おだやかな水曜日
「治、おい、治。降りるぞ」
心地よい電車の揺れに、いつの間にか眠り込んでいたようで、頭上から降ってきた鈴原の声にびくんと跳ね起きた。その様子がおもしろかったらしく、かれはにやにやと笑っている。その手には、すでに荷物を抱えている。
「ほれ、早く動け」
唇の端ににやにや笑いを残したままでそういうと、瀧川を置いてさっさと出て行ってしまった。もちろん、瀧川も慌てて後を追う。
ホームにある時計は、もうすぐ 7 時半を指そうとしていて、駅はすっかり活動的な空気に染まっていた。サラリーマンや学生たちが縦横に行き交っている。その隙間を抜けるように、鈴原はすいすいと、迷いもなく進んでいく。
改札を抜け、駅を出ると「朝飯にしよう」と、通りをはさんで向かいにある喫茶店に入った。パン屋を兼業しているらしく、店内にはバターのこっくりとした香りが満ちている。鈴原は蜂蜜トーストと紅茶、瀧川はチョコクロワッサンとコーヒーを注文した。
「すーさんは、こっち来たことあんの?」
あの慣れた足取りは、このあたりをよく知っている人のものだ。瀧川が尋ねたが、鈴原は首を振る。
「小学校の頃、こっちに住んでたんだ」
そう言って、紅茶を一口すすった。鈴原の鼻先で、眼鏡がその暖気にさっと白く染まったが、特に気にしていないらしい。瀧川も、ふうん、とだけ言うと、チョコクロワッサンをかじった。
無言のままでもくもくと食事だけが続く。会話がないのはふたりの間では特に珍しいことではなく、言葉を交わさなくても気まずくなることはない。下手に気遣いしなくてもいい気楽さを、お互いに居心地良く感じている部分があるのかもしれない。真反対の性格のふたりが行動を共にする理由のひとつはそれだろう。
「そうだ、携帯の電源、落としとけよ。そろそろうるさくなる」
一足先に食事を済ませた鈴原は言う。その言葉に従うべくポケットからスマートフォンを取り出したが、まだ親からの連絡はないようだ。寝坊とでも思われているのだろう、朝の隠蔽工作は無駄ではなかったらしい。
かわりに、真崎からのメッセージが 1 通。
『おはよー! 今日体育だるいね、寒いし』
『ところで昨日の課題、わかんなかったとこあるんだけど』
『昼休みに教えてくれない?』
文字の後ろに、お願い、というふうに両手を前で合わせている動物のスタンプが並ぶ。瀧川は正面で紅茶を飲んでいる友人をちらりと盗み見ると、今日はちょいムリ、ごめん。とだけ返信して、電源を切った。
店を出てからは、駅前で乗り捨てのできるレンタサイクルを借りて、鈴原の案内の元とは名ばかりの、気の向くままの観光を楽しんだ。 Z 市はちょっとした観光地で、散策には丁度よいところだった。もっとも、若者が集まるアミューズメントパークなどがあるとおうわけではなく、古い街並みが残る通りとか、美術館とか、城跡とか、そういったものが多く集まっていた。
ずいぶん昔からあるらしい商店街には、アーケード内に並ぶ街燈にささやかなクリスマスの飾り付けがされており、その下には所狭しと雑貨屋や古美術商、古着屋などが立ち並んでいて、見る目を飽きさせない。ゆっくりと時間が流れているような、心地よい空間が広がっている。時折、店の人に「学生さん?」と聞かれるのには、記念日で学校が休みになった県外の学校の生徒ということにしてやり過ごした。
鈴原が引っ越した後に、ところどころ店が入れ替わったりしているらしく、いつの間にか案内役から普通の観光客になっている。そんな鈴原の目を盗みながら、瀧川はときどき携帯の電源を入れては、真崎とメッセージのやり取りをした。
『どうせシゲさんと一緒にいるんでしょ』
『ふたりのお父さん、お母さんから連絡来てたよ』
『先生大変そうだったし』
文字だけでもすっかり呆れた様子を感じ、思わず苦笑がこぼれる。結局、課題については先生に教えてもらうらしい。
からりと晴れた空の下を自転車でふらふらしたおかげで、この季節にしては珍しく、昼間は上着を脱ぐほどにまで暖かかったが、大通りの並木はみんな葉を落としてしまっていて、どこか寒々しい。そこにささやかに飾り付けられたイルミネーションも、昼間はただの電線で、なんとなく寂れて見える。年の終わりの予感を感じながら、ふたりはくだらない話題に花を咲かせた。
家族のこと、教師やクラスのこと、最近出たゲームアプリのこと、二年の頃観に行った映画のこと、きらいなお笑い芸人のこと、泣いた小説のこと、話題のドラマのこと。携帯の電源を入れて、案の定大量に残されていた留守電を聞いたときには特に盛り上がった。瀧川のほうには父親の泣き声が、鈴原のほうには母親と姉の怒鳴り声がそれぞれ入っていた。ふたりとも、
『心配すんな』
とメッセージだけを送ると、またスマートフォンの電源を切って鞄に仕舞い込んだ。
「おれ、金曜は頬腫れてるかもだわ」
瀧川はそう言って、右頬をおさえた。
「おれの姉貴はげんこつ派だな。おふくろゆずりで。ふたつかあ」
鈴原も真似をして頭に手を乗せた。そうしてふたりで顔を合わせ、こらえきれないといったふうに笑った。
勉強だとか大学だとかの話は、示し合わせたようにしなかった。それから、恋の話も。
陽が暮れた頃、駅からそこそこ離れた安いビジネスホテルにツインの部屋を取った。自転車は明日も使えるよう 2 日間借りておいたので、ホテルの人間にお願いして停めておいてもらった。撤去されると、駅まで歩くのには少し骨が折れる。
「おれさ、なんですーさんと一緒にいるのかって、よく聞かれるわ」
瀧川は、ルームサービスのピザを頬張りながら呟いた。社会人でもそこそこ値段の張るものだが、お祭りみたいなものと割り切って 2 枚も頼んだ。
「おれも、治とは気が合わなそうってよく言われる」
互いに顔を見合わせて、どちらからともなしににやりと笑みを交わすと、会話はそこで途切れた。
バラエティ番組の出演者の笑い声が、テレビのスピーカーからこぼれている。
ふたりともよく分かっているのだ。お互いの性格が正反対なことも、そこに自分の足りないものを見出して嫉妬していることも、そして、ほしがるものはどちらも同じであることも。それだからこそかれらは行動を共にし、補い合い、ともすれば自分のものにできないかと、ひっそりと目を光らせているのだ。安心感と緊張感で織られた空気は、このふたりにとっては存外悪くない心地だった。
「明日も行きたいところがあるんだ」
腹もこなれてきた頃にそう言うと、鈴原はテレビの電源を切った。
「ちょっと遠いから、早めに出るぞ」