普世、客を取る
花街のぐるりを囲む外郭は一種の城壁である。
内と外とをきっちり隔て、一歩でも中に這入れば外界の常識は通じない。唯一の出入り口である大門は、男を呑み込んでは精気を吸い取って吐き出す、まさに魔物の口であった。
花街の中では客の素性は一切問わない。客は客であり、それ以上でも以下でもない。
むろん遊女もまた遊女でしかない。どんな腹から生まれ、どんな井戸の水を啜ったかなど関係のないことだ。それは如何に貧しい農村の出であろうと、人買いに連れ廻されるうちに、みな一様に香球の生まれになる。すなわち、そういうことである。
忠衛宮の高官だという例の客が奥座敷に通されたのを知った幽幸は、ゆるゆると童女に手伝わせながら仕掛けを纏い始めた。ゆっくりと時間をかけ、客の興を買うのである。その間は半人前の振袖――ここでは緋花と海桃が客の相手をする。主役は飽く迄も花袖の幽幸であり、客も承知で彼女を待つ。もてなす側ともてなされる側、双方の理解と作法があって初めて遊郭の夜は更ける。
色を売る商売ではあるが、遊女達はそれぞれの胸に矜持を持っている。今宵の客が自分を選んだことに仄かな憤りを感じたのは、まさにそういった矜持からであり、また、これから此処で行なわれる酒宴とやらが他の人間には知られたくないモノであることも幽幸は感づいていた。
――此処は花街だ。いろ艶やかな花の邑さ。生臭い話は余所でやっとくれってんだ。
心の裡で啖呵を切るも、細面には一切出さない幽幸はさすが花袖と云えた。
「幽幸に、御座りまする」
小枝のような指で静かに戸を開け、恭しく礼をするとそこには三人の客がいた。上座で酒盃を呷り、幽幸の姿を認めた途端にいやらしく相を崩した太った男と、その正面で腰を浮かせながら必死に座を盛り上げようとしている中年の小男――そして一人の若者である。
幽幸は熟練の遊女であったが、その視線は正客であろう太った男を素通りして、如何にも場違いな若者の姿に止まった。
薄い顔の造りの中に涼しげな口元と微笑を湛えた切れ長の目。無造作に束ねられた髪は粗野ではあったが、卑しさは感じられぬ。着物の胸元を緩ませ野放図な印象を抱かせるが、端正な居住まいは若者の決して濁らぬ心珠を表しているようである。
幽幸はほんの僅かな時間にそんな感想を持った。多くの男達を見てきた幽幸は己の眼の良さを自負しているが、この時ばかりは曇ったかとさえ思った。
この男は、このような場所に来る人間ではない。
世の中には二種類の人間がいる――幸せな者とそうでない者だ。
花街に来る男はみな女を買いに来るが、その胸中は様々である。己の欲望を満たす者、男としての格を保とうとする者、そして空虚な心を埋めに来る者――むろん、みながみな充足した夜を送っているわけではなかろう。しかし、幽幸は花街に来る男は誰一人の例外なく幸せだと思っている。
――男は吐き出すだけ吐き出して、あとは知らん顔。そいつがどんな人生送っていようと、あの瞬間はみんな同じ顔をしやがる。そんな奴らが何を云おうと、あたいは信じてやらねェよ。
以前、幽幸は普世にそんなことを語った。思わず口走ってしまった本心には、生まれた故郷の訛りが浮き出た。
――それに比べて女はどうだい。男の自尊心を受け止めるだけで、何もありゃしない。
道理のわからぬ普世はただただ困り顔をするばかりであった。
そんな普世も今夜、突き出しを迎える。座敷をざっと見回し、三人の中の誰に抱かれるのだろうと想像すると、何故だか不愉快になった。
幸福の娘である普世もついに花街の夜に染まる。果たして、それが貞しいことなのかどうか。あれほど普世の泣き顔を望んでいた幽幸だったが、此処に来てやけに空恐ろしくなった。自分で自分がわからない。
「花袖のご登場だ。ささ、こちらに参られよ」
中年の小男は正客である太った男の傍らを示した。
お内儀の話によると、太った男――周墨は冬官という役人らしい。冬官とは土地や民事、そして土木の公務を司る役所で、その中でもかなりの位置にいるという。一方の小男は遊納水道への架橋工事を請け負う工師座の人間である。
今回、史上空前の土木工事とあって多くの人足が工役にあたった。北から南まで、それこそ全国から男達がやって来た。主上の掲げるお題目は貧民の救済であったが、このような場所に役人と座の人間が一緒にいていいはずがない。
このことを理解しているのかいないのか、普世と海桃は緊張しきった手で酒を注ぐ。
――お内儀も何でこんな連中に。
おかしな話だと幽幸は思う。格式高い箕翔庵は遊女の格を重んじて、その突き出しを簡単に済ませることは決してなかった。にも関わらず、一度に二人も、さらには取って付けたような客なんかに――。
「ほれ幽幸、ぼーっとしてないで周墨さまにお酌を――すみませんねェ周墨さま、いくら天下の箕翔庵とはいえ、それはもう昔の話。周墨さまのような雲上人に畏まっておるのでしょう。なあ幽幸?」
小男は右に左に顔を動かす。まるで鶏だと幽幸は思ったが、すかさず笑みを作った。
「うふふ、見抜かれてしまいましたか。まだまだ磨きが足らないみたいですねェ」
そしてそっと周墨の膝頭に手を触れる。こういった権威の傘を振りかざす輩には、とにかく下手に出ればいい。そうしておいてちょいと肌を見せれば男など意のままだ。
案の定、周墨は破顔した。
「かっはっは、あまり幽幸殿を苛めるでない。幽幸殿への言葉は儂への言葉だと思え」
やっぱり同じだ――下手に出る女を己の所有物として扱いたがる。まるで愛らしい子犬を庇護するように。厭らしいのはそれを優しさと勘違いしているところだ。幽幸はそう思う。
満足したのか周墨は上機嫌で正面に坐していた若者を見やった。
「それで、その者は――?」
幽幸が来る前の話の続きであろうか、周墨とその若者は初対面のようである。小男が軽く肩を小突くと若者は深々と一礼した。
「この男は恋智と申すもので、腕っぷしの強さから先日雇い入れたばかりで」
「ほう、腕が――如何ほどのものか?」
「へえ、図体ばかりの巨漢を五人ほどまとめて。これだけの腕があれば必ずや周墨さまのお力になるものと思い、引き合わせた次第で」
周墨は恋智の精悍な身体つきを眺め、納得したのか二度ばかり頷いた。
「恋智とやら、そちの生まれは何処だ?」
「はい――拙者の生まれは、修理方の瑚狼鎮にございます」
「修理方……北であるな」
「瑚狼鎮は渺将軍の生家がある地でもあります」
周墨の眉がぴくりと動いた。渺将軍とは朱音国の北部一円に勢力を持つ『北方軍閥』の首魁である。今や王に匹敵するほどの権力を握り、彼の名を知らぬ者はいない。昨今では巷間において、大規模な内乱が起こるのではないか、と頻繁に噂されている。
事実、北方軍閥の兵力は王師に勝りつつあった。
「北方軍閥か……最近はおとなしいようだが、王がこのまま手を拱いておれば、いずれは獲って変わられよう」
幽幸は耳を疑った。宮中の高官ともあろう者がよもやそんなことを口にしようとは。
普世を盗み見ると、うまく知識の虫を抑え込んでいるようである。恋智の傍らに侍っているが、会話の向かう先を極力見ないように努めている。と、幽幸は普世ばかりを気にしている自分に気付いた。
「緋花さん、お身体の具合でも?」
すると、恋智も同様に普世のぎこちなさに気付いていた。やはりこの男は何かが違う――幽幸はそう思った。
「あれまぁ緋花、具合が悪かったのかい? ここは引かせてもらおうかね?」
幽幸はさも妹女郎を思いやるように云ったが、このまま突き出しをして襤褸を出されてもかなわない、と頭で考えていた。されど普世は首を横に振る。
「平気ですあねさん。こうしてみなさんにお越しいただいたのに、自分だけ戻るなんて」
「……そうかい、平気ならいいんだよ」
幽幸は心の中で舌打ちした――せっかく気を利かせてやったというのに、まったく莫迦な娘だよ。――正体のわからぬ苛立ちを覚える。
やがて宴もたけなわとなり、夜も更けたと見え、それぞれが牀蓐に這入る段となる。
幽幸は正客の周墨と決まっていたが、普世と海桃がどちらに行くか定まらぬ。
と、恋智がやおら立ち上がり、普世の手を取った。
「参りましょうか」