とある店の店員の彼女
「ブラックコーヒーと…、あと、この期間限定のヤツって、まだやってますか?」
そう言って、ぼくは、注文を取りにきた店員さんの顔を見た。
「はい。まだやっていますよ」
目を、奪われた。
20代前半に見える彼女は、クロネコの毛みたいに長くて真黒でやわらかそうな黒髪を後ろで1本に縛っていた。無表情だが、それを不快に感じさせない不思議な魅力を醸し出していて、派手な顔立ちではないけど、1度見たら忘れられない顔をしていた。
「…ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「あ、はい」
彼女は中性的な聞き心地の良い声で、注文の内容の確認をしてきて、見惚れていたぼくは、反射的に返事をしてしまった。
正直、注文したものを覚えていない。
だけど、その時のぼくは、そんなことはどうでもよかった。
料理は彼女が持ってきてくれたらいいな。とか、連絡先を聞けたらいい。みたいな考えが頭の中を占めていた。
(ああ。これでは、まるで----)
そこまで考えて、ぼくは思考をストップした。
会話らしい会話をしたことがない、今日、しかも、注文を取りに来ただけの店員に思考の先の感情を抱くのは、なんだか自分が軽い男になったような気がして、嫌だったからだ。
それに、ぼくはつい先日、彼女と別れたばかりだ。
そうだ。これは、傷ついている所に、魅力的な女性が現れて、胸がドキドキして、恋だと勘違いしてしまうやつだ。
ぼくは、自分自身の気持ちをそらすために、必死で自分に言い聞かせていた。
料理が来るまでの時間に進めようと持ってきたレポートを、所々擦り切れている、使い古したボロボロのリュックから乱暴に取り出した。
しかし、いざ始めてみても、レポートには一切集中できなくて、頭のなかはやはり彼女のことばかり考えていた。
そのまま10分くらいしただろうか。あまり混み合っていないためか、料理が来るのは早かった。
「お待たせいたしました。ブラックコーヒーと、期間限定のスペシャルハンバーグのセットをお持ちいたしました」
彼女の聞き心地のよい声と、ハンバーグのいい香りに、バッ、と俯かせていた顔をあげた。
「あ、ありがとうございます」
ブラックコーヒーを受け取りながら、彼女のネームプレートをつい、盗み見てしまった。
琴原。
無機質な黒文字で書かれたその2文字は、ぼくには輝いて見えた。
「ごゆっくりどうぞ」
伝票を机に備え付けてある透明な筒に丸めて押しこみ、彼女は軽く一礼して背筋をのばして歩いて行った。
その後は、お会計も彼女がやってくれないかなぁ。と考えながら、我が家よりも、遥かにおいしいハンバーグをできるだけ急いでたべた。
最後の一口を食べ終わると、ぼくはリュックを引っ掴み、レジへと向かった。
レジには、彼女がいた。
内心ガッツポーズしながら、できるだけゆっくりお金を出そうと試みる。しかし、たった2品しか注文していなかったので、料金は1000円にも満たず、30秒とかからずに、ぼくはお金をぴったり出し終えた。
せめてもと、普段は受け取らないレシートを受け取る。
彼女が「ありがとうございました」というのが、妙に耳に残り、気付いたら、レシートをクシャリ、と握りしめ、
「あの、名前を教えてくれませんか!」
と、大声で言っていた。
言ったあとで、彼女の不思議そうな視線と、周りのお客さん好機の視線で、ぼくは自分の失態に気付いた。
パニックのあまり、途中でハンバーグをのどに詰まらせ、コーヒーで流し込もうとしたが、コーヒーが思ったより熱くて、舌を火傷したことはなかったことにできないだろうか。という、ものすごくどうでもいいことを頭の中でひたすら考えるということをしていた。
「____涼香」
「え?」
「涼しいに香とかいて、すずかと読みます。琴原涼香です」
変わらない無表情で一礼をした琴原涼香さん。
ぼくは、彼女が名前を教えてくれたという事実に舞い上がって、自分の名前を言うことを忘れて、
「あの!また来ます!」
と、真剣な顔で言った。
彼女は、ほんの少驚いた顔をすると、
「はい。またのご来店、お待ちしております」
と、口角を注意深く見なくては分からないほどにあげ、再び一礼をした。
こうして、ぼくと琴原涼香は出会った。