ライフ18 昨日の負傷者搬送訓練について岸峰さんと少しだけビミョウな遣り取りをした件
早乙女さんは簡単に見つかった。朝のお茶をサーブするために給湯室でお湯を沸かしていたのだ。
僕は伝令のオートバイに、新町湯向けのVTRを渡すのに手間取っていたから、岸峰さんに追い付いた時には説明はほぼ終わっていた。
「発芽種子の大根モヤシをカイワレと言うのですか。水耕栽培できるとなると、狭い区画や船の上でも新鮮な野菜が手に入る事になりますね。」
早乙女さんの理解は早かった。「壊血病や脚気の予防にもなるというのなら、トライしてみない手は無いですね。」
岸峰さんは、そうなんです! と頷くと「但し、溜置き水で栽培する場合には病原菌の繁殖がリスクになります。殺菌された水を使うなり、調理前に殺菌するという手間を掛けないと、病原性大腸菌による食中毒が起こったりする事があるのです。熱処理――湯通しや油通しみたいな一手間――をかければ安全性は高まりますが、熱処理を行う事によって破壊される栄養素が有るのが残念な処ではあるのですが。」
「食糧班の他、防疫給水部にも一報を入れていた方が良さそうですね。」
早乙女さんは少し思案して「あと病院にも。」と付け加えた。「中佐殿は反対なさらないと思います。」
岸峰さんが畳みかける様に「お願い出来ますか?」と念を押すと、早乙女さんは「勿論です。」と頷き
「でも病院には直接話に行かれた方が早いかも分かりませんね。あちらから見えられる事は少ないから。」
と続けた。「今日は小倉さんのツベルクリン反応検査を確認しに行かれるのでしょう?」
御蔵病院は要衝の地の軍病院らしく、規模も大きく設備も立派で医師や薬剤師・医学生も大勢勤務している。
けれど今は、戦闘状況が落ち着いているから手術や一般診療の面では負担は少ないけれども、ストレプトマイシンの生産やペニシリンの増産にマンパワーの負荷が掛かっている状態だ。
病院の勤務者が、司令部棟にあまり顔を見せないというのは納得出来る。
「これから朝一で行ってきます。小倉さんを連れて。」
岸峰さんは決断が早い。「雪ちゃんは陰性らしいから、BCGの接種もお願いするつもりです。スプラウトの件はどなたにお話するのが良いでしょうか?」
「院長先生じゃないかしら? もう面識はあるのよね?」
御蔵病院の院長先生は、小柄で枯れた感じの好々爺然としたお医者さんだ。
だけど大佐格の軍医監殿でいらっしゃる。
森鴎外みたいな恐い感じの人を想像していたら
「手術が下手なモンでな。出張と書類書きば~かりさせられとったら、こんな事になってしまっておったのよ。ツマランもんじゃぞ、管理職なんてのは。」
と自ら僕たちに種痘を施してくれたのだった。
「腕の良い医者どもは、今は何かと忙しいからな。手の空いておるのは、ワシみたいなヤブしかおらん。ちょっと痛いが、我慢せい。」との説明付きで。
その後も理科準備室の備品を病院に運んだ時などに顔を合わせているから、あの院長先生にだったら話はし易い。
僕たちは早乙女さんにお礼を言うと、一度電算室に戻った。
朝の洗顔をしなけりゃいけないし、病院に行くのなら用意しないといけない物がある。
岸峰さんと雪ちゃんが洗面所へ向かっている間に、僕はパソコンとプリンタを立ち上げた。
印刷するのは雛竜先生の写真だ。
印刷物の出来栄えを点検していたら、速攻で洗面所から戻って来た岸峰さんが覗き込み
「何、その半裸美青年写真は?」
と冷たい声で問い詰めてくる。
「昨日の負傷者搬送訓練で、血気盛んな男子高校生らしくなく、イヤに冷静に私の身体を点検してるなぁ、と思っていたんだけど。ソウデスカ。興味の対象はソッチ方面ダッタ訳デスネ。」
「いや、違うんだよ。これは。」
「あら? ナニがドウ違うと、オッシャリタイノデ、ゴザイマショウカ?」
わけわかんないシチュだから、僕は彼女に逆襲して怒ってみても良いのかも知れない。
けれど雪ちゃんが「何を揉めておられるのです?」と戻って来たから、僕の逆上は急速に鎮静化した。
「雪ちゃん、胸元がビシャビシャになってるよ。蛇口を開き過ぎたろ? 岸峰さんが雛竜先生の写真を見て怒ってるんだよ。」
雪ちゃんは「まだ水道というものに慣れぬのです。」と今更ながらに胸元を日本手拭いで拭うと
「英玉様へのお約束の姿絵でございますな。無聊を託っておられましょうから、お喜びになりましょな。」
と雛竜先生の写真を確認した。「姉上も是非にと所望しておりましたが。」
「私は一言も、そんな事を言った覚えは無いよ?」と岸峰さんが真顔で異議を唱える。
「姉違いだよ。雪ちゃんの実の姉の花姫様さ。」と僕は岸峰さんの勘違いを訂正する。「それにこの写真は、君は既に見てるんだけど。……覚えてない?」
「北門島から帰って来て、準備室で見せてもらった写真か!」岸峰さんはすぐに思い至った。「あの時はスマホ画面だったし、……その後に雪ちゃん登場のインパクトが大きかったから、すっかり忘れてたよ。」
「だろ? 君に隠し事なんてしてないよ。雛竜先生こと鄭隆氏は、北門島女性陣のアイドルなのさ。」
「我が姉の花も、入院中の英玉様も、雛竜先生を愛しく思うておるのは間違いございません。」
「そっか。ゴメンね。」
岸峰さんは割と素直に謝ってくれた。
けれど「私も、キミが訓練終わった後に、しばらくシャワー室から出て来なかった事には目をツブッてあげるよ。」と妙な圧迫を加えてくるのは忘れてない。
僕は、このアマ! 奥歯ガタガタ言わしたろうかぃ! なんて凄まずに、「それはどうも。」と軽く返すだけに止めた。
その後、どっちが雪ちゃんに付き添って病院に行くかで、岸峰さんはスプラウトの事を説明するために自分が行くと主張し、僕は英玉さんの事があるから僕が行くと譲らなかったので、ジャンケンによって決定することになった。
「じゃあ、お留守番をお願い。」
勝者は岸峰さんだ。
彼女は雛竜先生の写真をしげしげと眺め「本当に、妖しいくらいの美形よね。私もこのくらい美人に生まれていればねぇ。」と独り言を言っている。
「なんの、純子姫様は当世一の才媛にござります。その旨、この雪がしかと請け合いまする。まるで話に聞く清少納言さまのようじゃ。」
雪ちゃんは岸峰さんの独り言に気を遣って、フォローを入れた心算なのかも知れないけど、それじゃあ文脈が違い過ぎる。
「雪ちゃん、そこは『当世一の美女』で『小野小町か楊貴妃か』って例えないと、意味が繋がらないよ。」
僕の添削に対して雪ちゃんは
「いえいえ。当世美女の番付には、この雪も艶を競うておりますゆえ。」
と澄まして答え、自分で言っておきながら笑いだしてしまった。
岸峰さんも吹き出して「なんだなんだ! 強敵出現じゃん!」とコメントすると
「英玉さんには温州情勢も伝えとくね。福州軍との合流待ちで鄭隆氏が来るのは遅れるだろうから、少しガッカリされるかも、だけど。」
と真面目な顔で僕に約束した。
「それは仕方が無いだろうね。でも正確な情報は彼女も知りたい処だろうから、曖昧に濁すよりは彼女も喜ぶと思う。」
「理知的な人?」という岸峰さんの質問に、僕は「抑えの効く人だと思う。」と答えた。
二人を送り出した後、僕は歯を磨いてからソーダ工場の生田技師に渡す資料をもう一度読んだ。
そろそろ主計部の誰かが、本日打ち込み分の御蔵島の物品出納資料を持ってくる時分なのだが、気配が無い。
だから余計な事を考えてしまう。
昨日の負傷者搬送訓練では、僕はトラグ法で岸峰さんを移動させたのだが、あれが間違っていたのだろうか。
いや、訓練的にとしてではなく、親しい女性を運ぶ方法としてだ。
あそこはシチュエーションを度外視してでも『お姫さまダッコ』が正解なのではなかっただろうか?
考えるだけでも赤面してしまいそうだけど。
立花少尉殿にコッソリ質問するチャンスが有ったら、その時にはぜひとも訊ねてみないといけない。
リア充の立花さんなら、指導教官としての立場を離れた、いわば人生の先輩としての見方・考え方をアドバイスしてくれるかも知れないからだ。
「前途多難だなあ!」と思わず独り言を叫んだら
「何が前途多難なんです?」と古賀さんが入室してきた。手にはバインダーを抱えている。今日の表計算ソフト入力分だ。
「いや……ほら、紙の製造の件。仮に白色腐朽菌の良いのが手に入っても、木材を白腐れさせるのに時間を喰うでしょ? 紙の需要は現在進行形なのに。」
慌てて『前途多難』を誤魔化す。
古賀さんはバインダーから書類を取り出して、その半分を僕に渡すと
「片山さんは、中佐殿から研究を依頼されてらしたんでしたね。」
と自分用のパソコンを立ち上げた。
「でも、その件は急ぐ必要は無いみたいですよ。普段使い分は、目途が立ちそうですから。」




