01_03怪目_藍白の冬彦
まだ来ない。
いつもなら始業時間の30分前には到着しているはずだ。
あと5分。遅刻や病欠の連絡は来てないと話しているのを耳に挟んだ。学生ではあるまいし、連絡無しであってもこちらから連絡するまいと、思っていた岬だったがiPhoneを頻りに扱ってしまう。
どさ!
3分54秒前。
米噛から汗を滴らせて、息を切らせた待ち人が来たれり。
ジャケットの前は開き、乱れた首元も鎖骨が覗く程に肌けている。セットされた短髪が萎れ、今日も自分で選んだのだろう。光沢のある思色に蕉紅と白でハートの(ダサい)タイトなネクタイをしている。着崩すのが嫌いないつもの酒蒔が見れば眉間に皺の3本は間違い無い。
『おはようございます』
「お早う……。キミ、は……立花、だよね?」
『……酒蒔さん、後輩の顔忘れたんですか』
「いや……化粧変えた?良いね、それ」
『セクハラ』
酒蒔は落ちない顔でポケットを幾分か探すと、すぐに諦めて頬まで伝ってくる汗を袖で拭う。
釦に引っ掛かって、淡い水色の目薬が床に転がった。変な酒蒔さんに変な目薬。なかなかどうして、岬には双方とも可愛く見え、笑えた。
落ちた目薬など眼中にない酒蒔に岬が代わって拾うと、差し出す。妙な貼紙が眼を引いた。
『……回道薬局堂点眼薬?ここら辺では見ない薬局ですね』
「……」
『はい、どうぞ……って、酒蒔さん?』
「え? あぁ、……綺麗だ」
『ですね。水色の目薬なんて初めて見ましたよ』
「いや、立花が」
『……だから!セクハラです』
「おっと」
理解するまで一拍、必要だった。カァと岬の耳に体温が集まる。こんな冗談を言う人だったか? 否、違う、絶対違う。カラコンを変えたのだろうか、光の加減か……酒蒔の相貌に淡い水色、そうあれは……甕覗色の刹那的な瞬き。長く見てはいけない。視線をそらし、勢い余って胸に押し付けるように眼藥を渡す岬の手ごと、酒蒔は左手で受けた。薬指にはシルバーのシンプルな結婚指輪。出逢った頃から変わらない、私のものにはならない証が、粛々と只そこに在る。
切れ長の眼に映る私、酒蒔のCK ONEの香りが鼻を擽った。なんなんだ?
本能的に常の酒蒔ではないと悟りつつ、無理矢理手を振り払えないのは頼りにしている先輩だからだ。それだけ、それだけだ。暑い。
どちらともなく繋いだ手を離す。
どくん、どくん。
岬の父は海が好きだった。岬の父が岬の名前を決めた。
母は父の影を踏まぬように歩く女だった。だから私は岬たる女になった。
私は岬、彼は船。女は岬、男は船。私は待つしか出来ない。
通知音で我に帰れば、学生時代から続く年下の彼から珍しく連絡が来た。時計は既に昼休みの時刻を差している。『デートの御誘い?』と僅かに期待したが意味不明な内容だったので、返信はせずに閉じた。既読をつけてしまったので、仕事で忙しかったとでも言って帰ってから返信しよう。
「立花、そろそろ飯行くか」
『あ、はい!』
普段、昼は酒蒔が岬へ声をかけ、外へ食べに出る。酒蒔は毛ほども気にしていない。他愛ない会話を続けながら、忘れろと念ずれば念ずるほど、強く脳内に再生される酒蒔の指の感触。とにかくもう、暑い。なんだこれは?
なんなんだ?




