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普世と風伯の国

「あんなぁ、わたし悔しいんよ。あんまり悔しゅうて、泣けてくるわ――わたしはホントのホントに阿呆の子やわ」

 そう云って海桃が差し出したものは数枚の半紙である。拙い文字で何やら言葉を書きなぐり、それを見て泣いていた。

「え?」

「昨日のお客さんなぁ、難しい話ばかりをずっとしたはる。グンバツがどうとかダイビョウがどうとか、カイハイノエキとか何やらかんやらもう頭が痛うなってな、あらためてわたしの頭の悪さを思い知らされたらもう……かなんわ」

「ふへっ」

 普世は無用の心配をしていたのかと思わず吹き出した。海桃は自分で云うとおり、頭のいい方ではない。普世とは反対に感性を必要とする芸事は達者なものだったが、書物を読み知識を蓄えるとなるとさっぱりだった。そのため、客の話した事柄でわからないことがあれば後で半紙に書きとめ、夜中にこっそり普世に訊ねていた。その半紙も今では分厚い束になっている。

「普世ちゃん、北方グンバツってなんやのん?」

 海桃は以前と変わらない口振りで云った。突き出しを終えた振袖は大なり小なり変わるものである。それが花街で生きるためにどう転ぶかはそれぞれではあるが。

「ううん……何から説明したらいいんだろ」

 普世は云いながら新しい半紙に筆を走らせた。描いたのは朱音国の大まかな地図と、王都香球の位置である。朱音の国土はほぼ横向きの楕円形をしており、香球は南岸部のちょうど中心にある。

「まず、国は大きく十に分けられているの。北から培陵ばいりょう高夷荊こういけい、修理、達線たっせん望剣ぼうけん剣座けんざ剣肯けんこう衛停えいてい運武うんむ――っていう九つの『方』と、御天領で十個。北方ほっぽうっていうのは知ってのとおり培陵から達線までの地域のこと」

「うんうん、そこまでは大体わかる。ゆうても地名を空で云うなんてでけんけどな。わたしがよう云えるんは香球かきゅうと衛停ぐらいのもん――話それたなぁ、で、グンバツて?」

「ええっと、まだ詳しく説明できるほど勉強してないんだけど、大まかに云えば軍人さんの集団のこと、かなあ」

「ああっ、グンバツのグンて軍人さんの軍かァ――得心いきよったわ。で、バツて?」

「派閥の閥。……多分だけど、王様の命令を無視しちゃって勝手なことをする人達だと思う。だから軍閥――」

「悪いお人らなん?」

 普世は自分が聞き知っている北方軍閥についての噂を思い返した。

 そもそも朱音の北部は南部に比べ貧しい地域であり、紛争や暴動が絶えなかった。そのため方師による治安維持が活性化し、彼らの中から統治行為を行なう者が現れ始めた。そして北部のあちこちに小さな軍閥が割拠することになる。これを重く見た当時の王が鎮圧に派遣したのが、北方軍閥の渺将軍の父『裡純右りじゅんゆう』であり、皮肉なことに彼が北方軍閥の母体を創った。

 王命を受けた裡純右が、何故北方軍閥の母体を作ったのか普世は知らないが、巷間の噂では北部の窮状を嘆いた末とも、野心を起こしたとも云われている。

「悪い――かどうかはわかんないや」

「そっかぁ、普世ちゃんでもわからんことがあったとは。じゃあダイビョウやらカイハイノエキはわかる? あのお客さん、わたしがわからんゆうたらエラい嬉しそうな顔してなぁ、遊女はこれやないとアカンゆうて、あねさんや傾国さんのこと悪く云うんよ。もうどんな顔していいかわからんかったわ」

 両脚を外に折り曲げ壁に寄りかかっては小さく溜息を吐く姿は、まったく普段どおりの海桃である。突き出しを終えて変わってしまうのではないかと不安に思ったが、同じ牀蓐の中で得意げな小男の話に苦い顔をしている海桃を想像すると、何故だか可笑しくなった。自分は怖くて仕方なかったというのに、相手が恋智でなければどんな顔をしていたかわからない。そう考えると、この素朴な顔立ちの幼馴染はとても強いのだとわかる。

 否、本人はそんなことを自覚していないのだろうが、海桃が普世を羨ましがるように普世もまた海桃を羨ましいと思っていた。

「遊女らしいってどういうことやろね……」

 海桃はふとそんなことを漏らした。普世はその顔つきに自分とは違う、女の顔を垣間見た気がした。海桃はもう生娘ではないのだ。

「――遊女らしいってのがあるんやったら、わたしにはわたしらしい生き方があったんかな。海桃らしいやのうて、『かい』らしい生き方が」

「海ちゃんらしい」

 思えば、遊女以外の海桃を普世は知らないことになる。それはまた、遊女以外の普世を海桃は知らないことでもある。

「もしも、もしもやで普世ちゃん。わたしが違う両親に生まれてたら、ここにはおらんかったと思うんよ。でもそれはわたしやのうて、わたしとは別の誰かさんや。てェことは、やっぱりここにいるわたしこそがわたしで、遊女のわたしが一番わたしらしいのかもしれん――でもなぁ、それって、何か悲しいなぁ。悲しいわぁ……わたしには、何かやりたいことがあったんやろか。それとも神様はわたしに遊女をやれてゆうたんやろか」

 海桃は遠い沖でも眺めるような目つきで、何処とはなく視線を揺らした。零れ落ちた耳元の髪をかき上げる仕種が妙に艶かしい。

 海桃も普世と同じく人買いに連れられ大門をくぐった。泣く泣く家族と引き離されたという。すべては貧しさがそうさせたのだと、童女だった海桃が拙い言葉で話したのを普世は憶えている。

 ――同じモン同士、仲良くしよなぁ。

 幼い海桃の言葉が耳元で蘇る。しかし、普世は海桃とは違う。自分の意志で花街に来たのだと自覚している。もし、自分らしい生き方があるのだとしたら、それは海桃以上にこの花街で生きる遊女なのだろうと普世は想う。

 ――お前はイイ子にしていればいいの。

 母はそう云った。母にしてみればまさしく遊女はイイ子ではない。だが、これが自分らしいと思えば、やはりこうするしかなかったのだとも想う。イイ子にしていても、兄は帰ってこなかったのだから。

「普世ちゃんは遊女てゆうより、学者さんの方が似合うてると思うなぁ。いや、ガッコのおセンセイでもええわぁ」

「そうかなあ」

 それもいい。だが海桃の言葉に従うなら、やはりそれは普世であって普世ではない。

「でもなぁ、わたしなぁ、やっぱり一番は普世ちゃんがお母ちゃんになってくれたらええ思うわ。わたしみたいなようでけん子ォも、そやったら安心やもん」

 いつの間にか海桃の素朴な笑顔が戻っていた。

 普世はこの屈託のない笑みが大好きだった。

「お前達、いつまで遊んでるんだ。支度は出来たのかい――ん?」

 そこへ現れたのは昼見世の支度を終えた幽幸である。目ざとく海桃の手元にあった半紙を見つけ、有無を云わさず抜き取った。綺麗な字ではなかったが、海桃と普世の手習師匠は他でもない彼女である。文面の内容など一目瞭然だった。

「こんなものを書くために文字を教えたわけじゃあないんだがね――まったく……緋花、お前が海桃に余計なことを教えるからいけないんだ。賢しい入れ知恵をしてること、気付いていないとでも思ったのかい?」

「いえ、そんなんじゃ」

 普世は心底悪びれたように俯く。が、幽幸は険しい表情で射竦める。昨夜から胸に残る得体の知れぬもやもやが彼女を苛立たせていた。普世を見るとますます苛立つ。

 その時である。花街の往来を血相変えて走ってきた番頭が、帰ってくるなり見世中に響く大声で何やら叫んだ。

 周章てた様子で駆け回り、普世のいた大部屋を通り抜ける。

「出たぞ! 沖から風の神が出た! こっちに向かってるそうだ!」

 普世と海桃は眼を合わせ、同じく大部屋にいた他の若い遊女達も顔を見合わせた。

「普世ちゃん、風の神やてっ」

「うう……うんっ」

 二人の妹女郎が急にそわそわし始めたのを見て、幽幸の顔は余計険しくなる。

「見に行きたいのかい? まだ話は終わってないんだがね――風の神ぐらいでがたがたと……フンッ」

 とは云いつつも、内心では幽幸も気になっていた。風の神こと風伯は、海洋国家朱音の崇める神獣である。最後にその姿を現したのは五十年ほど前のことであるから、国民の多くが見たことがないことになる。

「行かせておあげよ、幽幸」

 と、そこに助け舟を出したのは誰あろう傾国の秋麗だった。振袖や童女達の大部屋に傾国が来ることは滅多にない。秋麗はすっかり整った髪と薄化粧、そして平素でも優雅な萌葱色の紬を纏っていた。傾国という伝統の重みがそうさせるのか、さすがにその美しさや所作の流麗さは図抜けている。

「秋麗……あんたの口出しすることじゃないだろう」

 幽幸は如何にも飽いた様子で云った。この二人は普世と海桃同様、先代傾国お付きの妹女郎だった。

「まぁまぁ――ね、緋花に海桃。早く野次馬に行きたいんでしょう?」

 普世と海桃が返答に詰まってもじもじしていると、あっ、と秋麗は笑った。顔は平静を保っていても、普世の指先はじれったいとばかりに小さく動いているのである。普世の性格をよく知っている秋麗は、やはり偽れぬか、と欲しがる童を許すような目で云った。

「ふふ、こんな機会は滅多にないからねェ。いいよ、行っておいで。お内儀さんには妾から云っておくから。ただし大門からは出ちゃ駄目よ? それだけは約束して頂戴」

 二人に優しく微笑むと、秋麗はゆっくり頷いた。

「ちょっとアンタ――」

 幽幸が膝を乗り出すと、秋麗はその細い人差し指を艶やかな唇に当てた。

 普世と海桃の目線が幽幸に移る。返事を待つその目には訴えかけるような強さがあり、うんざりした幽幸は追い払うような手付きで、さっさとお行き、と云った。ぱっと表情の明るくなった普世と海桃は素早く深く頭を下げ、手を繋ぎ小走りで去っていった。

「はっ……甘いんじゃないの?」

 二人の背中を眩しそうに見つめる秋麗に、疲れた顔の幽幸が云う。

「――いいじゃない、こんな時ぐらい。海桃はともかく、緋花の邪魔をしちゃ可哀想だと思うわ。だってあの子、私達とは違うんですもの」

「違う? どう違うって云うのさ」

 秋麗は童女のように真っ直ぐ幽幸に微笑みかけた。

「わっからん――でも、少なくとも緋花はいつでも本気だもの。目の前で餌を取り上げられた子犬のような顔をするに決まってるわ」

「本気ねぇ……」

 幽幸は正体の知れぬ胸のしこりが一層大きくなっていくのを感じた。

「で、何であんたが此処にいるのさ?」

「あたしも幽幸と一緒に野次馬しようと思って」

 秋麗は澄んだ笑みで答える。幽幸は恥ずかしいようなばつが悪いような心地になった。


 さて、心の赴くままに箕翔庵を飛び出した二人は、野次馬で騒然としている往来を縫うように走った。他の遊女屋の軒下や二階の格子窓からいくつもの顔が覗く。

 最初は海桃が先頭を切って走っていたが、いつの間にか普世が海桃の手を引っ張るようになっていた。気持ちがどんどん逸っていくのがわかる。

 やがて大門前に辿り着くと、やはり人で賑わっていた。衆目は一様に南方の海を向き、普世と海桃も同じように見ようとするも、大人達の背に阻まれてうまく見ることが出来ない。

「はぁん……なかなか見れんなぁ、普世ちゃん」

「ああん――まいったなあ」

 二人はうんうん唸りながら爪先立ちをしたり、飛び跳ねたりした。

 その刹那――来たぞ! という男の声が上がった。

「あ――」

 ふッ――と普世の前髪が揺れた。風だ。澄んだ風である。

 その風に導かれるように視線を頭上高くに持ち上げると、空一面を覆っていた薄い雲が鋏を入れた絹のように左右に裂け始めていた。裂けた雲から眩しい碧天が現れる。

「来る……」

 不意に突風が起こった。砂埃を巻き上げ、大人達は腕で顔を覆った。

 風はびゅんびゅんと唸り声を上げ、ようやく通り過ぎたと思った頃に、雲と空で出来た蒼の道を悠々と飛ぶ風伯の姿があった。

 遠目にもわかる美しさと気高さである。細長い身体は黄味がかった白毛で覆われ、腹の部分に緑青の鱗が見える。四本の鋭い足先には、小さな翼とも毛の塊ともつかぬものが風になびいていた。角はなく、尻尾の先まで風そのものといった様子である。

「あれが……風伯」

 普世は魅せられ、呟いた。

 何物にも縛られることのない風の神――風伯は地上の民など気にかけるふうもなく、龍の棲まうという落山の方へ消えていった。


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