携帯電話~現代に蘇るパンドラの箱~
「パンドラの箱」というものを聞いたことがあるだろうか。
黄金でできた綺麗な箱を見たパンドラという女性は、その箱にはきっと素晴らしい宝物が入っているに違いないと思い、その箱を開けた。しかし、外見はとても綺麗に見えたその黄金の箱にはありとあらゆる災厄が封じ込められており、それらは箱が開けられた途端世界中に飛び散ったのだ。パンドラは慌てて箱を閉めたため、箱の底にはたった一片だけが残された。
私がこの話を聞いたとき、これがただの神話だとは思えなかった。なぜなら、あるではないか。現代にもパンドラの箱が。そう、タイトルにもある通り「携帯電話」である。
携帯電話はその登場とともに一気に世の中に普及し、今や日常生活に欠かせないものとなってきている。ほんの十年前はそれを持っていることを驚かれるくらいであったのに、今では持っていなければ非難されることもあるくらいだ。持っていなければ仕事は成り立たず、友人の輪にすら入ることができない。私の本音としてはこんなものを持ちたいとは思わないが、持たざるをえないのである。神話での「パンドラの箱」が現在の「パンドラの箱」と確実に違う点があるとすれば、この点であろう。神話では好奇心によって開けてしまったのに対し、現在では義務的に開けてしまわざるをえないのである。
さて、以上から分かるとおり、私は携帯電話が大嫌いである。しかしながら、携帯電話が非常に便利なものであるということは認めざるをえないし、それを使うことを否定したいわけでもない。どのような点で便利であるかは、皆知っているからこそ使っているであろうから、ここでは省略させてもらおう。逆に、私が携帯電話をパンドラの箱に例えたように、携帯電話を持つことは様々な害を呼ぶが、これも世でよく言われていることであるから省略させてもらう。では、私が何を問題としたいかであるが、それは箱の底に残った一片のことである。
携帯電話に関する様々なトラブルは枚挙に暇がない。このことから、携帯電話を持つことが何らかの悪影響を及ぼしやすいことは疑いないことである。しかしながら、携帯電話がもたらすであろう悪意を上手く回避し、むしろ携帯電話を上手く使いこなし、その利便性のみを追究できる人もいる。それをできるか否かの違いとは、私は箱の底に残った最後の一片を知ることができたかにあると思う。
神話での最後の一片は諸説あるが、現代のそれは何なのだろうか。それは私の知るところではない。恥ずかしながら、私も携帯電話の悪意に振り回されている者の一人なのだ。しかし、最後の一片が何であるかの答えが一つである必要はないだろう。その答えを知り、それを最大限に活用できるかどうか。それこそ現代のパンドラの箱を本当に素晴らしい黄金の宝箱にできるかどうかの一つの分かれ道ではないだろうか。私はより多くの人が自分なりの最後の一片を見つけ出し、いつか本当に携帯電話が黄金の宝箱になることを願うばかりである。