01_09怪目_藍の反芻
『よお、元気そうだな。お前ェさん』
「み……薬袋……さん」
声が掠れてまるで搾滓だ。
『乙姫も元気になったよ、ありがとう。良うやった』
薬袋は両手を差し出す。派手な女物の牡丹の羽織が逆光の中でやけにけばけばしく靡く。薬袋の繭に包まれた乙姫。開けた両手に鎮座する――……。
蝸牛?
ほの暗い花模様の殻を背負う以外は他の蝸牛と変わり無い。寧ろどこか変わっていてくれ、とさえ冬彦は願う。
くら、り。
冬彦は眩暈がした。俺は、こんな、蝸牛の、為に、俺は、あんな、茶番を。と、悔恨の腐った心根が胃から喉へと這い上がってくる。
「俺に……は、蝸牛に見える」
『畜生と一緒にすな。乙姫だっつってんだろうが。脳味噌に芭蕉詰めてんじゃねぇなら覚えろ』
――にゃあ――
『乙姫……、口ィ挟むな』
猫の声をした。だが、静まり返った深夜の此処には薬袋・俺・蝸牛しかいない。冬彦が聞いた猫の声は……。
蝸牛。キリスト教において自己の暗闇を愛する罪人の特別なシンボルとして描かれる。嘗て迷路として例えられた殻、蛞蝓に姿を変えたり性別を変える様が人間に似ていると評されることもある。それが、蝸牛。それが、……乙姫。
『セイミツって下衆に大事なもん持っていかれてな。名前を保てなくなるところだった。お前ェさんのお陰で、よう話すようになった』
ぞく、り。
悪寒と共に全身が粟立つ。本能が警鐘を鳴らす。聞くな。だというのに、眼が離せない。赫う薬袋の瞳が冬彦を攫む。
『名前ってェのは大事だ。えぇ?お前ェさんもよう知らない頃はミナイと言ったり、目薬と言ったりしたろ?それが今じゃどうだい』
ミナイと目薬。
薬袋と眼藥。
ぞく、り。
寒い。ずっと。膝が笑いを堪えきれない。彼の時。薬袋が俺を『アンタ』と呼んだ、あの時に観取するべきだった。薬袋の威圧に堪えかねて、冬彦は自身を抱く。
『前は乙姫も壱日に一回、鳴きゃァ良かった。今は何回も鳴けんだ。試しに聞いてみるかェ?何、簡単だ。端的に乙姫が《非》……まぁ、《厭だ》《違う》って答えそうなことを言って行きャいいんだ。そしたら赤子みたいに即座鳴くよ』
――にゃあ――
ほら、な?
に・た。
薬袋の口許が半月を造る。白い歯が覗き、犬歯が顔を出す。あれ、あんな歯……あっただろうか。
『お前ェさん、どうするね?えぇ、おい。お前が耀子を泣かせた時の罰は決めてなかったからねィ』
「ま、待ってくれ、俺が頼んだのは……」
『矢張、アンタ大した阿保だねェ』
「魔が差したんだ……まだ……まだやり直せる!」
『アンタァ、其の科白を何回云う気かねぇ』
もう時間だ。
泥犂の底から百鬼夜行の御出座しだよ。
ごぉごぉ。立っていられない程の烈しい風が吹く。どす黒い風だ。くろい、か ぜ。視界が晦冥に堕ちると同時に冬彦の記憶も此処で終わる。
風が収まる頃。薬袋の姿も、冬彦の姿もなかった。春がまだまだ遠い、冬の日。雲間無く広がる星空も、開く眼が無ければ陰翳のまま。悴む街灯が星の代替品として数回瞬いた。




