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ライフ21 落水訓練をやってみた件

 「竿は三年 三月みつき」とか「かいは三年 櫓は三月」という言葉がある。

 一人前に舟の操作をこなせるようになるまでに、竿や櫂だと三年という年月が必要で、櫓なら三ヶ月程度と言う意味だ。


 特に説明を入れる必要は無いかもしれないけれど、竿というのは水底を押して推進力を生むための竹製の物で浅場で使用する。(海底や川底に竿が届かない水域じゃ、役に立たないからね。)

 舟の舷側に立って水底を真っ直ぐ後ろに押せば、舟は前進する。前に押せば後退だ。

 押す方向に角度を付ければ、前進や後退をしながら舟の進行方向を変えることが出来る。


 こう聞くと簡単そうに思えるかも知れないけれど、実際にやってみると、まあ思ったように進まない。

 真っ直ぐ押すというのが、単純に見えてやたらと難しいのだ。

 しかも竿を突き入れた水底が堅ければ竿が滑るし、柔らかければ深く潜り込んで竿が抜けなくなる。

 水底がガッチガチに堅い時には竿の先に鉄の穂先を装着し、水草や海藻がやたらと多ければ水草ごと押し付けれるように叉状の竿先を選択するのが正しい竿の使い方なのだそうだ。


 けれども今回用意されているのは普段使い(汎用タイプというのが良いのかな?)のシンプル極まりない竹の延べ棒で、しかも泥底の浅瀬で演習中だから、ずぼぉと水底の泥に突き立てると、しっかり喰い込んで水底のグリップは良いんだけど、抜けなくなる。

 抜けない竿をなんとか抜こうと、力を入れて押したり引っ張ったりしていたら、足元の舟が勝手に遠ざかって、僕はあえなく落水した。


 ライフジャケットは着ているし、胸くらいまでしかない水深だから、落水しても慌てる必要は無い。

 立ち上がらずに浮いている僕を目がけて、二人一組で舟に同乗している岸峰さんから、ロープ付きの浮き輪が放り込まれる。

 泳ぐなり歩くなりした方が早いシチュエーションだけど、訓練だから僕は彼女に舟まで引き寄せてもらう。

 ロープを引っ張る岸峰さんの顔は真っ赤だ。浮力があるから重量としてはそれほど重いわけじゃないんだけれど、水の抵抗があるからね。


 舟の脇まで引っ張ってもらったら、船縁ふなべりを掴んで艇尾ともまで移動する。

 いきなり小舟の脇から船上に攀じ登ろうとすれば、小さな舟だと横転・転覆してしまう。舟上へ上がるのは艇尾からが鉄則。

 今回使用している舟は、短艇カッター伝馬船てんませんのように海での使用も考慮された舟ではなく、『猪牙舟ちょきぶね』と呼ばれるタイプの、公園の池に浮かんでいるボートくらいの大きさの細身の内水面用和船で、スピードは出るけれど左右方向には不安定な、ただでさえ引っくり返り易い舟なのだ。


 他の舟からもドボンドボンと派手に落水音が響いていた。

 立花小隊は操船初心者ばかりだから無理もない。


 けれどもどんな場面でも勘の良い人というのは居るもので、猪牙舟にも竿にも初体験なのに関わらず、不器用そうなり腰ながら、なんとか目的を達している艇もある。

 猪牙舟から落ちていない操船者が女性ばかりなのは、立花小隊の女性比率が高いからという事情だけではなく、基本に忠実である上、力任せの無理をしないからだろう。

 そういえば柳川のドンコ舟にも女性船頭さんがいて、猪牙より大きな和船に観光客を満杯に乗せても、苦も無く竿を操っていたっけ。


 「よぅし! それでは、まだ落水してない人は飛び込んで下さい!」

 内火艇うちびていの上から訓練を監督している教官が、メガホンを使って号令する。

 内火艇というのは小型のエンジンボートで、いわゆるランチの事だ。


 この訓練の教官には、フェリー汐の甲板員を長年務めておられた方が、臨時で立花少尉殿と一緒に当たっておられる。民間客船に乗っておられた人なので、号令も穏やか。

 教官殿の横で立花さんが「飛び込め! 跳べ! 跳べ!」と躊躇する女性隊員を急かしている。


 この訓練の背景には、竿で猪牙舟を自在に操れるようになる事よりも、隊員を水に慣れさせるという意味合いが大きいようだ。


 御蔵島は言うまでも無く『島』だから、御蔵島以外の場所に移動する時には船か飛行機を使用しなければならない。(理科実験準備室の『扉』は、例外中の例外。)

 そして御蔵島以外の陸地の港湾設備は貧弱だから、大発や小発みたいな舟艇か、カッターや伝馬船の様ないわゆるはしけを使用しないと上陸が出来ない。

 輸送船から縄梯子なわばしごを伝って小発に降りたり、舟艇から舟艇へと移動したりする時には、常に落水の危険とは隣り合わせだ。

 落水を避ける身のこなしを身に付けたり、もし落水しても慌てず対処したりする技術を会得えとくするのは、生きて行く上で必要不可欠であり避けて通れない道でもある。


 立花小隊の隊員は「都市生活者」ばかりだから、今後の安全と生存のためには『スキル:落水対処』を習得する必要が有った訳だ。


 さて、艇尾に回った僕は、船縁に手を掛けると足で水をかいて推進力を付け、腕の力で上体を舟の中に押し上げる。

 白の綿シャツとトレパンの運動衣袴に、デッキシューズだけという軽装なのだが、水に濡れた服は肌に張り付いて動きを邪魔するし、デッキシューズを履いた足は水の抵抗が増して裸足の時より遥かに重い。

 日々の訓練で腕力が増しているから、何とか舟に転がり込む事が出来たが、しばらくの間は荒い息が止められなかった。


 「キミは運動不足なんだよ。」

 浮き輪と竿を回収した岸峰さんが憎まれ口を叩く。「何はともあれ、ご苦労さん!」

 「いや……結構、シンドイ……。クツのままだと……ホント……水がかけない。」

 息も絶え絶えな僕に対して、彼女は「ワタシは大丈夫。小学生の時に水泳教室にも行ったからね。」と自慢げだ。「服を着たまま泳ぐ練習もやったよ? 一番良いのは、慌てず騒がず助けが来るまで仰向けに浮いておく事だって教わったし。」


 「よぉし! みんな舟に戻ったな。それでは、操船役と救助役は交代!」

 教官殿が張りのある声で号令する。「さぁ、やってみよう!」


 「だってさ。岸峰さん、君が今度は落っこちる番みたいだよ?」


 偉そうな事を言っていた岸峰さんだったが、彼女は上手く猪牙舟に登る事が出来ずに、僕がトレパンを掴んで引っ張り上げた。

 「イヤぁ、アリガト。キミの言う通り、ホント重いわ。」

 経験者のはずだった岸峰さんが、鼻から海水を滴らせながら咳をする。「なんか、水飲んじゃったよ。」

 コンクリート製のプールサイドとは違って、舟は揺れるし動くし乗り上がり難いのだ。


 僕は「だろぅ?」と、ちょっとだけ溜飲りゅういんを下げながらも、彼女の身体にピッタリと張り付いた濡れたシャツにドキリとする。胸元のカタチが露わになってしまっているし、シャツの下の乳バンドの色や形が透けて見えている様な気がするからだ。

 まあ乳バンドの実物は、いつも電算室に干してあるのを見ているんだから、こんな処で狼狽うろたえるのもオカシナ話なんだけどね。


 けれど猪牙舟の一艘がくつがえりそうになる騒ぎが起きたから、一気に現実に立ち返った。

 海水が流入して、乗っている二人はパニックになっている。

 女性ペアの舟だ。

 水が入ったら、木造ボートって沈むんだ!

 鉄製の船に水が入れば沈むのは理に適っている気がするけれど、水に浮く木材で出来ている木造船がなぜ沈む?

 いや、舟の喫水下の容積の中から、水を外部へ押し出している分の浮力が無くなるのだから、その分は沈んでしまうという理屈は分かっている心算なのだけど、丸太でも浮くじゃないか。


 「慌てるな! 飛び込め!」

 教官殿から指示が飛ぶ。

 二人が海に飛び込むと、舟の沈下は止まった。

 再び浮上するってわけでもないけど、浮きもせず沈みもしないサスペンド状態。


 「男共は手を貸してやれ! 猪牙を浜へ押し上げろ!」

 僕も自艇の舳先へさきから海へ飛び込むと、海底を蹴りながら遭難艇に向かう。


 水の入った舟は重い。

 浮いている猪牙舟なら、軽く押すか引くかすれば簡単に進むのだけれど、男六人が総掛かりでも大仕事。


 「垢汲あかくみ!」

 教官殿の命令で、僕たちの横でオロオロしていた二人の女性隊員が、プカプカ浮いているアカクミ――柄杓ひしゃくのことだ――を手にして、猪牙舟の中の水をい出す。

 舟の中の水嵩が減るにつれて、猪牙舟は少しづつだけど軽くなる。


 舟底が海底の砂地を捉えた処で、全員で水を掻い出す。

 アカクミは女の子が使っているから、僕たち男は被っている運動帽を脱いで水汲み道具に代用する。


 「残りの艇も岸へ向かいなさい。」

 この号令は立花さん。

 岸へ向かえと言われても、竿で猪牙舟を操れるグループはいないから、結局は皆が再び海に入る事になった。

 岸峰さんは海水を飲んで疲れていたみたいだけど、大丈夫だろうか。


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