戒している。
趙大人指揮下の騎兵が運んで来た立て札は、通常の板書・告知板サイズの物だけでなく、綿布に墨書した横断幕サイズのものまで様々だ。手に入るありあわせの材料で、手早く拵えたから統一性が無いのだけれど、それがかえって奇妙なポップ感を演出している。
今、早良とオキモトとが二人で立ち木に縛り付けつつあるのは、横断幕サイズの代物だ。
「斉軍はソンピンが軍師に就任したころには、兵は惰弱で臆病だとされていました。ソンピンは、その評判を利用するのです。」
「惰弱で臆病だという評判を、ですか?」オキモト少尉が首を捻る。「……ああ、偽装で敗走を演出し、追撃する敵軍をキル・ゾーンに誘い込む作戦ですか。日本では戦国時代のサツマ兵がよく用いた戦法ですね。確か『吊り野伏』とか言ったかな? もっともサツマ兵は臆病とは縁遠い軍団だったみたいですけど。」
中尉は「察しが良いですね。」と笑みを漏らす。
「対戦相手はホウケン率いる魏軍。兵の能力としては、一対一ではとても歯が立たない精強な強敵です。しかもホウケンはソンピンと並ぶ戦術家とされていました。まあ、名将同士の決戦ですね。」
「名将同士の戦いならば、兵の練度に差が有ったとしても、相手は簡単に策に乗って来ないものでしょう? 諸葛孔明対司馬仲達の『五丈原の戦い』みたいに。そのホウケンという軍師は、名声は名ばかりで、能力的にはソンピンに相当劣っていたのではないですか。」
「ホウケンがソンピンに劣っていたのは、その通りかもしれませんが、キル・ゾーンに誘導された理由には前段がありましてね。まず、その前の戦いで、ホウケンはソンピンと直接対決をしないままに、痛い目に遭わされていたんです。まあ最終局面では戦っているのですけど、不完全燃焼な戦いを強いられて大敗したんですね。……あ! もうちょっと、ピンと張って下さい。」
早良は手早く作業を続けながら、淡々と説明を続ける。聴き様によっては少尉相手に愚痴をボヤイているようでもある。
「その前段に当たるのが、『魏』対『趙・斉連合軍』の戦争だった『桂陵の戦い』でね。どんな戦争だったかと言うと、当時の強国だった魏が趙を攻めて、とても一国では魏に対抗出来ないと思った趙が、斉に援軍を要請するという戦いだったのです。」
「趙と戦っている魏を、斉が背後から攻撃して趙と挟み撃ち、ですか?」
「いえ、違います。」中尉はアッサリと否定する。「普通、そう考えますよね。斉からの援軍に背後を突かれるカタチの魏軍に対して、斉軍は有利な戦いを出来るだろうと。でも援軍を要請されたソンピンは指揮下の斉軍を、趙を攻めている魏軍本体の攻撃に向かわせるのではなく、兵が出払って空き家同然の魏に攻め入るのです。――まあ魏兵は自軍の戦闘力に自信が有ったから、素直に斉軍が趙に向かったとすれば、挟み撃ちには成功しても『弱兵の斉軍が相手なら!』と魏兵が自信を持って戦闘を継続し、斉の援軍は負けなかった場合ですら戦力を相当磨り潰す事になったでしょう。斉軍は趙へ援軍を出すのに吝かではないが、自軍が損害を出すのは出来るだけ避けたかったのですよ。」
オキモト少尉は、ナルホドと頷いた。「魏軍とすれば根拠地を占領されたら、侵攻した部隊が趙で勝利しても、攻撃部隊は帰る場所を失ってしまいますね。趙での戦闘を放棄して、魏本国防衛に戻るのが急務だ。攻められている趙にとっても、魏軍が兵を引けば、直接に斉軍が戦場に駆け付けて来なかったとしても御の字でしょうし。」
「はい、その通り。魏軍は大急ぎで撤退し、急速移動で疲労困憊したまま、魏の近郊で待ち構えている斉軍と対戦することを強いられて大敗します。魏軍に強烈な一撃を喰らわせたソンピンは、目的であった趙の救援に成功したのを良しとして魏から兵を退くのです。」
「そのまま魏を占領してしまわなかったのですか?」
「本拠地へ退却してきた魏軍は、一度大敗したからと言っても祖国を守るためなら死兵と化して戦い続けるでしょう。――サッと叩いて、サッと退く。斉軍としては自軍の損害を出さないためには、それがベストな選択ですね。これが前段となった『桂陵の戦い』です。……こういう前提が有ったからこそ、ホウケンは次の戦いで偽装退却に引っ掛かちゃったんですねぇ。」
中尉は一度説明を中断すると、折り畳み式のシャベルで穴を掘り始める。「もう一本、立て札を立てましょう。ここに一本、適当な棒材を打ち込んでもらえませんか?」
少尉が「了解しました。」と駄載してある棒材と掛矢を手にすると、早良は説明を再開した。
「桂陵の戦いから14年後――14年後でよかったかな?――戦力を回復した魏軍は、今度は韓に攻め込みます。弱小国の韓は以前の趙と同じく、斉に援軍を要請します。『馬陵の戦い』と呼ばれる事になる戦争の始まりです。」
「二番煎じ、ですね。」オキモト少尉は棒材を穴に立てて杭にすると、掛矢で杭を打ち込み始める。「斉軍が空き家の魏を攻めて、魏軍が撤収してオワリですか?」
「斉国の首脳も同じ事を考えました。」中尉は杭に縛り付ける立て札を選びながら、そう応じる。「けれどもソンピンの考えは違いました。彼は、こう考えました。『ホウケンは同じ間違いを、二度は繰り返さない。』と。魏軍は精兵を二分し、一方で韓を攻め、残るもう半分の戦力には自国領で待機させ、侵攻してくる斉の兵を待ち伏せさせているだろう、と。」
「名将ホウケンの作戦っていうのは、自軍戦力の分散配置ですか? 仮に一次法則しか成立しない戦場に於いてでも、ランチェスターの法則に反しますね。ウエストポイントでなら、及第点は貰えないでしょう。……よし! 杭が立ちました。」
少尉の言う『ランチェスターの法則』というのは、現在では経営戦略に応用されることも珍しくないが、本来は戦場における戦力減少(損害の発生量)に関する数理モデルである。
この法則は、刀剣で戦う古典的戦闘をモデル化した一次法則と、銃砲を用いた近・現代戦を扱う二次法則に分かれている。
一次法則では、両軍の損害比は単に「初期戦力の差」の一次式で示されるが、確率兵器を使用する近・現代戦においては「初期戦力の二乗の差」の二次方程式で示される。
……まあ、極端に端折って結論するなら「戦闘は大軍を擁している方が有利なんだよ!」という法則だ。
かなり「アタリマエ」なように思える法則なのだが、この法則の凄みは『戦場全体としてみれば兵力が少なくとも、部分限定で数的優位を生み出せば、勝利の芽は有る』という事にある。
仮にA軍とB軍との戦闘で、A軍の戦力を3、B軍の戦力を4とした場合、現代戦なら二次法則に則れば
3×3(A軍)-4×4(B軍)=-7
となり、「A軍全滅 B軍の残存兵力=√7=2.65」という結論が導き出される。
けれどもB軍が戦力を二分して、B1軍が2、B2軍を2という配置にしていた時には、A軍が一度にB1軍・B2軍と戦わないですむ戦法を採れば
3×3(A軍)-2×2(B1軍)=5 →「A軍残存兵力=√5=2.24 B1軍全滅」
2.24×2.24(A軍残)-2×2(B2軍)=1 →「A軍最終残=√1=1 B2軍全滅」
と、兵力に劣るA軍がB軍を壊滅させる事も有り得るのだ。
通信技術と自動車化が進んだ現代戦でも「分進合撃」は戦力集結のタイミングが難しい。ましてや通信方法が伝令に限られ、軍の移動が徒歩だった近代戦では、部隊を分割した場合には集合タイミングを逸して各個撃破されるのは珍しくなかった。
――閑話休題――
早良中尉は選んだ立て札を麻紐で杭に結わえ付けると、ふぅ、と息を吐いた。
「分散と言えば分散なんですが、ホウケンはこの時の為に14年をかけて魏の国力・戦力の充実を図っていたのです。ソンピンはホウケンの覚悟と策とを読んではいましたが、斉国首脳の決定通り、魏に向かって出陣します。……そして案の定、逞兵が堅く守る魏国を攻めあぐねます。斉軍が動いたのを知るや、この時を待っていたホウケンは韓の囲みを解くと、予定通りに魏に兵を戻すのです。魏軍全軍で斉軍を包囲殲滅するために。今回は不意を突かれた『桂陵の戦い』の時の敗走とは違い、秩序立った移動行動です。」
オキモト少尉はヒュウと口笛を鳴らした。「なるほど。ホウケンも智将だというのが理解出来ました。……ソンピンに出来るのは、挟み撃ちされる前に斉に退却することだけですね。『退却する理由』は、整っています。偽装退却云々と言うよりも、本当に逃げなきゃならないシチュエーションだ。ホウケンは、上手くソンピンをハメた、と雀踊りしたことでしょう。」
「まあ、その通りです。斉軍は雪崩を打って退却します。――但し、ホウケンの想像が及ばなかった処が有りました。斉兵が自軍の軍師であるソンピンの知略に、非常に信を置いていた部分ですね。斉軍は退却しながらも軍が崩壊する事はありませんでした。我が軍師殿には必勝の策アリ、と逃げる斉兵は余裕を感じていたのです。……逆にソンピンは、軍がクラッシュしてパニック状態になり、兵が次々に逃亡しているかの様に、偽装するのを怠りませんでした。炊事用の竈の数が漸減していくという工作で。」
「それにホウケンが引っ掛かったわけですか。」
「ええ。壊乱した敵を追撃して、追い打ちで戦果拡大を目指すのには、何よりスピードがモノを言いますから。ホウケンは機動力の低い歩兵を置き去りにして、騎兵のみで追撃します。背を見せて逃げる敵には後ろから切り伏せるだけでよいから、攻城兵器も方陣も不要という判断でしょう。」
「なるほど。敗軍の被害が一気に拡大するのは、敵に背を向けて逃げ始めた時からですからね。」
「ソンピンは馬陵の谷の細道の両脇に兵を伏せ、ホウケンの騎兵部隊を待ち受けます。騎兵部隊を充分に誘い込んだ処で、両脇から弓兵と弩兵とで一気に騎兵部隊を制圧。主将であるホウケンが戦死したために、魏軍は指揮命令系統を失い壊滅します。――この戦い以降、魏は覇権国家の座を斉に奪われる事になったわけですよ。」
説明を終えた早良中尉は、水筒のキャップを外すと一口呷った。
中尉の差し出した水筒を、オキモト少尉は礼を言って受け取ると、水を飲む前に
「馬陵の戦いの事は良く分かりました。……けれど、このタイミングでその説明をされた意図は……どこに有るのでしょうか?」と訊ねずにはいられなかった。
「支那の歴史書によれば」早良中尉は微笑すると少尉の疑問に応じる。「ソンピンはホウケンに止めを刺す前に、ある仕掛けをしていたのだそうです。」
そしてチラリと立て札や横断幕に目をやると、言葉を続けた。
「馬陵の細道に追撃を防ぐための簡単な障害物を設置すると、一本の立ち木の皮を剥いで、そこに『ホウケンはここで死ぬ』と墨書させたのです。……陽が落ちてから隘路を追撃してきたホウケンは、前方が簡単な柵で塞がれていて、道路脇の木が一本、白く皮を剥かれて何かが書いてあるのを見付けると、松明を灯して文面を確認しようとしました。」
「ああ! それが斉軍弓兵にとっては、攻撃の合図だった訳ですか!」
「その通り。ソンピンが部下の弓兵に出していた命令は『立ち木の場所で火が灯ったら、全力射撃。』というものでした。ホウケンの最期の言葉は、あの小僧――ソンピンのことですね――に名を成さしめたか! というものだったと伝えられています。……ちょっとばかり、文学的に出来過ぎている気がしない事もないですけどね。」
「はあ。……それが今日、投降勧誘の札を立てた理由なのですか?」
台州城の上空には、再び偵察機が舞っている。
本日二度目のビラ撒きだ。
ビラには『今夜、花火の宴を馳走する。降参する者は武器を捨て、白旗を持って参ぜよ。退く者は、臨海に向けて逃げよ。そちらの道は開けておく。』と記してある。
攻城戦に於いて攻撃方が完全包囲を行うと、守城方は死に物狂いで最後の一兵まで戦わざるを得なくなる。窮鼠猫を噛む防御側の奮闘を避けたければ、攻撃方は守城方の退路は開けておくというのは常道であった。――但し、退却路を敵に通知すれば、守城方はそれを罠と感じて、手に乗ってこない可能性も有るから、そこに両軍の将帥の駆け引きが生じる。
今回は、敢えて守城方に退却路を指示し、その上で圧倒的な『火力の差』を誇示する事で、守城方に防衛を諦めさせようという策である。
そのためには、曳光弾や星弾の光が鮮やかに映える夜間に攻撃を行うのが、御蔵軍にとっては都合が良かったのだ。
「けれども清国兵は、『逃げるなら臨海に逃げろ』というサジェスチョンを、罠だ認識するのではないですかね?」
オキモト少尉は水を一口含むと、中尉に水筒を返却しながら疑問を口にする。
「どうでしょうか? 二隻の舟艇母船と武装フェリーが、次々に星弾を打ち上げるのです。城内は昼間より明るくなったと敵兵は恐怖するのではないでしょうか? 観た事も無い風景に我慢が出来なくなれば、敵兵は武器を捨てるか、退却する道を選ぶでしょう。城の際からは、打ち上げ筒の花火も火を噴く訳ですしね。」
――ふむ。台州城の守備兵が、防衛を諦めるという筋書きには説得力が有る。
オキモトは、中尉の解説に一応の納得はした。
――けれども、それではこの『立て札群』は、何の為の仕掛けなのだ? ……まさか?
「まさか、ここに50口径を伏せておいて、降伏を潔しとしない清国兵を皆殺しにする心算なのですか? ソンピンがホウケンの騎兵隊を殲滅した時のように?」
明らかに非難の意が混じったオキモト少尉の詰問に、早良中尉はは微笑みで応じた。
「そんなミスリードはしませんよ。この立て札は、あくまでも『勧誘』です。降伏を選ばなかった勇気ある敵兵に対する。……そうですね、念押しと言っても良いでしょう。」
早良は次に設置する立て札を選びながら、説明を続ける。
「早くに投降した敵兵は――ただ命が惜しかった、という者もいるでしょうが――仕方なく清国に従っていたか、個人的には明にシンパシーを持っていた者でしょう。或いは、清国軍に参加はしたものの、清国の『やり方』には従えぬ、と見切りを付けたと考えられます。南明軍に参加してもらえば良い。」
中尉の説明にオキモトは頷いた。――問題は、あくまで清国に従う事を選んだ者たちだ。
「問題なのは、明国に敵意を持っている者、ですよね?」
「残念ながら滅亡する前の明国の政治は、民衆に顔を向けたものではありませんでした。……だから順を興した李自成の反乱などが多発しても、それを鎮圧出来なかったわけなのですがね。そういった明朝に反感を持っているグループは、オキモト君の言う通り、容易に勧誘には乗って来ないでしょう。また、上級指揮官には元明軍の降将だけでなく、女真族――いや、満州族と言った方がいいのかな?――の清国人も含まれているのは間違いありませんから、説得が困難なパーティーというのが、必ず存在するのは間違いありません。彼らが頑固なのにも理由はある。」
中尉はここで一度言葉を切ったが「けれども、死なせるには惜しい。」と結んだ。
オキモトは言葉を選びながら「簡単に降伏を選ぶ者たちよりも、見どころがある、と?」と問わずにはいられなかった。
降伏しない者たちが信念を持つ一団だという事には納得がいっても、危険分子・不満分子を結果的に味方に抱え込むハメになるのには抵抗を感じたからだ。
「いえいえ。降伏を選ばなかった者たちの方が、『より死なせるには惜しい』と言っているのではありません。立場や考え方というのは、個人個人それぞれですから。『ここで死ぬ訳にはいかない。恥を忍んででも、なんとしても生き残りたい。』という考えも、立派だと思います。死んでしまえばそれまでですが、生きていれば何事かを成せる。降伏した兵のうち、明国のためには軍務に就きたくないという者は、帰農するなり商売をするなり、自分の行く道を選んでもらえばよいだけの話です。『敵対だけはしない。』という念書でも取って。」
「それは、ちょっと――甘過ぎやしませんか?」
「思想・信条の理由から、明国のためには働けないというのなら、御蔵島のために働いてもらえば良いのです。ジョーンズ少佐の建設部隊では、随時増員募集中ですからね。建設工事のスペシャリストという、新しい世界で活躍してもらいましょう。……そして、多少なりとも気が変わったら、雛竜先生の指揮下に入ってもらいたい、と考えています。南明朝での今後の先生の立場を考えたら、配下を増やしておく必要がありそうな気がします。」
――なるほど。そこまで先を読んでの措置か!
オキモト少尉は舌をまいた。
「じゃあ、最後に。立て札を見ても、それでも降伏を選ばず、清朝勢力下の拠点を目指す者たちはどうします? 殲滅しておいた方が、後腐れが無いとも考えられますが?」
「その質問には、既にキミの中でも、答えが出ているのではないですかね?」
中尉は澄まし顔で少尉の目を見る。
「最後まで撤収にこだわった兵たちは、撤退先の城や砦で、台州城で起こった事を根掘り葉掘り尋問されるでしょう。我が方にとっては、これ以上無い宣伝です。――今後の仕事が一層やり易く成る。そういう事です。」




