普世、売られる 1
そもそも『朱音』という国は小さな島国だ。
家族が海を隔てて離れ離れになるわけでもあるまいに、そんなに悲しむものでもない。ちょっと南にあるという『香球』の都に行くぐらいどうということはない。なのにどうして母や兄たちは別れを惜しんで夜遅くまで話し込んでいるのだろう。いつもなら種油が勿体ないと云って早々に灯を吹き消して寝てしまうのに。早く寝ないともう朝になってしまう。
普世は次兄の嘉丙が出稼ぎに行ってしまう前の晩、哀しげに思い出話をする母や兄達の顔を見ながらそんなことを思った。
朱音国は剣座方、北陰市の中ほどにある小さな広化郷で暮らす一人の少女――普世、八歳の秋である。
とはいえ、普段は滅多に出来ぬ夜更かしに心が躍っていたのは事実だった。純真無垢な普世は自分が悪いことをしているような気がして、伏目がちの家族とは裏腹に密かに胸が高鳴っていた。
「香球ってどんなところ?」
誰ともわからぬ長大息で座に僅かな間が出来たところで、普世は云った。当然と云えば当然の疑問である。三十戸七十人ほどしか持たぬ寂れた村落の広化郷は、取り立てて何もない貧しい土地であった。ひと月に一度、南から来る旅商が通るだけで流通も何もあったものではない。書物や薬ほど高価なものはなく、普世が書物を目にしたのは郷長の屋敷にあるほんの数冊のみだった。
しかし、他と比すれば広化郷は幾分かましであった。そもそも広化郷は三つの里が合併して出来た地区である。今でこそ大きな里と然程変わらぬ人口ではあるが、何とか持ち堪えていると云っていい。伝え聞くところによれば、さらに北の里郷では貧しさに耐えかねて暴動が起こったり、娘が売り飛ばされたり、自ら命を絶つ者も出たという。
それに比べれば、次兄を外にやることで糊口を凌げるだけ平穏と云える。長女で末子の普世には三人の兄がおり、上から嘉乙、嘉丙、嘉丁という。いずれも温和であるが胸の裡に激しい気性を携えており、ピンと張った性根の男達である。
次兄の嘉丙が出稼ぎに行くことになったのも、長兄が家を離れるわけにはいかぬと彼自身が申し出た。父は流行病で五年前に亡くなり、家族の面倒を見てきたのは嘉乙だった。普世にとっては父代わりでもある。
まだ幼い普世の無邪気な質問には嘉乙が答えた。
「俺も詳しくは知らんが、王都というだけあって賑やかなところだそうだ。こないだ来た旅商さんが云うには仕事が山ほどあるらしい。それに今は大きな橋を海に架ける工事をしていて特に人手が足りないそうだ」
嘉乙は些か鼻息を荒くしたが、普世にはよくわからぬことだった。彼らに王都での働き口を教えたのは他でもない、その旅商である。嘉乙には今すぐにでも自分が行って家族を楽にしてやりたいという気持ちがある。
「ふうん海か…………海かあ」
そこで嘉丙が普世の頭に手を置き、笑顔を作った。
「だから、俺がちょっくら香球まで行ってきて橋をおっ建てようってわけよ。お国はでっかい橋を作って海の上を歩こうって考えてんだ。そうすっと大陸からのモンがじゃんじゃん入ってくるし、いろんなモンが安くなるって寸法だ。スゲエだろ」
「そうなんだ。丙にいちゃん、それでいつ帰ってくるの?」
普世が何の汚れも知らぬ澄んだ声でそう訊ねると、兄弟達は一斉に黙り込んだ。母は片手で口を押さえ、悲しみが零れるのを静かに堪えていた。
「あのな、普世」
三男の嘉丁が魄い面持ちで語りかけようとすると、嘉丙はぴしゃりとそれを制した。
「嘉丁、お前はだあっとれ――」
次兄の凄みに嘉丁は押し黙った。普段気のいい嘉丙の凄みは堂に入っている。嘉丙は笑顔を崩さず妹に向き直った。
「普世、お前がイイ子にしてたら早く帰れるだろうよ。出来るか? 泣き虫のお前に」
「なあんだ。だったら早く帰ってこれるね」
「ははっ、云ったな普世め。じゃあすぐに帰ってくっから、そん時は乙兄ちゃん達に確かめるでな? いいな?」
嘘である。単なる出稼ぎとはいえ、これは農閑期にだけ行うような易しいものではない。帰ってくる日が何年先になるか、或いはその日が来るのかどうか。それすらもわからない。
ここでは普世だけがそのことを理解していなかった。
翌朝、夜も明けきらぬ時分に嘉丙は発った。普世は母に無理矢理起こされ、眠い目を擦りながら次兄を見送った。
それが、普世の見た嘉丙の最後の姿である。
嘉丙の訃報が届いたのは一年余りが経ってのことだった。工事中、崩れてきた材木の下敷きになったという。春先のまだ寒さが身に染みる時期で、普世は十歳になったばかりである。その報せは顔見知りの旅商が持ってきてくれた。
家族の落胆は大きかった。普世もまた深い悲しみが込み上げてきた。十歳になったとはいえまだ稚い童である。死の意味を頭ではわかっていたものの、その悲しみの底には家族が咽び泣く姿があった。兄がもう帰ってこないことはもちろん悲しいが、それが実感となって湧いてくるのは母や兄達が病人のように蹲って泣いている時である。心の何処かではまだ兄の死を呑み込めていなかった。
「イイ子にしてたのにな……」
普世は満天を埋め尽くす星々を見上げ、呟いた。
不幸は重なるもので、それからひと月ほど経った頃、母が病に倒れた。郷で一番の知恵者である郷長に相談すると、心労と過労から来たのだろうということだったが、詳しいことは矢張り医者に診せなければわからぬ。されど医者を呼ぶ金もなく、薬を買う金もない。
母は男顔負けの働きをする女丈夫であったが、次兄の嘉丙の一件以来とんと生気を失い、見る影も無くなった。背中は日を追うごとに丸くなり、手首は節くれだち、一気に老け込んだようにも見えた。
そんな矢先のこと、母は悲愴な笑顔で無理を押して畑に出たものの、やがて血を吐いて突っ伏してしまった。以来、床に入ったまま動けないでいる。
普世も飯炊きや縄を綯うなどして懸命に家の手伝いをしていたが、やはり働き手を一気に二人も失ってしまったことは大きかった。三男の嘉丁は上の二人とは違って体格に恵まれず、日の下で長時間働くことが出来ない。
実質、嘉乙だけで家を保っているようなものである。
普世は自分が荷物になっていることを感じていた。自分が男であったらこのような苦労もなかっただろうに。
しかし、運命の足音はすでにこの時、彼女の背後まで迫っていた――。
或る日のことである。広化郷に一人の老婆がやって来た。普世は兄の弁当を届けたあと山菜を採りに行った帰りで、道ですれ違った見慣れぬ姿をきょろきょろ盗み見た。
すると老婆は普世を呼び止め、まじまじと頭頂から爪先まで眺めると、一度だけ頷いて懐から出した小さな帳簿に何やら書き留めた。
そして粗方書き終えると、柔和だが怪しげな笑みで普世の顔に自分の顔を近づける。
「お嬢ちゃん、アンタ、ひもじいんだろ?」
唐突に云われ、違う、とも云えない普世は恐る恐る首を縦に振った。すると老婆は前歯が三本欠けた口の端をにんまりと上げる。
「ほうかえほうかえ、そりゃあ難儀なこった。お嬢ちゃん、ウチに案内してくれろ?」
「え……」
「ほれ、早いことすんだよ。貧しさってヤツぁ足が速いんだ。急がねェとあっちゅう間に追いつかれちまう。追いつかれたらオメェ――」
そう云って老婆は左手で自分の皺だらけの首を絞める素振りを見せ、目玉と舌を同時に出した。
「――くぇッ……と、おっ死ぬしかねえ。地獄の沙汰も何とやら、とはいえ銭のねェヤツにゃあ、何処も彼処も地獄だら――わかったらとっとと案内しなっ」
肉の落ちた老婆の鬼のような形相に怯えた普世は、逃げるようにして家の中に飛び込んだ。老婆が後をついてきたのは云うまでもない。土壁や柱は朽ち、饐えたような土の匂いのする襤褸屋を忌々しげに見渡した後、老婆は床に臥していた母に開口一番こう云った。
「おたくの嬢ちゃんは傾国さんになれるよ」
さて、早い話がこの老婆は人買い――すなわち女衒である。地方の貧しい邑を巡り、器量の良い娘を買い取っては遊郭に売りつける。老婆の云った『傾国さん』とは花柳界における最上級の遊女の呼び名であり、この遊女と遊ぶためには国を傾けるほどの金がいるという文句が由来である。
突然のことに目を丸くしている家族などお構いなしに、老婆は講釈を垂れ始めた。
「オレぁ長いことこの商いをやってるがね、こんなお嬢ちゃんは見たことないっ。傾国さんになるにゃあ笛に胡琴に唄もしっかりやんなくちゃいけないし、山ほど本を読んでお勉強しなくちゃあいけない。それに何より、顔が佳くなくちゃあハナシにならん。んでも、このお嬢ちゃんは聡明そうだし、何たって可愛らしい――オレが太鼓判を押すよっ。どうだい、売っちゃあくれないかい? この子ならすぐに傾国さんになれる。そんだら銭もざっくざく、こんな汚ェ家ともおさらばさ」
「本当っ!?」
老婆の毎度毎度の売り口上に真っ先に食いついたのは普世である。金を稼ぎながら稽古事も出来、何より本も読めるとあっては魅力的に聴こえるのも当然だった。
老婆は満面の笑みで普世の頭を撫でる。
「そうとも、お嬢ちゃんが香球でちょいと頑張ればすぐに帰れるし、何より家族はみんな大助か――」
老婆の甘言が終わらぬうちに、病床の母が普世の腕を引っ手繰るようにして抱き寄せた。普世には母の行動が理解出来ない。
「う……うちは結構ですからっ、お引取りください」
「お母さん、どうしたの?」
普世は母の腕の中から顔を見上げる。そこには青白く強張った母の表情があった。まるで死神にでも出くわしたかのように唇を震わせている。
それとは対照的に老婆は粘りのある笑みを浮かべた。
「まぁ、ゆっくり考えんさい。オレぁ旅商と一緒に来たから、もうしばらくは此処にいるからよ――そうそう、ひとつ忠告しておくけんど……いま北の方が騒がしいみたいだぜ。北の大将が何やら準備し始めたっていうんだから、せいぜい乱捕には気をつけることさ」
そう云って老婆は肩を揺らしながら立ち去った。母は普世を抱きすくめ、小刻みに震えるだけだった。