それから
房の外から、祭りの遠い喧騒が流れてくる。
小さな丸窓に掛かった簾の細い隙間からは、初夏の高い日差しが入り込み、遊納大橋の竣工を祝う人々の賑わいも一緒になって、牀蓐に横たわる老翁の耳に届いた。
薄い掛け物を脇のところまで掛けた老翁は、立派に蓄えられた白い髭の下で微かに笑った。この祭りの到来を長いあいだ心待ちにしていた彼の耳は、間もなく訪れる寿命の足音を須臾忘れていた。
太鼓を叩く音や笛の音、そしてそれに混じって童が喜び勇んで母を呼ぶ声も聴こえてきた。老翁は満足そうにすっかり白くなった眉を緩める。
老いた身体に障るとして、真午の陽光を遮った薄暗い房には静謐な空気が保たれており、牀蓐に沈む老翁の傍らには、細い竹で編んだ椅子に座る一人の娘の姿があった。
娘の年頃は十七、八であろうか、程々に長い髪を紅い紐で一つに束ね、真っ直ぐ背中に垂らしている。藤色の絽の着物を纏い、紗の帯には夏らしく雲と風と水草を象った涼しげな紋様が織り込まれている。年頃であるが華美に着飾った様子はなく、極めて質素と云えた。娘の相貌はまだ幼さを含んでいるが、ふとした瞬間にまるで老いた女のような仕種を見せた。
「昔の話を致しましょう――」
そう云って娘は椅子から離れ、小さな簾窓の前に立った。右手の袖を掴みゆっくりと簾を上げると、夏の日差しが絽の袖を玲瓏り、彼女の細い腕の影を象った。
「見えますか、あの橋が」
老翁は僅かに眉を上げ、目で頷いた。
「多大な犠牲を払ってしまったけれど、こうして今日という日を迎えることが出来ました。長い時間がかかってしまいましたが……」
娘は簾を掛けなおし、再び椅子に座る。そして老翁の痩せて骨ばかりになった手を両手で包むと、祈るように目を閉じて頬を寄せた。
「この国の皆さんと、あなたのお蔭です。私はこれから、何とかやっていけそうですから……心配しなくても……大丈夫」
自分の半身を慈しむように手を握っていた娘は、ハッとして顔を上げた。老翁が残り少ない力で娘の手を握り返してきたのである。
感動に胸が熱くなった娘は静かに震える息を吐いた。
房に漂う静寂に二人は溶け込み、しばらくそのままでいた。やがて娘は囁く程の声で老翁に語りかける。
「ねえ……知ってました? 私はずっと、あなたのことが好きだったんです。たぶん、あなたと出会ったあの時から――ずっと――」
娘は身体を牀蓐に傾け目を閉じると、ゆっくり老翁に口付けた。
儚くも柔らかさに満ちた愛の証左である。
これが、最初で最後の口付けとなった――。