パラ13 胡蝶の夢に悩む件
「ここが、もし新しいパラレルワールドだとしたら、僕たちがいた元の世界には、今でも僕や岸峰さんが普通にそのまま生活しているのかも知れない。」
考えたくはない事だが、だからと言って可能性は否定出来ない。
「僕やキミが、元の世界でも、理科準備室ごと行方不明になっているとすれば、両親なんかは苦しんでいるだろうけれど、帰れるチャンスは残っている、と言うか皆無ではないと思う。けれど、元の世界がそのままならば、僕たちはここで何とか生きて行かなくちゃならない事になる。」
元の世界で、僕たちが行方不明になっているのだとすれば、僕たちはここへ「異世界転移」したわけだ。
時空に揺れが生じたのが原因なら、希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど、揺り戻しで帰れても不思議は無い、と思う。いや、そう信じたい。
けれども、元の世界にも、普通に生活している僕たちが存在するのなら、それは僕たちが「異世界新生」した、とでも言ったら良いのだろうか。
異世界へ「死んで生まれ替わった」わけではないから、「異世界転生」の概念とは、厳密に言えば異なっているような気がする。
その場合には、元の世界に戻ると言う事は、元の世界でそのままの生活を続けている自分と意識が統合される事になるのだろうか? あるいは、そこに存在する自分をビリヤードの玉のように弾き出す事になるのか? それとも、戻れる可能性が全く無いという事なのか……。
……分からない。何も、分からない。
違う世界の自分と、意識統合するなど、手立てが全く思い浮かばない。
荘子に『胡蝶の夢』の説話がある。
大雑把に言ってしまえば「私が夢で蝶を見たのか、蝶の見た夢が私なのか、知る術は無い。違って見えても、どちらも真実だ。」という考えだ。
元の世界の僕が、うたた寝でもして異世界にいる僕を夢想しているのか、今の僕がこの現実を否定したくて、元の世界の僕に思いを馳せているのか。
夢ならば覚めて欲しいと熱望しても、今この時点での「リアル」は、御蔵島にいる自分だ。
「……くん、片山くん!」
岸峰さんに肩を揺す振られて、我に返った。
心配そうな彼女の目が、至近距離から僕の顔を覗き込んでいた。
少しの間、僕は自分だけの世界に没入してしまっていたらしい。
「ああ……。ゴメン、ゴメン。ちょっと考え事を。」
「言われなくったって、分かるわよ。……帰れなかったら、どうしようって思ったんでしょ。」
それとは、ちょっと違うんだけれど「そんな処かな。」と、僕は彼女に答えた。
「気をシッカリ持ってよ! 同志はキミしかいないんだから。二人でチャンスを待つのよ。帰れる日まで。」
彼女は細い拳で、僕の眉間に優しくグー・パンチを入れた。
僕は今日まで、岸峰さんから、こんな風に励ましてもらう事になるとは、思いもよらなかった。
自分の方が、彼女よりもシッカリしていると思っていたから。
「その通りだね。今、悩むのは無意味だ。生きてチャンスを待つより、他に無い。……ありがとう。」
彼女にお礼を言ったら、準備室を出る時に、プレゼントを持って来ていた事を思い出した。
「岸峰さん、リュックの中に、キミへのプレゼントを入れておいたのだけど。」
彼女は「何だろう?」と訝りながら、簡易寝台の上に投げ出してあったリュックを開けた。
「ティッシュだ! 気が利くじゃない。……でも、この洗瓶は?」
彼女はポリエチレン製の洗瓶を手に取って、不思議そうな顔を見せた。
「温水便座の代わりだよ。温水は出ないけど。」
「……お礼は言っておくし、有り難く使わせてもらうけど、……気が利き過ぎ。」
赤くなった岸峰さんの顔を見て、僕は、ちょっと早まったかな? とも思ったが、この際だから彼女に注意喚起をしておくべきだと思った。
「洗瓶の洗浄器をプレゼントしたのは、デリカシーの無い発想で悪いとは思うけど、ここで生きて行く上で、気を付けなくちゃならない事が有る、と思うんだ。怪我を負ったり、病気になったりするリスクは、仕方が無い場合を除いて、出来るだけ避けるべきだ。僕たち現代日本人は外国に行った時なんかに、非衛生的な条件では、現地の人より感染症に罹り易いって指摘されているよね? だから、衛生面での注意も、その一つだと思う。歯磨きやトイレの後とか。ここでの生活に慣れるまでは、特に。」
映画『ハンバーガー・ヒル』の冒頭で、新兵が指導役の下士官から、歯磨きの重要性を叩き込まれるシーンがある。
生き残り人類の社会再生がテーマだったSF小説『ポストマン』でも、歯ブラシを失う事は歯を失うことと同義で、歯を失えば長くは生きられない、とされていた。
岸峰さんは、真顔に戻って、僕の話を真剣に聞いてくれている。
「御蔵島が軍の基地だった事は、不幸中の幸いだと思う。物資や備品が集積されているし、今まで会った人たちも、理知的で理性的な人ばかりだ。」
「身一つで、原始時代や戦国時代に投げ出されるより、余程運が良かったのは認めるわ。……そんな事になっていたなら、長くは生きていられなかったでしょうね。下手をしたら、スタート即、死亡エンドだもの。」
彼女の発言に、頷く事で同意を示してから、僕は話を続けた。
「医療分野についても、恵まれている。これだけの規模の基地だから、軍医も駐在しているかも知れないし、大型輸送船には船医が乗っているかも知れない。少なくとも、基地内に看護兵は居ると思うんだ。刀傷や弾傷を負っても、助かるかもしれない。それに、破傷風の予防注射を済ませていたのは、ラッキーだった。」
生物部や園芸部など、土を弄る機会の多い部活では、学校の方針で破傷風の予防注射をする事になっていたのだ。面倒な決まり事だと思っていたが、とんでもない所で役に立った。
「戦場では、弾に当たって戦死するより、病死による損害の方が多かったりする、というのは読んだことがあるわ。病気になった時の治療レベルは、どんなものなのかしら?」
「ペニシリンが発見されたのは、1920年代の末ごろだ。第二次大戦中の日本軍はペニシリンを持っていなかったけれど、アメリカ軍には有ったんだよ。チャーチルが重い肺炎になった時にも、ペニシリンが投与されているし、映画『第三の男』は、粗悪品のペニシリン密売で犠牲者が出たのが発端だったろ?」




