ライフ25 研究棟の中谷さんが忙しい人な件
研究棟の受け付けで来訪を告げると、医官の中谷さんが姿を現した。
度の強い眼鏡を掛けた、ひょろりと細い体型のお医者さんで、気難しいのか気さくなのか判断が難しい、やたらと忙しい人物である。
中谷さんは「目から鼻に抜ける才覚の持ち主」で、将来はいずれかの帝国大学医学部で教鞭を取るだろうと噂させていた若手有望株だ。「噂されていた」と過去形なのは、元の世界に戻れるかどうか分からないからで、帰る事が叶わなければ『帝大教授』になるのは難しい。
もっとも本人は「僕は研究するのが好きなのであって、治療や施術は苦手だから、教職に就くのは無理!」と言っている。
院長先生的には
「アヤツは頭が良くて手先も器用なんじゃが、医師としての度胸に欠けるというか、修羅場での実技はカラッキシじゃからな。教壇に立って後進を育てるのと研究を続けておるのが、一番世の中の役つじゃろう。メスなんか持たせたら、逆に死人を量産しよるわ。」
という評価なのは、中谷さんには黙っている。
中谷さんは僕(と雪ちゃん)の顔を見ると、「なんだ。電算室から人が来たというから、岸峰君かと思ったらキミか。」と、あからさまにガッカリした。
そりゃあ見目麗しき美少女と比べれば、少年や子供の相手をするのは面白くないだろうが、失礼な態度だ。「ご挨拶ですね。」
「いや失敬。僕が落胆したのは彼女の色香に参っているわけではないのだよ。ちょっと岸峰君に試してもらいたい品が出来たんでね。付いて来たまえ。」
中谷さんはそう言うと、白衣を翻して階段を上る。
僕は雪ちゃんと顔を見合わせると、受け付けで渡された白衣を羽織り、スリッパに履き替えて慌てて後を追った。
「こっちだ、こっち!」
実験室の一部屋から、半身を覗かせた中谷さんが手招きする。
中に入ると、中谷さんは
「岸峰君が、発芽種子食の話を持ち掛けて来た時に、ギブ・アンド・テイクで僕も彼女に山羊乳の消費法についての相談をしたんだよ。」
と冷凍庫をゴソゴソやっている。
そして「さあ! これだ。」と彼が取り出したのは、50mmlビーカーに入ったシャーベットのような物。
「ちょっと未来人のキミに試食して欲しいんだ。……人体に害が無いのは、自分の腹で検証済みだよ。」
「冷やっこそうなタベモノでございますな。これが主任殿と話をしておられたヨーグルトでございますか?」
雪ちゃんの問いに中谷さんは「その発酵乳を凍らせてカキ氷機で削り、再び型に押し入れた物さ。シャーベットと呼ぶモノだよ。小倉君も食べてごらん。」と薬匙を添えて出す。
「山羊のミルクは高タンパクで、滋養のつく良い食品なのだが、臭いが苦手だと言う人が多くてね。僕なんかは、単に慣れの問題に過ぎないと断じているのだがねェ。島では今、牛乳よりも生産量が多いのだが、消費を促すのに工夫が要るのさ。岸峰君の話だと、牛乳よりも乳脂肪が少ない分、美容を求める若い女性には隠れた人気があるらしいね。それに加えて、牛乳よりも免疫系の過剰反応が少ないらしいじゃないか。」
「確かにアレルギーは起きにくいと聞いた事はあります。」
僕はイタダキマスと、一匙分を口に入れた。
生の山羊乳は試した事がないけれど、ヨーグルトにした上でシャーベットにまで加工している為か臭いは全く気にならない。
しかも、甘い。
「これ、すごく美味しいですね。甘味は人工甘味料ですか?」
僕がビーカーと匙を雪ちゃんに渡すと、雪ちゃんは目を輝かせて頬張った。「おお! 冷たい!」
中谷さんは試作品が好評なのに気を良くしたのか「なんなら、お代わりも食べるかね?」と雪ちゃんに笑ってから
「甘いのは、発酵乳を甘酒で割ったからさ。発酵乳そのものは酸っぱいばかりだからね。岸峰君の話だと、キミたちの時代では甘酒が『飲む点滴』などと称して再評価されているって言うじゃないか。発酵乳と甘酒を混ぜれば、入院患者用の滋養食になると思ったんだよ。」
と種明かしをしてくれる。「発酵乳を作る時の乳酸桿菌や、甘酒をこさえた麹菌は、キミの保管庫の中に有った菌株だよ。高等学校の持ち物にしては、気が利いている。」
「滋養亭に持ち込んだら、看板メニューになるんじゃないですか?」
僕は茂子姐さんの顔を思い出して提案した。「帰港した人たちも、きっと喜びますよ。これなら山羊のミルクが苦手だって人でも、文句の付けようが無い。」
中谷さんは「あのアナキストの年増は、僕が苦手としている人物なんだがね……。」と一瞬は渋い表情を見せたが「まあ、余剰分を卸す事は考えてみよう。挽き立てコーヒーを振る舞ってくれるかも知れんし。」と納得したようだった。
「それでは、そろそろ。」と僕が退出しようとすると、中谷さんは「待ちたまえ。もう一つ見てもらいたい物がある。」と引き留めてきた。「いや、本来なら、こっちを優先するべきだったかな。抗生物質生産の件なんだ。」
彼は雪ちゃんが食べ終わったビーカーを、逆性石鹸水のバケツに浸すと颯爽と部屋を飛び出した。
慌てて後を追いながら「何か問題が?」と訊ねると
「いや、ペニシリンもストマイも順調だよ。」
と、ガッとばかりに勢いよく培養室のドアを開ける。
中では10台ほどの卓上型ミニ・ジャーが稼働して、培養が進行中だ。
ピペットを手にサンプリング作業をしていた二人の研究者が黙礼をしてくれたので、僕もペコペコと御辞儀をする。
「この中では放線菌に限って培養している。ペニシリウムはファーメンターで増やしているよ。もう一基、ファーメンターが完成したら、ストレプトマイセスもミニ・ジャーからスケールアップする心算だ。キミも電算室の仕事を誰かに任せて、早くこっちの手伝いに来て欲しいものだね。」
中谷さんは、そんな事を言いながら一枚のシャーレを差し出してきた。
「ポックというヤツの有無を確認してもらいたい。無いだろうという予想は付くんだが、僕は実物を見た事が無いんだ。」
『ポック』というのはウイルス感染による溶菌瘢のことだ。
カビはウイルス感染しないが、放線菌はファージウイルスに感染する。
ウイルス感染した放線菌細胞は死んでしまうから、一面に放線菌を繁殖させたシャーレにファージがコンタミ(混入)していると、所々に透明な溶菌瘢が出来る。
ファージがコンタミした株の培養を続けても、細胞が次々に死んでいくから二次生産物にあたる抗生物質の生産量は下がるばかりで、研究者はファージのコンタミを殊の外怖れるのだ。
遺伝子を持ち込む(移動させる)というファージウイルスの特性を活かして、それを遺伝子操作に応用する事はあるが、作用機作の不明な野生のファージは混入を許さないのが放線菌を用いる上での基本中の基本だ。
「ありません。」
「じゃあ、ここは問題ナシだ。」
中谷さんは、またもや部屋を飛び出す。
僕が培養室の人たちに「失礼します。」と挨拶をしていると、廊下の先から「何をしているんだぁ!」との呼び声が急かしてきた。忙しい人だよ……。
三階への階段を上ると、彼は小実験室の一つに入り「どうだい?」と一枚のシャーレを取り出した。
3㎜角に切り取った濾紙の小片が中央に一枚乗っかっているだけの、何の変哲も無い寒天培地だ。培地の正体は色合いから想像するに、ポテト・デキストロース・アガー略してPDAと呼ぶ培地だろう。
菌株を植え替えたり、新たに釣り上げたりする時に使う、ごく基本的な培地だ。
「なにも生えていませんね。濾紙に抗生物質が染み込ませてあるんだ、と思いますが。でも、それにしては阻止円が広すぎますね。円どころか、シャーレ一面がキレイなまんまなんて。」
「その通りだよ。培地にはプレートに撒く時にイ・コライ(大腸菌 E.coli)をタップリと混ぜてある。本来なら全面が真っ白になるハズの代物さ。」
中谷さんはクククと含み笑いをすると「怪我の功名で、とんでもない株を釣り上げちゃったみたいなんだよ。」
彼の説明によれば、どうしてもポックというものを自分の目で見て確かめたかったから、テキトウな場所から放線菌のサンプリングを行っていたのだ、という。
仕事の合間に趣味としてやっている事だから時間も限られ、なかなかファージ感染した株を釣り上げる事は出来なかったのだが、御蔵空港の外れの旧ミカン山で採取した土から、何やら強力な抗菌物質を生産しているらしい株を拾ったのだそうだ。
「警備区域外だから、何の問題もあるまいと高を括ってたら、衛兵勤務の少年兵にコッ酷く怒られたよ。なにやら畑を広げたせいで、近頃は山からイノシシが降りて来ることがあるんだそうだ。『医者が怪我したら、誰が面倒を見るんだ!』ってね。僕が『外科に医師が居るだろう。第一、僕は手術なんか出来ない。』って真面目に対応したら、益々火に油を注ぐことになってね。」
中谷さんの弁明を聞いた雪ちゃんは、呆れたように
「叱られても無理はございませんな。中谷様の代わりは、どなたも務まりますまい。ご自愛下さりませ。」
と諭した。
「小倉君が僕を高く買ってくれているのは嬉しいけれど、まあ、その結果に有望な株を見付けたのだから許して欲しいね。濾紙に沁み込ませてあるのは精製した成分ではなく、培養液そのものを極く薄くまで希釈しただけのモノなのだ。片山クンのクロラムフェニコールよりも強力な抗菌剤が作れるかもしれない。」
「大発見じゃないですか!」と驚く僕に
「ストレプトマイシンとかクロラムフェニコールなんて先行する知見が有るのだから、別に驚くような発見ではないよ。運が良かっただけさ。僕が見付けてなくとも、その内にキミが見付けていた可能性だって有るんだし。まあ、新株が優れているのは、抗生物質の精製が簡単な事かな?」
「どんな風に精製するんです?」
「濾過してゴミを除いたら、残った培養液にアセトンを混ぜて脂溶性成分を分離する。水溶性成分をセロハン膜で包んで低分子物質を流し出し、水溶性の高分子物質だけ残して減圧濃縮するんだ。カラムにかけたわけではないから単離するとこまでは出来ていないけど、そこまでは難しくなかったね。ま、お遊びでやってる事だから、そのくらいで勘弁してくれ給え。」
「でもスゴイじゃないですか。ストレプトマイシンの量産化と、山羊乳シャーベットに加えて新規株の発見なんて。」
「仕事でやってるのはストマイだけだよ。あとの二つは息抜きさ。第一、今度見付けた株だって、人体毒性が無い事を確認しなけりゃ、使い物にならないだろ? 結核菌を殺すことは、英玉君の痰から採取した結核菌をin vitroで確認済だけど、生身の彼女の身体で試してもらうわけにはいかないからね。実験用のマウスは数が限られているから、お遊びの研究に使えるようになるには個体数を増やすまで時間が掛かるんだ。ネズミ算で増えてはいるんだけどね。」
「英玉様の御病気は、良くなられましょうか?」
雪ちゃんの問いに、中谷さんはウンウンと頷くと
「ストマイ生産は進んでいるから、もうすぐ臨床に入るよ。ちゃんとしたお医者さんがキッチリ治療をしてくれるから、数ヶ月したら完全に治るのは間違い無い。動物実験では害は出ていないからね。アメリカ軍の資料にあった副作用例にさえ気を付ければ危険は無い。」
と、自分がちゃんとした医者ではないような事を言っている。人間を診るのは苦手、というのは心底からの本音なのだろう。




