アジビラ作戦向け演習飛行
翳り始めた西の空を背景に、仮設滑走路へと帰投した複葉機に向かって、加山少佐と早良中尉が駆け寄って行った。
94式偵察機の偵察席では、趙大人が強張った肩を解していた。
「行けそうかい?」蒼ざめた顔をした趙に、少佐が質問する。
趙は何とか笑顔を作ると「行けます。……けれど、帆柱に攀じて物見するくらいは平気ですから、もっと容易いかと思っていましたが、なかなか。」
「それでも大したものだ。御蔵で目にした事は有っただろうが、実際に飛んでみる勇気が出るとは。」
少佐の称賛に対して、趙は少し恥ずかしそうに
「飛ばしてくれる機長が玄人だから身を任していただけでございます。いざとなっても、自分は気絶してしまえば平気なわけですから。……正直、まだ手が震えています。」
整備兵の手を借りながら機体から降りる趙に向かって、早良中尉が質問する。
「上空から、地上目標が視認出来ましたか?」
初めて空から見る地上は、意外にどこを飛んでいるのか認識し難い。
山や岬、大きな建物などのランド・マークの見え方が、何時もの見慣れた風景とは変わって見えるからだ。
予め地図を確認して、脳内で風景の見え方の予測が出来ていないと、思わぬ誤謬を起こして見当違いの方向に機を誘導してしまったりする。
日本軍では、海軍航空隊の兵は何も無い海上を飛ぶために航法飛行を得意としていたが、陸軍航空隊の兵はランド・マークをチェックしながら飛ぶのを常としていた。
だから初めて空中から地上を眺める趙が、機の誘導を出来るかどうかは少し難しいかも知れないと早良は思っていた。
――誘導が困難なのであれば、後席には航法担当を乗せておく方が良いかも知れない。
「趙大人なら心配は無用だ。少年航空兵から上がったばかりの新米伍長なぞより、よっぽど肝が据わっている。」
機長席から一人でスルスルと降りてきた中尉が、早良中尉の懸念を払拭する。
「俺は機を浮かせた後は、右でも左でも、上でも下でも、仰せの通りに飛びます、好きにお命じ下さいって言って黙ってたんだがな。見事に島の幾つかを手掛かりにして、温州城が目視出来る位置まで誘導したよ。見事なものだ。」
「ああ、轟中尉。それでは温州城の位置確認は既に済ませたわけですね。」
早良中尉は、また例によって眼鏡の弦を押し上げながら、機長の指摘に応じる。「じゃあ、ビラを投下するのは94式に慣れた者に任せますか?」
「趙大人の考え次第、かな?」轟機長は膝の屈伸を行っている趙に目をやって「明国人初の飛行機乗りに敬意を表するよ。」
「趙大人、どうするかね?」加山少佐が問う。「無理に飛ぶ必要は、もう無さそうだが。」
趙は少佐に「お心遣い、有難うございます。」と答えてから、「あんたが凧を操ってくれるなら、私は飛ぶよ。」と轟中尉に決意を述べる。「城の位置は分かっても、城の何処に撒けばよいのかは伝え終わってないからね。枚数は用意するんだろうが、城は広い。」
「決まりだ。明朝、晴れたら一緒に飛ぼう。」轟中尉は趙の肩を叩いてから、ビシッとした敬礼を決め「少佐殿、二人で参ります。」
「よし、任せる。」少佐もキッチリとした答礼をし「明日早いから、今日はもう休んでくれ。城内に部屋を用意してくれている。食事はレーションで、酒は無しだがね。」
「加山様、人聞きの悪い事を言わないで下さい。」
複葉機の整備に取り掛かっている兵を興味深げに眺めながら、鄭隆がにこやかな口調で姿を現した。彼は口元に大きな医療用マスクをし、傍らには花と主任看護婦が従っている。
飛行機が無事着陸するのを窓から眺めて、何とか看護と警備にあたっているものの説得に成功し、外出を許してもらったようだ、と早良は思った。
雛竜先生は排土板付チハが動き始めた時も、その機械の唸りを耳にして部屋でじっとしているのに耐えられず、工事現場まで見物に出て来て、気の強そうな主任看護婦から一度連れ戻されていたのだ。
「肉も魚も用意していますし、酒もありますよ。皆さんには楽しんで頂こうと思いまして。」
鄭隆が、歓待の用意が整っている事を告げる。
「あっ! 雛竜先生。いけません、暖かくしてお休みになっていて頂かねば。」
加山少佐が慌てて制止する。
軍医の聴診では、鄭隆と英玉は結核の疑いとの事だったのだ。重篤な状態には陥っていないが、養生しなければ悪化してしまう。
英玉は、ストレプトマイシンが完成したら、先生に使う前に先ず自分の身体で試験して欲しいと、密かに軍医に申し出ていた。「先生に万が一の事が有ってはなりません。私の身体で薬の無害である事を、お試し下さい。」
軍医も「島で飼っている山羊や豚で安全試験は行いますが、それでも人間に100%安全かどうかは判りません。貴女の勇気あるお申し出に感謝致します。」と、その申し出を了承していた。
「先ほど、瞬時に畑を平地に換えてしまった、ドーザー車の働きも見事なものでしたが、このエアプレーン? のカラクリも素晴らしい。とても寝床に籠ってなどいられません。……何と言っても、人が空を自在に駆けるのですよ?」
英玉の決意を知らない鄭隆は、少佐らを相手に子供の様に目を輝かせて話をしていた。
「お休みになっていて下さいと頼んでも、聞き入れて貰えないのです。」看護婦が顰め面で苦情を申し立てる。「入院なさった後は、こんな我が儘は許しませんからね!」
花が「先生に無礼を申しますな。」と看護婦を制するが、病院に研修に行けば上司として接しなければならない相手なので、その口調は強くない。
鄭隆は「おお恐い。入院したら真面目に養生致します。」と主任看護婦に笑顔で応じ「それでも技術の進歩の素晴らしい事! 何もかも驚く事ばかりで、こんなに胸躍る日々が来ようとは。」と感慨深げだった。
「先生の笑顔は本当にクセモノです。」看護婦が頬を膨らませる。「もう、何でも許してあげよう、なんていう気が起きてしまいます。」
「それでは、笑い顔は封印しますか?」
「そこまでは申しません。笑顔になる事は、健康にも良いのです。」
花は、鄭隆と主任看護婦の会話を耳にして、とんだ形で競争相手が増えてしまったものだ、と溜息を吐いた。
加山少佐と鄭隆一行がとが政庁社に戻るのを見送りながら早良中尉が、整備兵と一緒に94式偵察機に取り付いている轟中尉と趙に近付き静かに話し掛ける。
「整備が終わったら、整備士達と一緒に宴に参加して下さい。私も、滑走路の警備兵と一緒に後を追います。……滑走路と94式の周りを無人にしてね。ランプだけは一つ二つ置いておきますが。」
「手はず通りにね。」轟が頷く。「俺は作戦前日にはアルコールは摂らない主義なんだが。」
「ま、盃に唇だけでも付けてくれ。」趙が轟中尉に頼み込む。「強い酒だから、酔ったふりをして、ぶっ倒れてしまえばよい。」
「チハとテケは、滑走路から外れた所にまとめ、そこにだけ哨兵を立てておきます。そちらには発電機と投光器も配備しておきますから……滑走路と偵察機周辺の闇は、より深く感じられるでしょう。」
早良中尉の声は、最早、ささやき声に近い。
「そこまでする必要は有るのかね?」轟中尉の呟きは、疑問を隠せない響きを含んでいる。「貴公と雛竜先生と、それに小倉殿とが番を張っている島だ。清朝勢力の浸透があるとは思えないんだが。」
轟中尉は、機を着陸させてから趙大人を乗せて演習飛行に飛び立つまでの少しの時間しか、鄭隆や小倉藤左ヱ門と接してはいなかったが、趙を含めた三人ともが抜け目の無い優秀な人物である事には気が付いていた。
だから、鄭隆と趙から「北門島に不審人物が潜んでいないかどうかを炙り出すのに良い機会だから、是非とも手を貸してほしい。」とコッソリ打ち明けられた時には、非常に驚いたのだ。
「清朝側の密偵とは限らん。温州の、魯王の手の者かも知れん。単に考え過ぎなだけなのかも判らん。」趙も顎を撫でながら小声で説明する。「ここ二週ほど、俺は島を空けていたし、俺の手下は大陸に潜るか小倉隊の船に乗って敵の情勢を窺っている。藤左は船団を指揮して洞頭全域に目を配っていたといっても、攻めて来るであろう大船団を警戒していた訳で、一人二人の密偵を警戒していたのではない。雛竜先生の手勢は、先生の警護が最優先だし、先生自らは労咳を人にうつす事を恐れて、島民と懇ろに接している訳にはいかなかった。」
「偶然、怪しい人物が入り込むのには、おあつらえ向きの空白が生まれていた、という事ですね。」早良中尉が頷く。
「島の生活というものは、余程大きな島でもない限り、一島では成り立たないからな。常に売り買いの商人船が出入りしている。」趙は薄っすらと笑みを浮かべると「船長や水夫頭など主だった者は同じ顔でも、皆が皆、顔なじみであるとは限らん。一回限りの臨時雇いが乗っているのは珍しくない。」
「そう聞くと、自分も段々と心配になって来たな。」轟中尉が腕を組む。「自分は寝てしまって構わんのか?」
早良中尉が眼鏡の弦を押し上げながら「むしろ、遠慮無く寝て下さい。明日の事もありますし、轟中尉は演技が下手なんですから。趙大人と君とが早々に寝入ってしまった方が、もし不審人物が実在した場合、動き出しやすいでしょう?」
「趙大人も寝てしまうのか?」驚きを隠せない轟中尉の声が、少し大きくなる。
「お静かに。」早良中尉が注意を促す。「目立つ場所で、大イビキをかいていて頂かないと。」
「……言われてみれば。趙大人が寝ていると知れなければ、密偵は動く気が起きんだろうな。」
轟中尉は欺瞞工作に理解を示してから「それで、飛行機の周囲には誰を配置する心算なのだ? 大内さんか?」
「加山少佐や山内警部補、鮑隊長と袁副長、軍医殿に私などは宴席に出ていないと不味いでしょう。昼間、目立ちましたからね。オーストラリア軍の方に、アンブッシュはお任せします。東洋人にとって西洋人の顔は見分けが付き難いですから、数人が抜けていても分からないのではないでしょうか?」
早良中尉の説明は納得のいくものであったが、轟中尉はどうしても待ち伏せが失敗した時の事が気掛かりだった。
不審者が妨害工作を行おうとするのであれば、ランプを倒して偵察機を燃やそうとするだろう。
叩き壊したり機体を裂いたりすればスパイの存在が一目瞭然だから、スパイが仕事に取り掛かり易いように、人間の介在が無くとも偶然や自然の力で事故が起きても不思議が無いシチュエーションの演出としてランプを配しておくのだろうが、本当に事故が起きてしまうかも知れない。
また、機体に接近したスパイが、発見されて逃げ場無く追い詰められても、イタチの最後っ屁よろしく偵察機に向かってランプを投げつけるかも知れない。
何か事が有れば、御蔵島は94式偵察機一機を失ってしまう事になる。
その損失の可能性を、どう考えるのだろうか?
早良中尉の返答は明快だった。
「大津丸には、まだ残り6機の94式を積んだままですから、出発が少し遅れるだけに過ぎません。機長や搭乗員を失うのとは違って、機体の損失は耐えられるリスクでしかないのです。御蔵島まで戻れば焼失機は補充されるだけです。君を失う事は出来ないが、偵察機が一機燃えても必要経費と割り切って良いでしょう。」




