アジビラ作戦
「あっ! 雛竜先生。あまり御無理なさっては、お体に障ります。」
仮設滑走路で偵察機へのビラの積み込みを監督していた早良中尉は、再び朝の光の中へ現れた鄭隆に、そう苦言を申し立てた。
「まあ、まあ。そう固い事はおっしゃらずに。」
鄭隆は、にこやかに早良の苦情を封じると「昨日からの出来事は、あまりに興味深い事ばかりでジッとしているのが苦痛なのですよ。それにしても、あの謄写版という装置は、良く出来たシロモノでありますね。」
早朝に鉄筆でガリを切ったのは鄭隆自身である。
早良としては、ガリ切りが終わったら雛竜先生には早く自室に戻って養生してほしかったのだが、謄写版での印刷が始まっても、彼は部屋の隅に腰掛けて印刷物が仕上がって行くのを面白そうに眺めていたのだ。
「準備、終わりました。」整備士が早良に敬礼する。「後席の機銃は降ろしてありますし、前方機銃も弾は抜いてあります。航続距離は最最大限に近いものになってはおりますが、1,200㎞はあくまでカタログスペックだと、ご理解下さい。」
「ご苦労さま。」早良は整備士に答礼すると、機長席の笠原少尉に
「それでは、お願いします。目標が見つからなければ、無理せず引き返して下さい。ガソリン残量には気を付けて。」と念を押した。
笠原少尉は「承知しました。自分も命は惜しいですから。」と早良に敬礼し、「後席、デジタル写真機の準備は?」と偵察席に座った池永少尉に質問する。
池永少尉は足元のビラの上に据えてある望遠レンズ付きデジカメの電池残量を確認し
「準備、宜し。笠原さん、航法も任せて下さい。但し、福州軍が予想到達位置に居なかったら、仕方が無いですけど。」と返答。
笠原少尉は「相変わらず、お前は無駄口が多いな!」と池永を軽く一喝して
「それでは発進します。最悪、機体に不慮の事態が起きた時には、洋上の大津丸を探して着水します。陸地に降りるよりは、幾らかは安全でしょう。」
と早良に言い残してエンジンの回転数を上げる。
夜明けと同時に、轟機は偵察席に趙大人を乗せて既に温州城に向けて飛び立っている。
大津丸も飛行甲板から北門島仮設滑走路に向けて、もう一機94式偵察機を発進させると南方に舵を取って出港した。
大津丸には加山少佐や小倉藤左ヱ門が乗船して、海上を洞頭列島に向けて北上しているはずの鄭芝龍配下の福州水軍とランデブーするべく海路を急いでいるのだ。
なお、小倉隊の軍船は手分けして洞頭列島の各島々に、御蔵島との同盟が成立した事を周知するために漕走している最中だ。
福州軍密偵への尋問は、鄭隆の親衛隊長と大内警部補、通訳として鮑隊長、オブザーバーとしてスミス准尉が当たっている。
捕虜は二人いるのだが、内一名は昨夜右手に貫通銃創を受けた為、軍医の止血と応急手当を受けた上で、『扉』を通って御蔵島の軍病院に搬送されていた。
密偵を乗船させていた商人船の船長以下は、北門島城内の建物に軟禁されて取り調べの順番待ちだ。
難無く滑走路を飛び立って行く笠原機を、早良は鄭隆と並んで見送った。
アジビラ作戦は当初、魯王支配下の温州城に対してのみ行われる予定だったのだが、唐王率いる福州軍にも実施せざるを得ない事態になってしまったのは、連絡手段それも短時間で情報を共有する手段が他に無い事による。
早馬や早船による伝達では、事態の推移に対して指揮官が判断下すための材料集めが追い付かないからだ。
昨晩の騒動も、言ってみれば福松(鄭成功)が洞頭列島駐留部隊に不穏な空気が生じていないかどうかを懸念して掛けていた保険の副産物の様なものだ。
大将軍に任命された唐王の軍師格で、自らも討清将軍という名称の雑号将軍格に任じられた福松は、鄭隆が温州の魯王と結んで、福州と相対する勢力へと変貌する事を警戒していたのだった。
弘光帝の信任厚く車騎将軍に任じられた鄭芝龍にとっては優秀な『駒』である鄭隆も、福松にしてみれば自軍陣営に所属するとはいえ油断ならない競争相手である事は相違ない。
鄭隆が、わざと温州軍に対して福州軍の北上を遅延させる策を採らせ、温州軍主力を率いて応天府(南京)を奪還してしまえば、南明朝に於ける魯王と鄭隆の発言力は、唐王と福松のそれを凌ぐものになるであろう。
「捕らぬ狸の皮算用」と言ってしまえばそれまでだが、福松は南明朝が揚子江(長江)以南の領土を全て回復した後の事まで考えていたのである。
早良中尉は、昨晩の『仕掛け』は始め余りにあからさま過ぎて、仮に北門島にネズミが潜んでいたとしても引っ掛かってこないのではないか、と疑問視していた。
けれども鄭隆の読み通り、滑走路に駐機してある偵察機にスパイが接近した事によって、彼の懸念は覆される事となった。
二名のスパイは海岸近くの商人宿から、慎重に道を避け森を通って滑走路に接近したのだ。
隠密行動を取るために、当然、松明は手にしていない。
普通に道を歩くのであれば、半月に近い月が上っているために起こさなかったであろう凡ミスなのだが、暗い森を抜けるために、彼らは地面に落ちた枯れ枝を踏み折って音を立てていた。
ランプの光に浮かび上がる『凧』の近くに、警護の兵の姿が無かった事も、密偵の行動を大胆にしていた。
そのために福松配下の二人は、彼らとしてみれば充分に注意を払った心算なのだろうが、オーストラリア兵が伏せているのに気付かず滑走路に足を踏み入れた。
滑走路から20mほど離れた暗がりで、ギリ―スーツ代わりの偽装網を被ってタコツボに潜んでいた5人のオーストラリア兵は、「パキッ。」という足音を耳にして、スパイが周囲を警戒しながら偵察機に接近するのをかなり早い段階から見守っていた。
スパイは短刀か鉈の様な物を手にしている。
夜間といっても、滑走路上の偵察機の近くにはランプの明かりが有るし、照門から不審者まで40mにも満たない程度だから、的を外す距離ではない。
狙撃隊の隊長格の伍長が、そっと偽装網を外すと、タコツボ壕から立ち上がって
「Freeze!(動くな!)」
と、命令する。
スパイは一瞬狼狽したが、左右に分かれて逃走を試みる。
伍長が警告に空に向かって発砲すると、一人は武器を捨てて跪いた。
けれど、もう一人は刃物を振り上げて突進して来る。
威嚇して警戒線を強行突破し、森に逃げ込む心算らしい。
しかし、すかさずライフル兵が得物を握った腕を撃ち抜く。
『情報取得の為、出来るだけ生かしたまま捕らえるように。』という指示が下されていたからだ。
撃たれた男は、腕を抱えて地面を転がり回る。この男は運が良かった。もしタイミングが後一瞬遅ければ、兵の安全のために腹か胸に数発のライフル弾を喰らっていたであろうから。
狙撃隊はM1ライフルを構えて、慎重に負傷した敵スパイに接近する。
兵の一人は止血帯を手にして、軍医が来る前の応急措置を施す用意をしている。
その隙に、跪いていたスパイが立ち上がって、今度は道なりに政庁社方面へ走り出す。
先に武器を捨てたスパイの方が、実は格上なのだろう。
腕を撃たれた男は派手な行動を見せる事によって、我が身を捨ててもう一人のスパイが逃走するための、僅かな隙を作っていたのだ。
「Don't shoot!(撃つな!)」
狙撃隊の一人が、銃を構えて逃亡者を後ろから撃とうとしたが、伍長は射撃を制止した。
逃亡者は宴会の雑踏の中に紛れれば、身を隠すチャンスが有ると考えたのかもしれないが、それは無理な話だ。
城の方角から煌々と前照灯を輝かせる97式軽装甲車が現れ、逃亡者の前に立ちはだかると、スパイは今度こそ観念して動きを止めた。
密偵捕縛は、直ぐに鄭隆や加山少佐の元に伝達され、密偵が乗船して来た商人船には小倉藤左ヱ門が部下を引き連れて臨検に向かった。
騒動は急速に鎮静化されて、北門島には秩序が復活した。
加山少佐は城から大津丸を介して、御蔵島に簡易手術器具や負傷者移送の要請を行った。
「加山様、エアプレーンを明日もう一機、飛ばす事は叶いましょうか?」
鄭隆が少佐に質問……と言うより「要請」する。
「機体は大津丸に予備機が有りますが、操縦出来る者が居りません。パイロットは二人乗って来ていたのですが、一人は朝の内に、この島にビラを撒いてから御蔵島まで帰投しています。」
「あの『扉』を通って、来て頂く事は?」
加山は雛竜先生の指摘に、自分の頭を小突いた。ここは御蔵島とは、ほぼ地続き同然なのだった。
「要請してみましょう。目的は、福州軍との連絡、ですな?」
捕虜となった密偵は、主たる男が林、腕を撃たれた男が呂であり、福州軍の討清将軍配下だ、と名乗っていた。
呂は止血を施された上でモルヒネを投与され、痛みから解放されたために何とか落ち着いている。彼は手術器具が届いたら応急手術を施され、その足で本格的な手術を受ける為に御蔵島へと連れて行かれると説明されていた。右手は失わずにすみそうだが、動かせるようになるかどうかは分からない、と告げられても(モルヒネの効果込みなのかも知れないが)自らに起こった出来事を泰然と受け入れた。
一方、「宴を騒がせたのは悪かったが、決して仇なす心算が有ったわけでない。不思議な凧の詳細を調べて、福松様にお知らせせねば、と考えたまで。」主犯の林は自らの行為を、そう弁明した。
「筋が通らなくもない話ではありますな。」
大内警部補は笑顔で、そう林の言い訳に応じる。
「けれども、それならば身分を明かして堂々と許可を求めればよい事です。夜闇に紛れて……しかも武器を手にして接近した事への説明は付かないでしょう。もう少し、詳しく打ち明けて頂かないとね。」
「我にも立場と面子が有る。」林は不敵な笑顔を見せて、それ以上の自白を拒んだ。「討清将軍福松様の許しを得ずして、これ以上は何も明かせぬ。拷問してみるなら、そうすれば良い。口は割らぬ。」
「よく言った。今に吠え面をかかせてやる!」
鄭隆の親衛隊長である典が、部下に「鞭を持ってこい!」と叫んだ。
「まあ、まあ。お待ちください。」警部補が典隊長を宥める。「本当かどうかは判りませんが、仮にも明朝の討清将軍の配下であると申し立てている男です。福松様の部下を、雛竜先生の部下であるアナタが拷問したとあっては、後のシコリに成るやも知れません。」
通訳を務めていた鮑も「こやつ、いざとなれば死ぬる決心をしておるのでありましょう。その様な男に口を割らせるのは、並大抵の拷問では上手く行きますまい。」と警部補の意見を支持する。
「ならばどうする? コイツの言い分を丸呑みにして、賓客として待遇するとでも言うのか?」
典隊長の言い分も尤もで、林や呂を無罪放免とするのは危険だろう。
『治療のために』御蔵病院へ移送される呂はともかく、林は自陣営に戻った後、上の者に如何なる報告をするのか分かったものではない。
雛竜先生は温州と結んで唐王様のみならず帝の命を狙っております、などとトンデモナイ偽情報を流す可能性も有るのだ。
林が福松配下の諜報員であり、尚且つ、清か順の二重スパイであった場合には、温州と福州との離間を狙い同士討ちをさせる絶好のチャンスだと言える。
「皆さん、ちょっと冷静になられては?」
艶然とした笑みで割って入ったのは、オブザーバーのスミス准尉だった。
「先ほどの、持って来て頂く物リストに、ネムブタールを付け加えてありますので。」
典隊長が首を傾げる。「何ですかな、それは?」
警部補は苦々し気に首を振り
「自白剤ですよ。どんな屈強な男でも、知っている事を黙っていられなくなる薬です。」
と典隊長に説明する。
「あらあら、人聞きの悪い。」スミス准尉は、あくまで笑みを絶やさない。「単なる鎮静剤ですよ。心が楽になる。私は、人が拷問を受けたりするのを見るのには耐えられないから、林さんとは楽しくお喋りがしたくって。」
「その様な、便利な薬をお持ちなのですか?」典隊長が驚いて確認する。
「使い方を間違えると、使われた人間は精神が破壊されます。」警部補は典にそう説明すると、「私はネムブタールの使用には、断固として反対します。この男を廃人にするのは、死なせてやるより残酷だ。」と強い口調で准尉に告げる。
死なせてやるより残酷、という言葉を鮑から通訳された林は、初めて不安そうな表情を見せた。
「どんな薬なのだ?!」
「天国か、あるいは地獄へ行ってしまう薬よ。……そして、頭に浮かぶ事を、何もかも喋ってしまうの。量がちょっとだけ多かったり、繰り返し使ったりすると、戻って来られなくなるの。まあ、薬が合わなくて、直ぐに死んじゃう人もいるけれど。それでも、あなたから聞き出したい事を訊く間くらいは、持つでしょう。あなたは頑健そうだからね。」
林の不安は呂にも伝染したようで、横たえられた寝台から
「なあ、黙っている事が出来ないなら、正直に話てしまっても仕方が無いんじゃないか?」
と林に呼びかける。「別に、悪さをする心算で、島に乗り込んで来たわけじゃないのだし。」
林は「黙れ!」と呂を叱り付けたが、呂は尚も
「薬を打たれても、討清将軍の配下で雛竜先生の動向を探っていた、と本当の事を言うばかりだ。無駄に逆らって林の兄イが薬で馬鹿になってしまったら、大木様(鄭成功の号)だって嘆くだろう。……そこまで無理をする必要は無かったのにって。雛竜先生は、魯王と組んで唐王を討とうなんて考えてやしないって事は分かってるんだから、正直に何もかも話してしまえば良いんだよ。……なァ、兄イ!」
林は呂の呼びかけには答えず、目を閉じて肩を落とした。
大内警部補は典隊長に目配せすると、准尉と鮑隊長を促して部屋を出る。
部屋には二人の捕虜と、監視の兵だけが残った。
扉を閉めると、警部補は准尉に向かって
「見事なお手並みで!」とニヤリと笑う。
准尉は「いえいえ、警部補こそ。」と、キリリとした表情で応える。「ネムブタールの不使用を訴えた時の演技は、迫真のものでした。」
二人の遣り取りを聞いた親衛隊長は「全て、嘘だったのですか?」と驚愕の表情を見せた。
「ネムブタールの危険性は、本当の事ですよ。」准尉が典に説明する。「使わずに済んだのは、幸いでした。」
「密偵の目的も分かった事だし、雛竜先生に御報告に上がりますかな?」
警部補は三人と共に、鄭隆の居室を目指した。
報告を受けた鄭隆は、加山少佐に
「いよいよ福州軍との早期の連携の必要性が増したようです。明日は福州軍の位置を知る事が出来れば良いとだけ考えていましたが、温州城と同じく福州軍にも早急に手紙を届けたい気持ちが増してきました。」と告げる。
加山少佐は頷き「どうせ偵察機を出すのでしたら、位置確認ばかりでなく、手紙の投下も行ってしまいましょう。」と提案する。
「そうしたいのは山々ですが、わたくし共の文官は温州に届ける手紙を筆写するのに手一杯なのです。」
加山少佐は、紙は充分に持っておられますよね、と確認すると
「謄写版印刷という、簡便な印刷技術があるのです。原紙一枚分だけは、先生の御手を煩わせる必要が有りますが、それが書き終えれば同じ手で複数の手紙を刷る事が可能です。今から要請すれば、朝までには御蔵島から取り寄せる事が出来ましょう。先生は一式が届くまでの間に、文面の考案を宜しくお願い致します。」
斯くしてアジビラ作戦は、温州城向けと福州軍部隊向けとの、二正面作戦に成ったのだった。
南西方向に遠ざかる笠原機を見送りながら、早良中尉は鄭隆を滑走路に誘う。
「せっかくの機会ですから、ちょっとお話を。」
兵も鄭隆のお付きの者も遠ざけて、二人は滑走路の中央に並ぶ。
「先生。密偵が討清将軍の配下であるのは、予め疑っておられたのでしょう?」
何時も笑顔を見せている事の多い二人だが、揃って真顔だ。
「早良様に隠し事をするのは、不可能なようですね。」鄭隆は早良の指摘を認めた。
「いるとすれば、福松様の手の者であろう、と考えておりました。事を荒立てたくは無かったし、なにぶん味方同士ですからね。島の者たちの間に、疑心暗鬼を残さず間諜を狩り出すためには、外部の手を借りねば無理であろうか、と。来訪者のあなた方が手を貸してくれれば可能である、と気付きましてね。奇貨居くべしと御手を煩わせた次第です。申し訳ありませんでした。」
早良中尉は、ふう、と大きく息を吐くと
「いえ。お手伝いが叶って光栄です。……ただ、次にこんな事をやる時には、前もって情報を入れてもらうか、或いはお身内だけで決着を付けて頂くか。どうか宜しくお願いします。」
ぼやく様に言葉を続けた。
「ええ、そうですね。」鄭隆は僅かに笑みをこぼした。「努力致します。」




