ライフ30 代用ビールと氷とはオランダ商館相手に商売になるよと思う件
「雪ちゃんも院長さんもOKだそうです。花さんは病院の看護婦寮に入って、雪ちゃんと同部屋で生活を始めて下さい。」
岸峰さんからの返事をもらって北門島側に戻った僕は、皆にお待たせしましたと断ってから、花さんにそう告げる。「病院での仕事は、先輩の燕さんから教わる事になります。生活も仕事も初めは戸惑う処が多いでしょうけど、チャレンジ……ええっと、鋭意挑戦してみて下さい。」
実を言うと、院長先生の方は一も二も無く合点承知だった。先生は雪ちゃんを気に入っているし、病院は(まあ病院に限らず御蔵島社会は)有能な人材を欲しているからだ。
不満気だったのは雪ちゃんの方である。
「我が身の非才さに悩んでおる最中に、この期に及んで口煩い姉上の子守りなど……。」なんてグズっていたらしい。岸峰さんが雪ちゃんをどう丸め込んだのかは、訊きそびれた。
「花姫の面倒を看る間、小倉の仕事や訓練はどうする?」立花少尉殿が懸念を述べる。「その間は彼女にも病院仕事を覚えさすのか?」
「いえ、通いで電算室に来て貰います。自転車に乗れるようになったから、通勤に問題は無いでしょう。せっかく電算室の機材の扱いにも慣れてきたのに、雪ちゃんを病院に取られたくはないので。」
あわよくば雪ちゃんを病院に取り込もうという院長先生の企みには、一応僕も電算室の長として抵抗せざるを得まい。院長先生の所には、燕さんや花さんというニューフェイスが加入するし、英玉さんだって病気が治れば看護師業の道に進むだろう。
まあ、英玉さんや花さんは雛竜先生の専属しか目指さないかも知れないけれど、先の事はその時になってみなければ分からないものだ。
雪ちゃんの使う自転車は、御蔵島の装備品倉庫に蘭印作戦で使うはずだった銀輪部隊用の自転車がゴッソリ眠ったままにまっているから、そこから一台借り受ける。
島内勤務者は、港湾と工場地区内での移動やら通勤バスに乗りはぐれた時の用心のためやらに、自前の自転車は転移以前から代替交通手段として持っているのが普通だったから、転移後も倉庫の自転車は放出される事無くほぼ手付かずだったのだ。
自転車には小型ガソリンエンジンを付けるか、バッテリーと電動モーターを付けるかして、原付自転車に改造するアイデアも出ているのだけど、優先順位の関係から今のところはアイデア止まりで放置されている状態だから問題ナシ。
「雪ちゃん専用」に自転車を貸し出してもらう許可は、電話で裏番長の早乙女さんに頼み込んだ。
「それはようございましたね。花姫様も雪さんと同部屋なら心強うございましょう。」
そろそろここで、という感じで腕時計に目を遣った茂子姐さんが席を立つ。「じゃあ私は、植え付けを頼んだ人たちに、も一度ご挨拶してから、お先に失礼しますよ。」
「どうやって新町までお戻りになるのです?」歩きで帰るには遠すぎるだろう。
「山頂無線局とラジオ局のメンテに行っている班が、帰りに拾ってくれるんだそうだ。」
僕の疑問には立花少尉殿が種明かしをしてくれた。「雛竜先生を連れて病院まで行くから、救急車に同乗しないかとお誘いしたんだけれど。」
「有り難いお話なんですけど、無線局の方とのお約束をスッポかすわけにはいきませんからね。」
姐さんはにこやかに挨拶すると、帆布製のリュックサックにポットその他を詰め込んで、村長さんらと観測所兼通信所を後にした。
姐さんの後ろ姿が消えた処で、観測班の班長さんが「滋養軒さんも熱心だな。自分はコーヒーよりもビールが飲みたい派なんですけれどね。」と口にする。「ホップはどうなんでしょうかね? 今ある補給品を飲み切ったら、もう手に入らないんでしょうか?」
「どうなんだ、片山? 新しモノ好きな信長公は、南蛮人から献上されたりしてないのか?」
立花少尉殿が無茶ブリをカマシてくる。信長がビールを飲んだかなんて知らないわぃ!
「えっとですね……。ビールの定義を何とするかって所も問題になるかとは思うんですが、大麦麦芽汁を発酵させた飲み物ならば、メソポタミアのシュメール人とか古代エジプト時代から生産されておりまして、メソポタミア文明なら紀元前4000年、エジプト文明なら紀元前3000年ごろから有ったって事になります。」
「なんと! 古代エジプトからの酒なのかい?」班長さんが驚いた声を出す。「それは今のビールみたいに、ホップで味を付けているのかね?」
「いやぁ、違います。糖分が全部発酵されること無く残っちゃってますし、ホップは加えてないですから、『甘酸っぱい』か『甘味の強い』ドブロク風の飲み物だったんじゃないかって、授業で教わりました。」
世界史担当酒好き教諭の脱線ヨタ話によれば、だ。
「全然別物じゃないか。それを持って来て酒保で『ビールでござい。』って販売したら、暴動が起こるぞ。」少尉殿がニヤニヤしながら茶々を入れる。「自分は、甘い麦芽のドブロクにはちょっと興味が湧くけれど。苦いビールが登場したのは何時頃なんだ?」
「11世紀ごろなんだそうです。日本は平安時代です。ホップは麦芽汁の腐敗を防ぐために防腐剤として入れたみたいで。それと発酵技術が進んで、麦芽汁の残糖が減ったんですね。作ったのはドイツの修道院らしいです。名目は酒ではなくて薬だったんだそうですけど。」
「それなら信長公は飲んでみていても不思議は無いな。葡萄酒も飲んでたわけだし。或いは薬好きの家康公が試してみているかも知れないか。」と少尉殿が決めつける。
「1600年代初めの平戸のオランダ商館に持ち込まれた可能性は無くもないみたいですけどね。でも日本人が飲んだ記録として残っているのは、八代将軍吉宗への献上品が最初です。吉宗が飲んだかどうかは分かりません。今村英生っていう蘭学者で吉宗のオランダ語通訳が、ビールの味をボロクソに貶した記録が文書として残っているから、吉宗は飲んでないんじゃないかな? 1724年の事です。」
「じゃあ、信長公が飲んだかどうかは横へ置いておくとして、ビールそのものはこの世界に既に存在してるんだね。」班長さんが希望に満ちた声をあげる。「台湾のオランダ商館まで買い付けに行けば、買えないことはないわけだ。……でも値段を吹っ掛けられそうだなぁ。」
「麦は有るし、酵母もある。」少尉殿が腕を組む。「無いのはホップだけだろう? ホップって、どこに生えているモノなんだ?」
「カスピ海近くが原産地で、ヨーロッパの山の中には元々生えていた植物です。日本には『山ホップ』とかいう近縁種が生えているみたいではあるんですが、北日本限定です。」
班長さんは頭を振ると「ホップは手に入らんのかあ。」と嘆息した。
「それっぽいモノを作ってみるなら、エタノール4%くらいの炭酸水に、ヨモギとか茶葉で苦味を付けてみると良いかも、ですね。あるいは焙煎したタンポポの根っ子とか。」
僕のいい加減な代用ビール案に、少尉殿は真面目な顔をすると「エタノールや炭酸水は、既に製造しているわけだからな。代用ビールで事が足りるなら、わざわざ大麦麦汁を発酵させるところから始める必要は無いわけだ。ガラス瓶も作るわけだし、本当にそれっぽいモノが出来たら、買い付けに行くよりも売り込みに行ってもいいんじゃないか?」
「少尉殿はあんまり安酒場になんかに出入りされないから、御存じ無いのかも知れませんが、、代用ビールなら『ノンアル(ノンアルコールビール)』として、物は出回っておりますよ。」通信士が議論に参加する。「焼酎で割るんです。新町の一杯飲み屋にも置いてあります。」
『ホッピー』が出たのは戦後の事だと思っていたけれど、代用ビールは既にあるんだ!
ただしホッピーは、ちゃんとホップを原料にしていたはずだけど、既に存在するという代用ビールは何で味付けをしているんだろうか?
少尉殿も同じ疑問を持ったらしく「一体、何を原料にしているんだ?」と通信士に問うた。
「や、自分は飲む専門ですから、製法や原料は知らんのです。飲み屋の主も、仕入れるだけで製造法までは気にしてないでしょう。」
班長さんも「ノンアルの焼酎割は、味は確かにビールに及ばないが、暑い盛りにグッと冷やしたヤツを呷るのは美味いです。……原料の事を考えた事は無かったなァ。」と感想を追加する。
――冷たいヤツをグッと、か。
この世界には、御蔵島発の装備を除けば冷蔵庫は存在しないし、冬場を除くスリー・シーズンには氷も入手出来ない。北京みたいに冬に寒い場所ならともかく、台湾みたいな亜熱帯だったら、真冬でも氷を手に入れられるかどうか疑問だ。
――だから福松(鄭成功)は、温州城でアイスキャンディーを食べた時に「天下の美味!」と言ったんだ。
温州軍との連携が成った事は確かに嬉しかったに違いないが、『アイス』は本当に美味しかったのに違いない。
「台湾でオランダ産ビールを買うよりも、冷えた代用ビールの方が美味しいかも知れませんね。何と言っても冷たいし。……それにオランダ商館が扱っているビールは、半年とか一年がかりとかで喜望峰経由で届けられた代物でしょう。暑い赤道を通って来た醸造酒が美味いなんて有り得ないです。ワインだって、大半はクソ不味くなっているはずです。」
「台湾のオランダ人が、争って買い付けそうだな。」少尉殿も同感のようだ。「しかし、どうやって『氷』を売る?」
この問題には班長さんがスンナリと回答した。
「木箱にオガクズかモミガラを詰めて、その中に氷を埋めてしまえば良いんですよ。モミガラは断熱性が高いし、あっちの港に船を着けてから、冷凍庫から氷を出して箱詰めすればいい。どうせ材料は水で良いんだから、先方が買いたいと言えばボロ儲けですな。」
その時通信士が「武装漁船、入港します。」と報告を上げた。
「よし、儲け話はここまでだ。」と立花少尉殿は話を切り上げると、「片山、担架準備。花姫、港に行きますよ。」と僕たちを促した。花さんは声が掛かるや否や、部屋を飛び出した。
花さんの姿が消えたのを確認し、少尉殿は班長さんに小声で「滋養亭に特に動きは無かったか?」と、さりげなく問い掛けた。
「特に報告する事はありません。」と班長さんは真顔で答える。「扇動無し。オルグ無し。……まあ、無政府主義と言っても、滋養亭さんは常識人ですからね。」
「そうか。ご苦労。」
そして僕たちは港への坂を下って行った。




