普世と恋智
奥の間にはすでに蒲団が敷かれていた。普世は足早に閨房の端に立ててある衝立の向こうに行き、燭台の灯心に震える指先で火を点けた。薄橙の光が閨房に満ちるも四方の隅には行き届かず、まるで円い部屋の中にいるようである。
揺れる灯火に視線を焼いていた普世は衝立の向こうで肩を縮ませ、いつ名前を呼ばれるのかと怯えていた。
名を呼ばれ、床に赴き、口を吸われるだろうか――その後は姉女郎が教えてくれたように十人十色であろうが、何はともあれ振りを付けると客は大層悦ぶのだと聞いた。いまいちその振りとやらが理解出来ぬが、兎に角、痛くなければいいと普世は思う。
「窓を開けてもよろしいか?」
いつの間にか恋智は普世の背後にいた。燭台のすぐ傍にある丸窓に手を掛けている。
「はっ……ど……どうぞ」
恋智が窓を開けると、閨房に星明りが差し込む。鋭い星辰の光は燭光の淡い色と反発しながらも入り混じり、何とも云えぬ明るみをもたらした。普世は光から逃れるようにますます縮こまる。
「抱かれるのは……初めてですか」
恋智はさらりと云った。引き締まった身体は線の細さにも見え、優男のようにも思えるが、口調は武張った若武者然としている。とはいえ柔らかい声調はぶかぶかの鎧を着せられた子供を想起させた。歳は普世とは十も違うのであろうが、余程の童顔である。
「へ、へぃ」
声が萎んでゆく。この日が来ることはわかっていたが、いざとなると竦んでしまうものだ。自分がこうなのだから、海桃はさぞかし怯えていることだろう――普世は気弱な親友を想った。
「海ちゃん――海桃は優しくされてますでしょうか」
恋智はこの期に及んで他人の心配をする緋花が可笑しくなった。
「なにも取って喰われるわけではありません――それより、貴女は怖くないのですか」
「そりゃあ……」
普世は恐る恐る振り返り、恋智の顔を覗いた。開け放った窓から星を眺めている。階下の往来から賑やかな声と灯籠の明かり、そして夜でも冷えぬ人いきれが漂ってくる。恋智の薄い眼は星を捉えて離さず、花街の喧騒はおろか普世さえも見ていないようだった。
「遊女はみな偽りばかりを述べると聞き及んでいましたが、いやはや貴女は正直な人だ。ご安心召されよ。拙者にその気はありません」
「えっ……」普世は呆気に取られた。
「今日やるべきことはすべて果たしました。貴女を抱くのは慮外のことです」
そう云って恋智は夜空を指し示し、見てください、と云った。
「香球から見る星空は、少し曇って見えます。それに比べて北部の星は同じ空でも澄み渡っている――といっても、気のせいだとよく云われるのでありますが」
普世は膝で恋智ににじり寄り、先ほどまで怯えていたことも忘れて夜空に見入った。娯楽のない寒村では星を見ることが楽しみの一つだった。次兄の嘉丙に星の見方を教わりながら飽きもせずによく眺めたものだ。
不意に故郷の広化郷を憶い出し、普世は懐かしさと侘しさを眼の奥に感じた。
「そうかもしれません……」
「お故郷は?」
「へぇ、剣座方の北陰――あっ」
そこまで云って普世は口を押さえる。花街の遊女はみな香球の生まれ、自分の生まれ故郷を客に偽ることはご法度であった。
「やはり正直なお人だ。このことは他言無用――ですね」
「すみません」
「それにしても、剣座方と云えば聖亀峰を戴く土地だ、拙者の故郷の修理方とはお隣同士――同じ空を見ていたのやもしれません」
「同じ空」
普世は丸窓からもういちど夜空を見上げた。箕翔庵に売られてからというものあらゆる書物を読み漁り、世事には多少詳しくなった。星の名前もその一つである。今では兄よりも多くを知っていることだろう。しかし、こうして夜空を見ながら星の海に遊んだことを普世は忘れないだろうと思う。
すると自然に腕が上がり、白い指を伸ばした。
「橙色に光るあれが飛熊の星、その斜め上には剣狼の星……その下が風の神風伯を象った星の群れ……私は……香球の空も好きです。兄と見たあの空も、あねさんや海ちゃんと見たあの空も、それからこうして恋智さんと見る空も……みんな同じ空です」
普世は初めて恋智を正面から見据えた。不思議と恐怖はない。むしろ親しみさえ湧いてくる。同じ夜空を見ている人を、どうして嫌いになれようか。
「私はそう想います」
客との同衾を終えた遊女は大門まで見送るのが作法であったが、それはかつての花街の話で、今では余程に好いた客でなければ見送りはしていない。特定の遊女と褥を共にし続ける客を馴染みと呼ぶが、その馴染みの中でも見送りを受ける者はごく僅かである。
が、箕翔庵のお内儀は翌朝の見送りを幽幸に云い付けていた。これまた妙と云えば妙な話である。花袖と振袖二人が揃って見送りなど、他の見世でもまず見られない。
――天下の箕翔庵がコレとは世知辛いねェ、まったく……。
幽幸は周墨と談笑を交わしながら心の裡で呟く。
そして周墨一行を大門まで見送ると、生あくびをしながらとぼとぼと帰路についた。
妹女郎の二つの顔を見比べると、正反対の表情をしていた。目元に暗鬱な陰を作り、丸い小鼻をますます低くしている海桃と、何事もなかったようにけろりと朝陽を浴びる普世である。
幽幸にはこれだけで昨夜の様子がわかるというものだが、普世の足取りの軽さが不可解と云えば不可解である。
「緋花、あの男はどうだったんだい? 優しくしてくれたのかい」
と、訊ねるも、
「はあ……いいお人でした」
と、いまいち的を得ない返事が返ってくるだけである。根掘り葉掘り訊ねるのも野暮であろうと幽幸はそれ以上を求めなかったが、果たしてこの胸のしこりは何であろうか。花街の非情に泣けばいいと想ってはいた。されど、いざその段になると母心でも湧いたのか急に惜しくなった。
そして今、肩透かしを食ったような奇妙な倦怠感に襲われている。これは昨夜の周墨の執拗さだけではあるまい。どちらともつかぬ普世の表情に、心がどう対処していいかわからないのである。
「ま、とりあえず二度寝だね」
そう云って幽幸は少ない往来の中、隠しもせずに大きなあくびを一つ拵えた。
普世が目覚めたのは正中の少し前のことである。他の遊女ものそのそと起き出し、腹ごしらえや湯浴みなどをして昼見世の準備を済ませる。この時ばかりは花の邑とはいえ、生活感の溢れた雑多な声で溢れかえった。
二度寝の浅かった普世はいち早く支度を済ませ、忙しい厨房を通り過ぎては若い遊女が集まる大部屋に戻った。
大部屋の隅で背を向けて蹲っているのは髪も乱れたままの海桃である。彼女の小さな背中がまるで昨夜のことを物語っているようで、些か房を幽くしていた。童女や他の振袖も昨夜が突き出しだった海桃の事情を知っているので、無闇に声を掛けることはない。
そんな中、普世は真っ直ぐ海桃のもとに行き、そっと肩に手を置いた。
「海ちゃん」
「普世ちゃあん」
振り向いた海桃の眼は赤く、鼻先もほんのり赤味を帯びていた。あまりの辛さに泣き明かしたのだろうか。普世の心は痛む――が、海桃は思いがけぬことを云った。