普世、怯える
香球の夜は長い。
昼見世を終えた遊郭は、これから一日が始まるとばかりに忙しなく動き出す。雨でも降ろうものなら割合のんびり出来たものだが、今日はからりと晴れた星月夜だった。
衣架に掛けておいた仕掛けを、前髪を切り揃えた童女に取らせ、伏籠に被せて衣香を焚き染める間、緋毛氈を敷いた鏡台の前で幽幸は己の顔をまじまじと眺めていた。
――名前のとおり、幸の薄い顔をしている。
白粉を砦のように塗り固め、鋭い紅を引いて心を武装していても、やはり心性は隠せぬものだと思う。そもそも『幽幸』という名は初めて箕翔庵に来た早々につけられたものだ。泣きもせず、今にも散り逝きそうな顔を見て、お内儀はこう云った。
「泣かないのは偉いが、それにしても幸の薄い娘だねェ……」
しかし、幽幸は傾国とまではいかぬも花袖になった。花街で生きる遊女達には厳しく決まった階級があり、大まかに上から――傾国、花袖、都袖、色袖、呼出……というように序列がある。傾国に次ぐ花袖ともなれば遊女としては立派なものだ。
幽幸はふと、普世が箕翔庵に来た時のことを思い出した。
お付きの童女として幽幸のもとに来た普世は、自分と同じく泣いていなかった。往々にして遊郭に売られてくる娘や、行き場を失くして自らを売りに来る女は我が身の不幸を嘆くものだが、普世は違ったのである。
幽幸は思わず胸の裡を言葉にしてしまった。
「お前、どうして泣かないんだい?」
普世は言葉の意味がわからなかったのか、首を傾げていた。
「こんなにちっちゃいのに、可哀想な話じゃあないか。お前は自分のことを不幸だと思わないのかい?」
幽幸はそう云った後、まるで他人事のように感じている自分に背筋が寒くなった。普世のように泣かずに花街に来たのは自らとて同じではないか。お内儀や番頭からは偉いと誉められ、姉女郎たちからは何かと可愛がられたものだ。
されど先代の傾国は違った。幽幸に対して常に厳しかった。その一方で、今の傾国である同期の秋麗には実の母のように世話を焼いていた。先代の傾国が手塩にかけて育て上げた秋麗がその名を継ぐのは当然と云えたが、先代傾国は幽幸を憎んでいた、などという噂が立ったこともあった。
まさかとは思ったが、今こうして普世に問うたのと同じように、どうして泣かないんだ、と先代傾国から訊かれた時、自分の返答が気に入らなかったのか、突き刺すような鋭い目つきになったのを憶えている。
しかし、果たして自分は何と答えたのか――幽幸は憶えていない。そういう背景からか、幽幸はいささか興味深げに普世の答えを待った。が、それは意外なものだった。
「不幸って?」普世はまたもや首を傾げた。
「えっ、不幸は不幸だよ。お前は不幸じゃないのかい?」
幼いながらに眉間に皺を寄せながら、普世は考えた。
「ええっと……不幸って、幸せじゃないって意味でしょ。じゃあ、不幸じゃないってことは、幸せじゃないことはない、だから……幸せってこと?」
「幸せ? そんなことあるはずないだろ。お前は売られて来たんだよ? 嫌な目、辛い目に遭って、挙句に親に裏切られて――そんなのが幸せなわけがあるかい」
幽幸は何故か必死に云い連ねた。すると普世はけろっとした顔で応える。
「そりゃあ大変なこともあったけど、不幸だと思わなかったし、此処には自分で来たんだし……わたし幸せだったのかなあ……ううん、難しいわかんないです」
仕舞いには笑顔を見せる普世に幽幸は呆れた。何と不真面目な娘だろうと思った。この世の中で必死に生きている人間を馬鹿にしている。無邪気や無知とは大違いの、不遜で傲慢な心根を持っている――。
虫の足を千切る童を見ても何とも思わぬが、これは憤って仕方ない。
幽幸はまるで己の凡てが嗤われたように感じていた。彼女は親に裏切られてこの花街に辿り着いたのである。
それから五年――幽幸は普世に対して常に厳しかった。
皮肉なものだと思う。先代傾国に優しくして欲しかった自分が、今こうして同じことをしているのだから。
「もういい頃合だね? 海桃と緋花を呼んでおいで」
幽幸は伏籠に掛けた艶やかな仕掛けを物欲しげに見ていた童女に云い、周章てて童女が室を出る頃には自分は化粧の仕上げしてしまった。
やがて海桃と緋花の二人の妹女郎が戸を開けて入ってきた。
素朴な顔立ちの海桃は箕翔庵の二階の窓から顔を覗かせたあの時の童女である。
そして、この緋花こそが美しく成長した普世だった。柳糸のようにしなやかに伸びた四股は涼しく、ふっくらとした腰周りは柔らかい。濡れた耀きを纏った髪は誘うように肩に乗り、紅玉と見まがう深緋の瞳は情熱的でありながら智の気配を感じさせる。未だに幼さを多分に含んだ相貌ではあるが、時折見せる艶やかな表情に幽幸は息を呑むことがある。
「あねさん――お見世が何処となく忙しいような……今日は何かあるんですか?」
緋花こと普世は昼見世の時から中の様子がいつもと違うことに気づいていた。お局女郎や番頭、そしてお内儀までもが忙しそうに駆け回り、そのくせ話し声は小さいのである。
「普世ちゃん――やのうて、緋花ちゃんホント? わたし全然気付かんかったわぁ」
海桃はさも今気付いたふうに云った。普段からおっとりしているこの娘は、幼い頃から普世と一緒に育ったので、二人きりの時は真名で呼び合っていた。
「ふん……鼻の利く娘だねぇお前は……飢えた狼みたいだよ」
相変わらず察しのいい娘だと、幽幸は普世の暢気な顔を見て思った。笛や胡琴、そして吟嘯といった稽古事は甚だ苦手であったが、勉強事だけは抜きん出ている。飽きもせず朝から晩まで暇を見つけては書物に手を伸ばす。そしてわからないことがあれば姉女郎の幽幸や他の先輩女郎を質問責めにする。得心いってようやく引き下がるが、お内儀まで呆れ果てる始末であった。
「二人ともいいかい? 今日これからお越しになるお客は忠衛宮のお偉いさん――つまりは立派なご大尽だ。くれぐれも粗相はするんじゃないよ」
「忠衛宮……ってことはお城の雲上人ですかねぇ、あねさん」
普世の目が輝く。その言葉どおり忠衛宮とは朱音国の王宮である。本国の島と南の大陸とに隔たる遊納水道を見据えるようにせり立った落山を切り崩して造られた。落山は昔から龍の棲まう聖山として崇められており、普世はもちろんのこと、官属のような下級の役人すら登城することは出来ない。雲に近い高さを誇る落山に昇ることを許された者――すなわち高官を指して雲上人と云う。
ちなみに、末端の官吏は落山のふもとにある外宮で政務を行なっている。
「本当はオマエのようなそそっかしい子を出したくはなかったんだけどね――アチラさんの要望で、傾国は駄目だっていうんだから――まったく、厭味ったらありゃしないよ」
「何で傾国さんじゃイカンのんです?」海桃は問うた。
幽幸はその理由をお内儀から聞いて知っていたが、さあ、とはぐらかした。
「雲の上に住んでるお方の頭ん中を理解しようと思っちゃいけないよ、海桃。それから緋花もだ。小賢しいオマエは特に温和しくしてることだね――ひょっとしたら、今夜が突き出しになるかもしれないんだから」
「ええっ!?」
と、頓狂な声を上げたのは普世である。遅れてその意味に気付いた海桃と顔を見合わせる。そして十五歳の少女二人は思わず手を握り合った。
突き出しとは、遊女が初めて客を取ることである。普世や海桃の身分は振袖という客を取らない遊女であり、それなりに遊女らしい格好はするものの、仕事と云えば姉女郎が来るまでの場繋ぎや、酒宴の手伝いだったりする。
およそ十五の歳で突き出しを行なうのが花街の慣例であり、その際は相応しい客をお内儀が選ぶのだが、まさかこのようなかたちで唐突にその日が来ようとは思ってもみなかった。心の準備などあろうはずもない。
「あねさん……私……」
さすがに動揺している普世を見て幽幸は内心面白がっていた。
「心配するこたないさ。アチラさんがうまくやってくれるだろうよ。雲上人には、おぼこい娘を好む方が大勢いらっしゃる。気に入られて馴染にでもなってくれりゃあ、箕翔庵としては嬉しいもんだがね」
ついにやけてしまう口元を扇子で隠し、幽幸は普世の顔を盗み見た。海桃は今にも泣きそうであったが、それでも普世は涙の気配すら見せない。腹立たしくなった幽幸はぱちりと強めに扇子を閉じる。
「びっくりするほど痛くても、声をあげちゃいけないよ――わかったね」
「普世ちゃん……」
「海ちゃん……」
二人は互いを握る手に力を込めた。
不安に怯える普世を見て、少しの満足がいった幽幸は、これから来る客の容貌が醜ければいいと思った。そうすればさしもの普世も泣き崩れるであろう。己の運命を嘆くであろう。
そうなれば、さぞ愉快に違いない。