前
それはとうとう彼には言いそびれた言葉。
ずっと連れ添ってきたのに、なかなか言えなかった言葉。
昔から言いたかったのに、言うことがなかった言葉。
私は彼と結婚して何年も経った。
指折り数え、気付けば半世紀は経っているようだ。
孫、それにひ孫も何人も生まれた。
この前、彼は77歳の誕生日を迎えた。
手野医療大学の教授をしていた彼は、教え子たちに囲まれて、嬉しそうに笑っていた。
それを見た私も嬉しい。
夫婦で参加というのは、少なくとも彼の中では普通のことらしい。
そもそも、彼の教え子の中でも、夫婦参加が多かった。
だから、私も安心してその集まりに参加することができていた。
すまないね、感謝してるよと彼が言った。
あなたのためだからね、と私が返す。
そんな些細な日常。
タタン、ダタン、タタン、ダタンとリズミカルな電車の音が、心地よい。
だが、そんな楽しい時間は、終わりを迎える。
事のはじまりは、彼の咳だった。
最初は些細なことだ、よくある咳だと思っていたのに、毎日毎日繰り返すものだから、病院に行ってみたらと私が彼に話す。
すると、肺に影があるという話を聞いた。
影、といえば、思いつくのは結核か、あるいは……
医者の見立てでは、がんのようだ。
すぐに検査のために入院し、それから長い長い闘病生活が始まる。