三日月のくれた時間
本作は、武 頼庵様主催の「すれ違い企画」参加作品になります。
朝いちばんの鐘を撞くと、湿った空気が石畳を伝って寺の奥にまで広がる。線香の煙はゆっくりと立ちのぼり、障子の隙間から差す光の筋を、白く、細く縫っていく。
物心ついたころから、私は母方の実家である祖父母のお寺で暮らしている。小さなころ、一度だけ聞いた。
「なんで私にはおとうさんもおかあさんもいないの?」
祖父母は言葉を探すように湯気の向こうを見て、私の頭を撫でただけだった。私は、それ以上は聞かないことにした。今となってみれば、世間でよくある事情のどれかだったのだろう。
檀家さんに合わせる礼儀作法は、優しさと一緒に、厳しく仕込まれた。膝をつく位置、手の置き方、目線の高さ。地元ではそれなりに名の知れた寺だったから、きちんとしていることは寺の顔でもあった。あとになって知ったのは、祖父母にはもう一つの思いがあったということだ。「この子に良縁を」。私はまだ、その「良縁」に心が追いつかず、自分の人生は自分の足で歩きたかったから、県外の短大に進学することにした。
「二年間だけ、好きにしなさい。でもその後は帰ってきてもらいますよ」
わかっている。
お寺を継ぐために、私がしなければいけないことは。
それでも私は束の間の自由を得たことが嬉しかった。そして私はバイト先で、近くの大学に通うサトシと出会った。最初はただの同僚だったけど、閉店後の床のモップがけが終わるころ、気配の抜けた店内に小さく音楽が流れて、その音の上で、他愛のない会話を繰り返すうちに、一緒の時間を過ごすようになった。あちこちへ出かけたり、部屋でゆっくりと流れる時間を過ごしたり。楽しい時間は、あっという間に過ぎてゆく。
私は敢えて話さなかった。
私は敢えて目を背けてた。
でも、時間は、残酷なほど律儀に、正確に未来へ向けて針を進める。
私は卒業する1か月前にサトシに全てを話した。
サトシは泣きながら話す私から目を逸らさず、全てを聞いた後に一言、「わかった」とだけ言った。
「……ごめん」
「……あやまるなよ」
連れて行ってとは、言えなかった。
連れて行くとは、言えなかった。
私たちの恋は、そこで終わった。
短大を卒業して、私は萩に帰った。お寺が運営する保育園の手伝いは忙しく、子どもたちの泣き声と笑い声は、寺の鐘より賑やかに一日を刻んだ。今日はお盆休みで園は静かだ。空を見上げれば、真夏の青に白がわたをちぎったように浮いている。去年の夏は、今ごろ何をしていたっけ。鐘の音の余韻みたいに、思い出が遅れて胸に届いたそのとき……
「ミカさーん、お電話よー!」
「はーい」
園の固定電話に出ることは滅多にない。
名指しで私を呼ぶ声に、不意に背筋が伸びる。
『もしもし?お電話変わりましたけど』
『よっ 元気だったか?』
受話器をとって耳に当てた途端、忘れようとしても忘れられない声が聞こえてきた。
『その声、サトシ…?何で?え?え?』
『いや寺の名前は聞いてたから、いるかなーと思って電話してみたんだよ。ケータイ繋がらないし』
そうだった。もう話すこともないだろうと思って、番号も変えてしまったんだっけ。
『で、さ。俺、今ちょうど萩にいるんだけど』
『え、なんで!?』
『親が旅行で来ててさ、合流しろって言われて。山陰本線でここまで来たんだよ』
……思い出した。「毎年お盆に家族旅行で萩に行く」って話から、そもそも盛り上がって一緒にいることになったんだっけ。
『んで、だな』
『今度はなに?』
『今、門の前まで来てるんだけど?』
『はいぃぃ~??』
受話器をガチャン!と乱暴に置いて玄関に走っていき、草履をつっかける音すらもどかしく玄関を開ける。真昼の白い光、砂利に跳ねる熱。門を開けて外を見ると、そこには汗をかきながら手を振る笑顔の彼がいた。
「よっ おひさ」
「もぉぉぉ!『おひさ』じゃないー!」
私、この時どんな顔してたんだろう?
笑ってた?
怒ってた?
泣いてた?
覚えてるのは、色んな感情が一度に溢れてゴチャゴチャになって、でも抱きつくのはガマンしたってことくらい。
「時間あるなら、市内案内してよ」
「……いいけど。じゃあ、待ってて。車、出すから」
「免許取ったのかよ。……大丈夫なのか?」
「失礼な!」
慣れ親しんだ街は、隣にいる人が変わるだけで別物みたいに見える。ちょっと不思議な気分だ。
「かき氷屋」
「菊ヶ浜」
「武家屋敷」
「松陰神社」
夏の光はどこまでも明るく、砂は容赦なく熱い。それでも、一緒にいることでそれもまた話題となっていく。
「明倫館」
「明神池」
「アーケード」
萩の街に吹き渡る風は、午後になると潮の匂いを濃くした。萩は小さな町だけど、二人で巡っているとあっという間に夕方になり、私はサトシをホテルまで送った。
「そういえばさ、今夜は流星群が見られるかもしれない。夕飯の後、時間とれるか?」
「……十時くらいまでなら、多分」
「じゃあ、八時半に」
「わかった。また後で」
私は、何かを期待していたんだろうか。
期待してはいけないものを、期待していたんだろうか。
夜、時間通りに迎えに行くと、サトシは少年みたいなテンションで車に乗り込んできた。ホテルでプロレスラーを見かけたらしい。こういうところが、ずるい。ムードをぶち壊すのに、私を笑わせる。
菊ヶ浜の東の港に車を停め、防波堤を歩く。西に黒い三角の指月山、上には薄い三日月。沖にはイカ釣り漁船の漁火が点々と並び、満天の星に混ざって、海の上にも宇宙があるみたいだった。
「天の川の真ん中のあれがデネブ。で、あっちがアルタイル、『彦星』。反対側がベガ、『織姫』」
「よく知ってるね」
「好きだったからな」
その言葉に、一瞬ドキリとする。
「ペルセウス座流星群だから、カシオペアの近く。指月山の上を見てれば見つけやすい」
「どれくらい見られるの?」
「どうかな。十分に一つ、うまくいけばもっと」
「雨みたいに降るのかと思ってた」
「それは滅多にないよ。そんな夜があったら、世界中が空を見上げる」
防波堤を背中にして星空を眺めていたけど、ちょっと硬い。
……じゃあ、こうしよう。
「……おい?」
「いいでしょ?コンクリートは背中痛いし、服汚れそうだし」
「……わかったよ」
私はちょっとイタズラ心を出して、背中をサトシにあずけてみた。平気そうな顔でしてみたけど、心臓はバクバクいっている。暗いから顔が熱いのとかは見られないと思うけど、伝わらないよね?
そのまましばらく二人とも無言で空を見上げていた。夏の夜風が吹いて気持ちがいい。その風に流されたのか、薄雲が三日月にかかって、月明かりが遮られた。
後ろからサトシの手がまわり、抱きしめられる。
私は左手でその手を押さえ、右手をあげてサトシの頬に触れる。
そのまま、首を少し傾け、サトシの顔を引き寄せて……
雲間から月が再び顔をのぞかせた。
月の光はやわらかく、この上なく優しくあたりを照らし、わずかに揺れる水面が光を散りばめる。潮騒が、遠くで何かの合図みたいに一定の間隔で寄せては返す。
私は唇を離し、サトシの胸に額を寄せた。
「……ねえ、なんで来たの?」
「……顔、見たかったから」
泣いた顔なんて、見せたくないのに。
でも多分、バレてるよね。
「……ズルいよ」
「……ごめん」
「謝らないで」
そして、彼は少しだけ間を置いて、言った。
「一緒に来るか?」
その言葉は、私の体と心を一瞬にして、風に乗ったように浮き上がらせた。でも同時に、足もとに見えない岬が現れた気がした。そこから先は海で、どちらへも渡れない。
言ってしまえば、たぶん、世界はひっくり返る。
言わなければ、世界はこのまま続いていく。
私は敢えて話さなかった。
私は敢えて目を背けてた。
しばらくして、彼が小さく笑った。
「……わかってる。言わせたかったわけじゃない」
「……ありがとう」
私達は、もう一度だけ、唇を重ねた。
波打ち際に、静かに押し寄せる波音と、月明りの中で。
私は結局、お見合いをして、その人と結婚した。いまは自分の子どもと、保育園の子どもに囲まれて忙しい毎日を送っている。祖父母は曾孫に激甘な、優しいおじいちゃんおばあちゃんになった。夕方、子どもの頬に貼りついた米粒を剥がして笑い合い、帰りに牛乳を買ってくるよう夫からメッセージが入る。台所に立てば、味噌汁の湯気と子どもの声と、外から聞こえる鐘の音が、同じ大きさで私の耳に届く。そんな毎日を、私は幸せだと心から感じている。「家族」に囲まれて穏やかな毎日を送れている今の状況に、私は何の不満もない。
それでも、時々夜の海岸線を車で通っていると、「あの時の事」を思い出すことがある。
あれは、「お月様がくれた時間」だったんだって、そう思う。
私と、サトシと、お月様だけが知っているあの宝石のような時間は、いまも私の心の小さな宝箱に、そっと置かれている。
誰にも触れられない、私だけの、大切な宝箱に。
お読みいただき、ありがとうございました。




