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幽幸と普世

 風伯が現れると空が澄み渡るという。

 その日も伝説にあるとおり一片の雲すらなくなり、蒼穹ますます青く、日輪鮮やかに煌めいていた。それは黄昏時を過ぎてもなお止まず、夕陽はいつまでも空の端に燻ぶり続け、やがて星々に光が燈り始めた。

 風伯出現の日から三日である。

 今宵は空に光の帯引く天漢てんかんがよく見える。花街は、天空の河を映し込んだようにまぶしく生きやかに地上の闇を削る。

「風伯が瑞獣たぁよく云ったモンだねぇ、雲上人さまが時を空けずにお越しになるとは」

 我が世に春でも来たかのような笑みで箕翔庵のお内儀は云った。見世の灯りを点けて間もなく、先日の周墨の下人が書状を携えてやって来たのである。

 ほどなくして幽幸に声が掛かったのは云うまでもない。

「よくやったよ幽幸、雲上人さまがウチをご贔屓にしてくれりゃあ怖いもん無しだ。やっぱり宮仕えのお方は根っこからして違うんだろうね、突き出しのご祝儀だってよっくお心得なもんで、天下の箕翔庵は他の女郎屋とはワケが違うんだってお分かりなのさ」

 お内儀はいつになく鼻息が荒く興奮している。いくらお内儀が乗り気なところで、実際に柔肌を鬻ぐのは自分たち遊女なのだと幽幸は内心思ったが、老年に差し掛かった彼女の喜びようはわからないでもない。

 伝統ある天下の箕翔庵と云われたこの老舗が、不自然な突き出しを行なったり、客の細かな要望に応えて媚を売っていたのは、すべてこの喜びが意味するところなのである。

 つまり、商売がうまくいっていない、ということになる。絶世の美女であった先代傾国がある雲上人に身請けされてからというもの、箕翔庵の人気は翳りを見せた。

 貧民の救済と銘打って遊納水道への架橋という一大公共事業を起こしたまではいいものの、それによって押し寄せてきた大量の人足が香球の邑に与えた影響は大きかった。

 その一つに治安の悪化が挙げられる。香球の通衢とおりには目に見えて柄の悪い男達が昼間からたむろし、中には盗賊まがいの者達が徒党を組んで賭場を開いたりしていた。衛邏と呼ばれる一種の軍警察の取り締まりが年々厳しくなっているのは周知の事実である。

 そして影響は花街にも及ぶ。小金を持った日傭の人足が一斉に女を買ったため、下等な女郎屋である切見世などが繁盛し、反対に箕翔庵などの格式高い老舗が衰退していった。かつての馴染客は雰囲気の悪くなった花街から遠ざかり、一人また一人と箕翔庵から離れていったのである。

 その昔は箕翔庵という看板の重みを誇っていたお内儀も、見世の存続を天秤に掛けられては、こうもせせこましくならなければならないと思うと、幽幸は文句の一つも云えなくなる。それに何より、見世が無くなって困るのは誰よりも自分たち遊女なのだ。

「今夜、こないだのご大尽がいらっしゃる――粗相のないように、わかったね」

 幽幸は普世と海桃を前に並ばせ、きつく云い置いた。

「そうですかぁ……」海桃は歎息混じりに陰鬱さを吐き出した。

「金ってヤツはあるところにはあるもんさ。私らがおまんま食えんのも、そんな金を落としてくれる連中がいるからだ。文句云うんじゃないよ――それから緋花」

「はい」

「恋智とかいう例の優男も一緒だそうだ。またお前が相手することになるから、心に留めておくんだね」

「あの、それがあねさん」

 普世は意を決して昨夜の出来事を話した。

「何もなかった? お前、何で黙ってた」

「へぇ、あねさんがお内儀さんに怒られると思って……でも嘘を吐いていたわけじゃ」

「……」

 幽幸はむすっとした顔で黙り込み、華奢な顎に指を当てて何やら考え込んだ。

 ――それで今朝は有耶無耶な返事しかしなかったのか。

 明瞭と安堵している自分がいる。胸に残ったしこりは解けなかったが、手足が軽くなったような気がした。だが、その正体は未だにわからない。

「……あねさん?」普世は幽幸の顔を恐る恐る覗きこんだ。

「ああ、別に怒りゃしないさ。客の買った時間を客がどう使おうが勝手だからね。でもね緋花、今のうちにああいう男に抱かれといた方が――」

 云いながら幽幸は口が寒くなる。何を云っているのだろう、心にもないことを。まるで優しい姉女郎ではないか。そう思うと、むかっ腹が立ってきた。

「ああもう、とにかくそういうことだから、このことはもう口にすんじゃないよ」

 普世と海桃は揃ってお辞儀をし、大部屋に戻った。

 幽幸は無意識に親指の爪を噛む。先代傾国に厳しく叱られた癖である。

 ――それにしてもあの男……嫌な予感がするねェ。

 昼見世も終わり、日がとっぷり暮れると花街を照らす燈篭が一斉に光の列をなした。

 お内儀は今か今かと周墨の到着を待っていたが、大門の閉まる少し前に若い使いが到着し、やがて周墨一行がゆるりとやって来た。

 見世の者が総出で迎えると、上機嫌に肩を揺らした周墨は小男と恋智を連れて座敷に這入った。すでに酒宴の支度は調っており、ゆったりと上座に腰を下ろして小男と談笑をしている。昨夜から恋智とも心安くなったようで、若武者然として遠慮がちな恋智にしきりに無礼講を勧めていた。

「幽幸を、早く」

 よほど彼女が気に入ったのか、昨夜とは違って周墨は幽幸の登場を急かし、姉妹遊女が揃って宴席に現れた。

「周墨様のお帰り、首を長ォして待っておりました」

 幽幸ら三人は三つ指ついて同時に礼をした。

 酒宴が始まると須臾は小男の仕切りで事が進み、膳の用意から酒の種類まで事細かに云い付けていた。天性の木っ端者だと、幽幸は酒盃を呷りながら思ったが、こういう男だからこそこの場にいるのだろうと気付いた。工師座の者だというが、指先ではなく渡りの巧みばかりが目に付く。

 それはさて置いても、気になるのは恋智である。相変わらず涼しい顔で周墨の話に相槌を打っていた。

「どうだ恋智、儂に仕えぬか? 其処許のような男は古今類を見ん。食客としてでも来い」

 周墨は機嫌の良い赤ら顔で云った。恋智への気に入りようを知った小男は、これはこれはお戯れを、とはぐらかし始める。当の恋智も愛想笑いに留めるだけである。

「はは、拙者など非才の身に過ぎませぬ。工師の方々に拾われなければ飢えていたことでしょう。こうして周墨様にご同席させて戴くだけでも勿体ないことで御座います」

「何を云う、卑賤の身であろうと、その腕っぷしがあれば栄達も望めぬことではない。儂がよきに取り計らってやろうて」

 恋智は畏まってその場に額を突いた。

「勿体なきお言葉。なれど、いちど影に身を置いた者は、終生逃れられぬ命運に御座います。故に、日に陰に周墨様をお助けする所存に御座る」

 顔を伏したまま、恋智は小男に目配せをした。すると小男は懐から一通の書状を取り出し、恭しく周墨に差し出す。

「これが――次の者でございます」

「ほう」

 周墨の眉が僅かに動いた。そして書状に目を通すと、小男が説明を挟む。

「その者、昨年に母を亡くして以来身寄りなく、天涯孤独――また、香球に入ったのは十日ほど前のことでして……」

 周墨は手を翳し、小男の言葉を遮った。みなまで云うな、ということであろう。

「して、これは?」

「はっ、この恋智めが」

 満足げに周墨は膝を叩き、破顔した。

「よかろう、事後、須臾しばらく景南けいなんに潜むがよい。わし食邑しょくゆうじゃ。家宰かさいには伝えておく。夏官、それから秋官にも手配しておこう。なあに、たとい王であろうと手出しはさせん。もっとも、今の王はもう死んだも同然であろうがのう……さて、次に玉座を温めるのは誰になるか」

 幽幸や普世がいるのを忘れ、周墨は上機嫌に粘りのある笑みを浮かべた。他国と比べて朱音は諫言の通りやすい国と云われるが、この言葉は不吉な予言に他ならない。にも関わらず小男は確信を得たように安堵の息を漏らし、あらかじめ用意していた包みを周墨に差し出した。

「まずは当座のモノでございます。何かと物入りでしょうし、お忙しい周墨さまの羽休めにでもと思いまして私共からご用意させていただきました」

 周墨は汚物にでも触れるように包みを解くが、中身の漆の箱を見ると僅かに相を崩した。紛れもなく中身は金である。

 幽幸はここに来てようやく理解に及んだ――要するに、癒着である。

 ふと普世の顔を覗くと、やはり呆気に取られた顔をしていた。

「百ほどここに……」

 ――その時である。

「周墨さま、今の王の御名は何と申されましょうか」

 と、恋智がおよそこの場には似つかわしくない澄んだ声で問いを発した。


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