時計童話。
これはある王国の物語。
一人の少女が時計を手に入れる物語。
王が出したその令を誰もが忘れかけた頃、一人の少女が街に訪れた。
「どなたか時計をご存知ありませんか?」
広場で道行く人々に声をかける少女に、男が一人立ち止まり首を傾げた。
「時計とは王の時計のことか?」
「はい。その通りです」
「もう三月も前の話しだろう。それに見つからないと誰もが諦めた」
大袈裟に眉をひそめた男に、少女は柔らかに微笑んだ。
男はその笑みに目を瞬く。
少女は凛とした声音で言った。
「けれど、私はまだ諦めていないのです」
王が大切にしていた時計がなくなった。
見つけた者には望むものをなんでもやろう。
そう国中に令が出たのは三月前のこと。
始めは誰もが勇んで探した。
けれど見つからなければ諦めるのはごく自然のこと。
たちまち令は人々の心から色褪せていった。
一人の少女の心を除いて。
月が雲から顔を出し、辺りを照らす。
小さくため息を零して、少女はベンチに腰を下ろした。
今日も収穫はない。
昼間の喧騒が嘘のように静かな広場は、ただ淋しく闇夜に浮かび上がる。
今日はここで野宿だと、少女は苦笑する。
今は夏だからそれほど苦にはならないとしても、正直ベッドが恋しい。
鞄から毛布を取り出し、ベンチに横になろうとすれば、ふい声が飛び込んだ。
「おい。そこは俺の場所だ、どけ」
声のしたほうに視線をやれば、佇む青年が一人。
仕方なく身を起こして、近づいてくる青年と対面する。
「広場は公共のものですから、少なくともあなた個人のものではありませんけど」
端正ではあるが、どこか影のある青年の顔を少女は睨めつけた。
礼儀を欠いた人間には礼儀は払わない。当然だ。
少女の強い瞳にたじろくことなく、青年は不機嫌そうに吐き捨てる。
「余所の者が偉そうに正論を言うな。俺はそこが気に入っているんだ」
「あなたの事情は知りませんが、私には行くところがないんです。ここで夜を明せなければ困るんです」
あなたには帰る家があるでしょう、少女がそう言うと青年は一瞬だけ口をつぐんだ。
その時、彼に過ぎった表情は隠れた月のせいで見えなかった。
「なら、どかなくていい」
「え?」
返事に驚くのもつかの間、少女の横に青年が乱暴に腰を下ろした。
何が起こったかわからず少女は数秒固まって、我に返って思わず叫んだ。
「なんで座るんですか!」
「なら、何のための二人掛けだと思う」
「私はここで寝たいんです!」
「椅子に座った格好でも寝れるだろうが」
正論を返されて、少女は言葉をなくす。
青年はそれを降参と受け取ったらしく、足を組んで座り直した。
少女は毛布にくるまって、批難がましい視線を送る。
青年はそれには応えず、夜空を見て囁く。
「星は綺麗だ」
「それを見に来たんですか?」
少女は少し呆れた。
暇な人間だと思った。
青年は呆れられたことをさして気にせず、星に見入っている。
独り言のような温度で声が空気を震わす。
「この世界で星だけが唯一綺麗だ」
その一言になにかが沢山詰まっているような気がした。
言葉を返す気になれなくて少女は寝たふりし、その言葉を胸のうちで反芻した。
この世界で美しいのは星だけ、と。
本当にお気に入りの場所だったらしい。
青年は毎晩、ベンチを訪れた。
毛布に包まる少女に青年は時々、思い出したように口を開いた。
「お前はなぜこんな街にきた」
「あなたの街でしょう?こんな街とは」
「この街は綺麗とは程遠い」
眉をひそめるその様に、思わず笑う。
夜の空気が微かに温かくなる。
「あなたは不器用な人ですね」
「馬鹿か、お前。俺のどこをとって不器用などとと言う」
不機嫌だ、と一層険しくなる顔から苦笑しつつ視線をはずす。
そして昼間の広場で何度も口にしてきた言葉で質問に応える。
「私は、王の時計を探しています」
言えば誰もが、戸惑いか呆れのどちらかをを顔に浮かべた。
まだ探しているのか、と。
けれど、青年が返したのはまったく違う言葉だった。
「探して、褒美に何を貰うつもりだ」
「なんでも貰えるのでしょう?とても悩みますよね」
平静を取り繕って、少女は首を傾げてみせる。
見つかることを前提とした台詞。
それが指し示すのはもしかしたら。
「なので時計のこと、知りませんか?」
自然に見えるようにつま先に目を落とす。
今、目を合わせたら冷静でないのがばれてしまう。
ざわりと肌を撫でた風。
「知らない。そんなものは知らない」
青年は月を見つめて静かに呟いた。
夜中の会話は少女が寝ると打ち切られた。
朝、目覚めると青年の姿はもうなく、少女は彼が帰るところをみたことがなかった。
「あいつは変わり者だぜ。街の奴らとは関わらねぇし、人前にめったに顔を出さねぇ。確か二月前にこの街に来たんだったかな」
「悪い人ではないようだけど、それにしても愛想がなくてねぇ。前は城で働いてたって噂もあるけど」
道行く人に時計のことのついでに聞けば、あまりいい評判はないようだった。
「あなたは一人が好きなのですか?」
「確かにお前といるよりは好きだな」
思い切って尋ねれば、鼻で笑われた。
少女はむっとして、言い返す。
「私だってそうです」
「なら、退散すればいいだろう」
「わかりましたよ! 出ていきます!」
あまりの言いようについかっとして、少女は立ち上がる。
と、少女の膝から、ふっと力が抜けた。
「あっ」
「な、大丈夫か!?」
傾いだ少女を青年が慌てて受け止める。
けれど、受け止め切れず、そのまま座り込んでしまう。
抱き留められた格好で、少女は恥ずかしげに言い訳を口にする。
「すいません。あまり食事をしていないので立ちくらみをおこしたんだと」
「馬鹿か。食事はしっかり摂れ!」
怒鳴られて、けれど心配されているのだとわかり、笑いが込み上げる。
温かな気持ちで少女は口を開く。
「ありがとうございます」
「はぁ? 俺は怒っているんだぞ。なぜ感謝する、本当に馬鹿かお前」
人の熱が心地好くて、思考がまどろんでいく。
食事は摂っていなかったけれど、睡眠はとっていたはずなのに体が疲れている。
そこで少女は今更に気がついた。
青年と話す時間が増えて、睡眠が減っていたのだ。
だんたんと怒鳴り声が遠く聞こえ始める。
下がり始めた瞼に抵抗できず、朦朧とする思考のままに口を開く。
「あなたの、せいですからね……」
「何が俺のせいだ。おい、寝るな」
「なんでだろ……。あなたの鼓動、針の音に聞こえます……私、そんなに時計が欲しいのかな……」
うつらうつらと零した言葉に、青年が身を固くしたのに少女は気づかない。
そうして少女は青年の腕の中、眠りに落ちていく。
次に目が覚めると、もうとうに夜は明けていた。
少女は目を擦りながらベンチから身を起こす。
当然ながら隣にもう青年の姿はなく、かわりに傍らには小さな紙袋があった。
封を開けてみれば、中には幾つかのパンが入っていた。
青年だとすぐに検討がつく。
「不器用な人……」
こんな街と毒づくのに、街の中央公園に毎夜、足を運ぶ。
不機嫌そうな瞳に揺れるのは憂いた優しさ。
パンを見つめて、心に生まれる温もり。
「優しい人」
一口かじったパンは美味しかった。
再び夜が青年を公園へ連れて来る。
いつも通り腰を下ろした青年は、いつもと違って星を見上げなかった。
穏やかな静寂に青年が口を開く。
「時計が見つかったら」
青年は少女を見ない。
「もうここへは来ないか」
青年は少女を見なかった。
月が隠れ、しじまが広がる。
少女は訪れた沈黙に口を挟む。
「帰る家はあります。帰りたくないだけで」
「帰るだろう」
「引き止めてくれるのですか」
「知らない」
青年はため息のように呟く。
照れたような、拗ねたような、どちらとも違うような声音。
「見つかりませんよ」
気づかず少女は笑っていた。
言った後で、自分でも驚く。
けれど一人納得する。
それから、もう一度言い直す。
「時計は見つかりませんよ」
「探しているのにか」
「きっと見つからないです」
時計は見つからない。
それでも、探していた。
見つかれば家に帰る理由ができる。
少女は家に帰りたくなかった。
けれど、帰らなければいけなかった。
「でも、あなたを欲しいと思いました」
少女は毛布を投げ出し、立ち上がる。
背中に青年の視線を感じた。
泣きたくなった。けれど、笑っていた。
「時計よりあなたが欲しくなりました。でもそれはだめです。私は家に帰らなくてはいけませんから」
「お前が望むのは、俺か時計か」
振り返れば揺らがない瞳。
不器用で優しい眼差しが少女を射抜く。
溢れ出す感情は言葉などには追いつかない。
溢れ零れ、たちまち消え朽ちる。
少女は青年を見た。見て言った。
「時計です。私は家に帰りますから」
「そう、か」
青年は微かに笑う。
そして星を賛美した唇が少女の為だけに、言葉を紡いだ。
「ならお前にやる」
一瞬だった。
閃いた鈍い銀は青年の胸を切り裂いた。
夜闇の下、溢れ出した赤はそれでも闇に溶けず鮮やかだった。
少女はただ佇んでいた。
そうして地に崩れる青年を見ていた。
音を忘れた世界で少女は青年を見下ろす。
こうなることは予想がついていた気がする。
心の何処かがきっと知っていた。
それでも、
「…………っ」
えぐり出された心臓。
懺悔する罪人のように青年の傍らに膝をつく。
青年に触れようと指を動かして、しかし停止する。
指先は宛て先なく、帳の風に震える。
渇いてひび割れていく心に変わって、死んだ涙が頬を伝う。
「ごめんなさい」
心臓に埋まった時計。
規則正しく脈を刻んでいた銀の時計。
青年の命を保っていた、時計。
「ごめんなさい」
伝い出る意味のない言葉。
溢れ出す意味のない涙。
ひたすらに渇いていく心。
「あなたが――――」
息絶えた青年にもうその言葉は届かない。
きっと青年は病気だった。
正常に機能しない心臓を動かすためには時計が必要だったのだ。
王の時計は最高の技術の産物。
医師と共謀し、手に入れたであろう命綱。
体の中に入ってしまえば、誰にも気づかれない。
誰も、気づかない。
「褒美はなにがよい」
王の御前。
少女は顔をあげた。
一切の感情が伺えない瞳が、ついと王を見つめる。
差し出した時計はすでに王の掌の上。
それが数時間前まで血に濡れていたことを王は知らない。
その時計で生きていた人を誰も知らない。
「本当になんでもよろしいのですか」
私しか知らない。
「よい。申してみろ」
「では」
そこでやっと少女の顔が表情を作った。
少女は泣きそうに笑った。
「家を。家を燃やしてください」
帰りを待つ者はもういない。
家族はすでにみな息絶えた。
帰りたくないのは、思い知りたくなかったから。
一人になったということを。
諦めて家に帰り、家もろとも焼き死ぬはずだった。
時計なぞ見つからない。
見つかったとして欲するものなどない。
少女はそう思っていたのに。
日が暮れた頃、少女は広場に帰ってきた。
人波に逆らい、思考を放棄して歩き回った結果だった。
もう空っぽだった。
訝しげな瞳をしていた王も約束は果たすだろう。
これでもう帰る家はない。
現実も受け入れた。
死に場所は消した。
そして、青年はもうどこにもいない。
「私は」
ベンチに座り込み、空を仰ぐ。
まだ星は瞬かない。
手で目を覆った。
あの後、青年の死体を彼の家まで引きずって行った。
街の人から家は聞いて知っていたから。
森の手前の粗末な一軒家。
中に古い絵があった。
医療鞄を手にした男と、青白い少年が描かれた絵。
人の気配が一切ない家の中。
青年をベッドに横たえて、床に座り込んだ。
彼の懐に入っていた手紙。
『いくな』
ただ一言。たった一言の遺書。
「ほんとうに不器用な人……」
目を開いた途端に目の縁から、流れ星のように涙が流れた。
青年の台詞をひそやかに唇にのせる。
「この世界で星だけが唯一綺麗」
少年の罪も、少女の思いも、王の時計も、この街も美しくなんかない。
それでも青年は美しくないものを、この星空のしたで、確かに愛していた。
少女が見上げた空に一番星が輝いた。
「私はあなたが――――」
少女の言葉に星が頷くようにきらきらと瞬いた。