電車に揺られて
冬の明け方の空気は、普段よりもずっと冷たくて、耳の端が凍りつきそうだ。夜の間に冷やされた空気が、薄明るく染まり始めた空からしんしんと降っていて、瀧川は小さく身震いした。
いつも履いているスニーカーは玄関に置いたままにして、靴箱の中の古いデザインのものを引っ張り出してきた。これなら朝、家族が起き出して、弟が部活の朝練に出かけるときにも気付かれないだろう。七時半頃までは、きっと寝坊しているとでも思ってもらえる。その頃には、もうこの町を飛び出しているという算段だ。
なんだか、家出みたいだな、とかれは思った。
駅までの道のりにも自転車は使わない。徒歩で出かけるのは夏の始めの祭り以来で、荷物が少ないこともあって、瀧川の足取りは自然と軽くなった。
やがて、陸上部で朝から晩まで走っていた中学の頃を両脚が思い出したのか、気付けば駆け出していた。舗装された道路を蹴る靴底の音が、一定のリズムを刻む。肩から提げたショルダーバッグを邪魔にならないように抱えて、見慣れた町並みをどんどん追い越してゆく。吐く息は白く濁り、頬をかすめ、耳元で跳ねる髪の毛と絡まっては朝の空気に溶けていく。
西向きの道のかなたにまで朝焼けの気配が広がっていて、瀧川の足元からは、行先を不安げに指し示すかのように輪郭のぼやけた影が伸びていた。
いつの間にか駅は瀧川の目の前で、足取りをゆるめて入り口をくぐる。鈴原の方が先に着いていて、小さな待合いに置いてあるストーヴの前に座って、暖を取っていた。かれは瀧川の足音に気付いて睫毛を上向けると、
「オハヨ」
と短く言った。
「よう」
瀧川も、短く答えた。
ストーヴの上に乗せられた薬缶はしゅんしゅんと湯気を吹いていて、待合の中はほんのりとあたたまっている。がちゃがちゃとパイプ椅子をストーブ前まで引いて、瀧川が鈴原に並んで座ると、先に購入しておいたらしい切符を手渡された。「N → Z 市ゆき」とかすれた文字で記されている。
「始発、六分だって」
ふたりで頷きあう。やがてホームに着いた電車に連れ立って乗り込んだ。
二両編成の後の両、一番うしろの四人掛けボックス席を、ぜいたくにふたりきりで陣取った。もっとも、 N 駅からの乗客はかれら以外にはおらず、その前の二駅からも、両手で足りるほどしか乗っていなかったようなのだが。
鈴原が進行方向へ、瀧川はその向かい、どちらも窓側に座って、うすら白くくもった窓の外をすべっていく景色を見ていた。
ようやく頭を出しかけた太陽に照らされた町は、いつも通りに始まる一日に向け、今にも目覚めようとしている。朝の気配が町いっぱいに広がり、田舎の広い家々に反射した朝日はきらきらと光っていた。
瀧川は鈴原の方に視線を移した。
真っ黒な髪の毛はつやつやと光をたたえ、黒縁の洒落た眼鏡の奥では、はっきりとなにか強い意志を帯びた瞳が、明けていく朝の景色を捉えていた。その両目を飾る睫毛は思いのほか長く、女の子たちが羨みそうなほどに上を向いている。瀧川のような男らしいタイプとは違う、中性的な目鼻立ちをしていた。
かれの性格は実に誠実だが、まじめで融通が利かないところがある。なにより、自分の定めた一線の中に他人を入れようとしないオーラがあり、結局周囲の人間から一歩引かせる結果となっていた。あまり馴れ合わず、気の置けない友人と言えるのは、瀧川と、ふたりの共通の友人である真崎朝子くらいのものだった。
「鈍行で Z 市だなんて、どうかしてる」
瀧川がおもしろそうに呟くと、鈴原もにやりと笑った。行き先を決めたのは鈴原だったが、隣の県にある Z 市まで各駅停車で進むとなると、実に一時間半もかかる。しばらく暇になりそうだ。
社内はほどよく暖房が効いていて、足元からじんわりとあたたかい。話し声は聞こえず、たかたん、たかたんと一定のリズムを刻む電車の揺れだけが、身体に響いている。