パラ1 理科実験準備室ごとタイムスリップしてしまった件
気が付いたら、古めかしい城塞都市の中に立っていた。
カッと照り付ける太陽の下、槍を持った武装兵が、不審そうな目でこっちを見ている。
都市の壁が煉瓦造りだから、日本の城でない事は直ぐに分かった。
周りでビックリしている人達が東洋系だし、中国語のような声が聞こえてくるから、ここは中国のどこかなのだと思う。
お笑い芸人の中には、デタラメな中国語やフランス語を話してみせて、意味は分からないが中国語やフランス語っぽい雰囲気が伝わってくるという芸をする人がいるけれど、中国語が分からない僕には、今聞こえてくる声は丁度そんな感じだ。
なんだか落ち着いているように見えるかもしれないけれど、今の僕は、驚きのあまり感覚がぶっ飛んでしまっているだけなのだ。
現に、左足の震えが止まらない。
狡すっからそうな男が目の前に立ち、何か話しかけてきたから、僕は回れ右して、出て来た扉に逃げ込んだ。
ほっとした事には、扉の中は理科実験準備室のままだった。
僕は後ろ手に扉の鍵を閉めると、背中を扉に預けたまま、床に座り込んだ。
「片山君、どうしたの?」
セーラー服にポニーテールの岸峰さんが、目を丸くして訊ねてくる。手にはメスフラスコと秤量瓶を持ったままだ。
僕が、いつの時代だか分からない(多分、何百年か前の)中国に行って、ここに再び戻って来るまでの間に要したのは、ほんの一瞬だったようだ。
なぜなら、僕は岸峰さんと一緒に、先ほど理科室からこの準備室に入ったのだけれど、その時に彼女が用意していたのが、メスフラスコと秤量瓶だったから。
文化祭を再来週に控えて、僕たちは休日にも関わらず、生物部が来場者に配布する葉脈標本作りをするために、朝から学校に来ていた。
予定集合時間の8時半になっても、部室に来たのが僕と彼女だけだったため、職員室で顧問の先生から理科室の鍵を預かり、準備を行おうとしていた処だったのだ。
部員は部での出し物を担当する傍ら、クラスごとの展示や模擬店の準備も行っているから、忙しいのはよく分かっている。
殊に3年生にとっては、最後の文化祭だから、クラスの絆を大切にしたい気持ちも理解出来る。
でも、物理部と無線部は合同して大きな実験をやるとかで、8時過ぎには色々な機材を抱えて、大挙して理科室の屋上に上っていた。
今日は予備実験だか機械の試運転らしいのだが、今年の物理部・無線部合同チームは、生物部員とは熱の入り方が違っている。
そんな事を考えながら、僕は準備室と理科室を隔てているドアに手をかけた。
中国からここに戻って来るまでの僕の行動はというと、薬包紙の箱と上皿天秤を持って、彼女より先に理科室へ戻ろうと扉の外に出ただけのはずだ。
だけど、今は手に何も持っていない。
薬包紙と上皿天秤は、中国に落として来てしまったみたいだ。
「えーっとね、岸峰さん。何だかよく分からないんだけど、理科室が中国になってる。」
僕の意味不明な説明に、彼女はニヤニヤ笑いながら「何、言ってるんだか。」と近づいて来た。
僕はゆっくりと立ち上がって、鍵を開けると扉の前を彼女に譲った。
「ドアは一気に開けないでね。ちょっとだけ開けて、覗いてみて。」
僕の忠告にも関わらず、彼女は片手に持っていた秤量瓶を僕に渡すと、空いた右手でいきなり大きく扉を開けた。
扉の前は、黒山の人だかりになっていた。
大勢の人達が、上皿天秤と薬包紙を手にして騒いでいる。
中には、先ほどの狡すっからそうな男と、槍を手にした武装兵も混じっている。
岸峰さんの左手から、メスフラスコが滑り落ち、パリンというガラスの割れる音が響いた。
群衆の目が一斉にこっちを向いたのを見て、岸峰さんは
「ニーハオ。」
と言って、手を振った。
群衆も戸惑いながら「ニーハオ。」と返す。
この後どうするのかなと思っていたら、彼女は「ツァイツェン。」と言って、静かに扉を閉め、鍵を掛けた。
「片山君、なにあれ?」
岸峰さんが、泣き笑いのような表情で、僕に訊ねる。
彼女は今になって腰が抜けたようで、先ほどの僕のように床に座り込んでいる。
「SFとかファンタジーだったら、よく有る話かもしれないけれど、なんだかサッパリ分からない。」
多分、物凄い騒ぎになる事件なのは、間違いのないところだが、何の説明も浮かばない。
「どうしようか?」
そんな事を聞かれても、出来る事は一つしか無い。
「先生に話そう。」
先生がその後、警察に連絡するのか、県や国に通報するのかは分からないけれど、この先どうなるのかは、僕らが悩んだところで仕方の無いことだ。
僕は腰を抜かした岸峰さんに肩を貸し、理科室側ではなく廊下に繋がる方の扉を開けた。
しかし扉の外は、小高い山の中腹の開けた場所になっていて、簡易舗装の道路と小さな建物がある。
眼下には大規模な港湾があり、フェリーやタンカー似た巨大な船が、規則正しく並んでいた。
「今度はなに?」
岸峰さんが、喘ぐようにつぶやく。
貸した肩を通じて、彼女の身体の震えが伝わってくる。
「別の所に出たみたいだね。学校の廊下じゃない事だけは確かだけど。」
驚きという感情は、絶対量が決まっていて、リミットを超えると感覚が麻痺してしまうのかもしれない。
僕はぼおっとしたまま、船を眺めていた。
だから、「タレカ!」という声が呼びかけて来るまで、僕は近くに人が居るのに気が付いていなかった。
そちらを振り向いてからやっと、映画に出て来る日本兵の恰好をした若者が、ライフルを構えて困惑顔で僕たちを見ているのを認識する事ができたのだった。
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登場人物
片山修一 大戸平高校2年 生物部 詰襟学生服の少年
岸峰純子 大戸平高校2年 生物部 セーラー服にポニーテールの正統派美少女
趙 狡すっからそうな中国人
水島 日本兵の恰好をした若者