旅の終わりにむけて
翌朝、サラリーマンたちにまぎれてチェックアウトを済ませ、一階の簡易レストランでセルフサービスの朝食を取ると、昨日レンタルした自転車にまたがって出発した。
鈴原の背中を追うように自転車を漕げば、街の中心から遠ざかってゆくようだ。途中で小ぢんまりとしたパン屋に立ち寄り、厚く切ったソーセージと新鮮なレタスをはさんだサンドイッチを詰めてもらった。
走れば走るほど背の高い建物はなくなり、家もまばらになってゆく。一軒家や二階建てのアパートの隙間に、畑や田圃が広がっている。
太陽がちょうど南に来る頃に、ふたりは小高い丘に辿り着いた。自転車を降りずに坂道を上がってきたので、かすかに息切れしている。身体で熱された空気が口からもれて、白い息になって空に溶ける。ここからは Z 市が一望できた。
自転車を適当な樹の根元に停めると、鈴原はずいぶん上機嫌な様子で柵まで駆け寄った。児童が転落しないためのとても低い柵で、座るのに丁度いいくらいだ。かれはそこに腰掛けると、後からついてくる瀧川を振り返った。
「おれさあ、自転車に乗れるようになってから、ばかのひとつ覚えみたいにここに通ってたんだ」
ちょっと照れくさそうに笑う鈴原を、瀧川は子どものようだと思った。いつもするような口の端を持ち上げる、にやりとした笑い顔ではない。本当に嬉しそうな、純粋な笑顔だった。
ふたりはそこで昼食を取ることにした。街の方に向かって、肩を並べて座る。
頭上の空は昨日と変わらない青さだが、雪が降る前のような、肌をぴりぴりと刺す冷たさがあった。
足元の草がさわさわと風に撫でられる音、時折遠くから聞こえる車のエンジンの音。眼下に広がる Z 市は、一枚の田園風景画のようにも見えた。鈴原が、ここを好きになるのもよく分かる。弁当を平らげてからも、お互いにしばらく黙り込んで、その街並みを見つめていた。
それからどれくらい経っただろう。続いていた沈黙を破って、鈴原がおもむろに口を開いた。
「治さ、あこのことすきだろ」
あこ、というのは真崎のニックネームだ。朝子の「さ」を取って、あこ。
唐突に指摘された瀧川は、照れを隠すようにむっとした表情で隣を見る。そこに腰掛けている男は、いつものようににやにやと笑っている。
「うっせ、すーさんだって、あこのことすきだろうが」
「うん、すきだよ」
仕返しのつもりで言ったのに、なんでもないことのようにさらりと返された。笑みを崩さない、自信たっぷりのその表情に、聞いている瀧川の方が恥ずかしくなってくる始末だ。
「……」
一瞬、ふたりの間に再度の沈黙が訪れた。ひゅうと耳元で風が鳴っては駆け抜けていった。瀧川は思わず身を縮める。指先が、ガラスみたいに冷たくなっていることに気付いたが、一方の鈴原は平気な様子で続ける。
「だけどさ、おれ、関西行くんだよ、大学」
「……え」
持ち上げられていた口元が緩んで、その表情に陰が落ち、ため息と共に鈴原は目を逸らした。 Z 市の風景を見ているのではなく、もっと遠くを見ているようなまなざしだ。
「聞いてねーし」
瀧川の方は、呆然としたような、納得いかないような、複雑な表情をしている。鈴原の横顔を睨み付けるようにも見えなくもない。ただ、あまりにも唐突なカミングアウトに、どうリアクションすればいいのかが分からないのだ。
「言ってないしな」
鈴原の横顔は、なんだかとてもかなしそうに見えた。悲しいも、哀しいも、愛しいも、全部ひっくるめた「かなしい」だ。
それでも、その声には、どこか力強さが秘められているようだった。
「その大学に、どうしても入りたい研究室があるんだ。そんで、推薦、してもらえることになった。先生にも、ほとんど合格だろうって言われてる。だからおれは、治やあこが行く S 大には行かない。行けない。
遠いから、いつ帰ってこれるかも分からないし、もしかしたら留学とかもあるかもしれないし、行けるなら行くつもり。 Z 市に来ようと思ったのも、引っ越す前にもう一度来ておきたかったから」
そこまで言うと、鈴原はやっと一呼吸置いた。一晩中考えてきた台詞みたいだった。瀧川は、なんと返事を返すべきか迷って、ただ静かに彼の言うことを聞くに留めた。
「それに、あこにも振られたんだ」
鈴原はその言葉のあと、ちらりとだけ、瀧川の方を見た。
「心残りを全部なくそうって、ほんと、わがままだし……、治じゃないと、こんなこと頼めないから言うんだけどさ、つまり、だから、あこのこと、ほんと、よろしく頼むわ」
声は次第に細くなり、小さく揺れているのが分かる。まるで独り言のように呟くばかりの願いだったが、瀧川はしっかりと聞き届けると、「おう」とだけ短く返した。それを聞くと、鈴原は眼鏡を外し、目元に手のひらを押し当てて頭を垂れた。肩が震えている。時折啜り上げるように息を吸うので、たぶん泣いているんだろう。
泣いているところを見るのは初めてだったが、涙を見せようとしないところが、鈴原らしいと思った。
太陽がゆるゆると傾いて、空の端が薄い桃色に染まり始めた頃に、どちらともなく座っていた柵から立ち上がった。来たときとは違い、自転車を押して、ゆっくり歩きながら帰る。
もう二度と会えないわけでもないのに、ただどうしようもなくさみしくて、この時間が少しでもゆっくり流れるのを願うように、その足取りはゆるやかだ。もう少しだけ、この余韻を味わっていたかった。
駅で帰りの切符を買う前に、真崎へのおみやげを買った。キーホルダーと適当なクッキーだが、きっと真崎は喜ぶだろう。
「おれがこっちに帰ってきたときには、また来ような」
鈴原がそう言うと、瀧川も笑った。
「そん時は、あこも誘おうぜ」
なにか心に残れば幸いです。