パラ14 「治癒魔法」さえあれば! と思う件
「ペニシリンが有ったら、心強くはあるわね。『仁』みたいな苦労はしないで済みそう。」
『仁』というのは、幕末にタイムスリップした現代の医師が活躍するSFだ。
当時の技術レベルで、ペニシリンの製造をするのが、山場の一つになっていた。
他にも、ペニシリンが重要な役割を果たす作品には、手塚治虫の『火の鳥 黎明編』があった。
こちらの方では、アオカビの破砕液を使っていたように記憶している。
ただ、二つの作品とも、科学論文ではなくフィクションだから、どこまで信じて良いのか分からない。
だから、アメリカ軍側の備蓄にペニシリンが有れば、ラッキーなのは言うまでも無い。
それでも、備蓄品は使えば無くなるし、期限が切れれば薬効の低下や消失も起きるだろう。
当初はアメリカ軍の備蓄品に期待するとしても、この世界への滞在が長期化するならば、何とかして生産しなければならなくなる日が来るかも知れない。
「それからね、医薬品としてではないけれど、僕たちは強力な抗生物質をペニシリン以外にも2種類持っている。」
僕の指摘を、岸峰さんは一瞬で理解した。
「そうか! 準備室にはカナマイシンとクロラムフェニコールがあるんだ!」
その通り。
カナマイシンは、カナマイシン耐性を遺伝子マーカーとする遺伝子導入実験用に、そしてクロラムフェニコールは、原核生物除去培地の作成用に、それぞれ準備室に備蓄してある。
大戸平高校は、理系教育のモデル校になっているから、通常授業の他に選択制で物理・化学・生物のどれか一つを「演習」科目に選ばなければならない。
その「生物学基礎演習」に、初歩の遺伝子操作実験が含まれている。
グローブ・ボックスやHPLC、それに質量分析器なんかは、理科室や無菌実験室ごと失われてしまったが、薬品や汎用機具、旧式機材や予備機材は準備室に残っている。
大腸菌や枯草菌みたいな菌株も、大工試から取り寄せたものが保存してある。
そんな、培地作成用として持っている抗生物質だけれど、背に腹は代えられないという状況に陥れば、人に対しての使用を考える時が来るかも知れない。
平時なら薬事法違反の犯罪行為だが、切羽詰まった状況で人道目的として使うのであれば、緊急避難の範疇と、目をつぶって使わざるを得ないかも。
異世界に飛ばされたんだから、治癒魔法くらい存在していて欲しいものだが、無い物ねだりをしても仕方が無い。
その後、僕と彼女は、感染する可能性のある伝染病について話し合った。
まず、戦前の日本で「死病」として恐れられていた結核について。
ストレプトマイシンによる治療が普及するまで、病死の死因の上位を長期にわたって占めていた難病だ。
僕や岸峰さんは、BCG接種で免疫を持っているから発病の危険性は低く、僕たちは、それほど恐れなくて良さそうだ。
BCG接種をしていない人には、いざとなったらカナマイシンを使うしかない。
カナマイシンは結核の他に、ペストにも有効だ。
準備室の保存菌株の中には、ストレプトマイセス・グリセウスというストレプトマイシン生産菌があったはずだが、無菌室の無い状況で下手に保存菌株を弄ったら、コンタミネーションと呼ぶ他の菌の混合汚染が起きて、保存株をパーにする危険性が高い。
状況が整うまでは、保存菌株には手を出さない方が無難だろう。
結核とは逆に、戦前の日本では普及していたのに、僕たちが行っていない免疫獲得に、天然痘対策の種痘がある。
御蔵島には、日本国外からも兵がやって来て、東南アジアへ向かうようだから、種痘の設備が存在しても不思議はない。
チャンスが有れば、種痘はしておくべきだろう。
マラリアにはキニーネが効く。
日本軍は南進する時、キニーネを準備していたはずだから、問題無し。
狂犬病はウイルス性の病気で、発病してしまえば現在でも打つ手が無い。
全ての哺乳類が感染する可能性を持っているから、極力動物に噛まれないようにするしかない。
ケモナーさんやテイマーさんには、特に身近で危険な病気と言えるだろう。
ただ、ウイルスとしては失活し易いウイルスなので、万が一哺乳類に噛み付かれた場合には、傷を徹底的に洗浄して、消毒薬をたっぷりと塗る。
後は運を天に任せる事になる。
梅毒にはペニシリンが有効だ。
でも、母子感染や輸血による感染を除けば、モノを介した感染が起きる事が無いので、直接接触を避ける事を心がければ、防御し易い伝染病だと言える。
だから、梅毒が存在する世界では、「ハーレムうはうは状態を目指さない」のが、この病気から我が身を守る術だ。
『ハーレム無くて何の己が桜かな』という向きの、上級冒険者にはウザい話かも知れないが、小市民な僕には注意を払わずにすむ病気でもある。
「片山くんでも、チャンスがあったらハーレム作っちゃおう! って考えるクチなわけ?」
岸峰さんが、疑惑の眼差しで僕を見ている。
感染症の話の流れから、梅毒のリスクも考えてみただけで、異世界に来たからハーレム建設を目指そうなどと思ったわけではない。
だいたい、こんな状況でエッチな事に頭が回る余裕など、有るわけないじゃないか。
「ハーレム建設なんて、今の緊迫した状況下では、優先順位が低過ぎるだろ?」
「ふぅん? でも……洗濯場では、石田さんと仲良さそうだったけど。彼女、すごい美少女だよね?」
岸峰さんの使った「美少女」という単語から、僕は石田さんの博多人形のように整った容姿を思い浮かべたが、彼女について僕が持っていた印象は、多分、岸峰さんと同じものだ。
「石田さんが美少女なのは否定しないけれど、彼女が僕らの案内役を命じられたのは、スミス准尉が世間話をしに来たのと同じ理由だろうね。キミもそう考えているんだろ?」




