八月七日
「百合、着いたよ」
「ん、もう着いたんだ。ありがとう、起こしてくれて」
眠気交じりに体をゆらゆらさせる百合の手を引きながら俺は駅を出た。駅を出た後でも百合はうたうたしていたからそのまま百合の家まで送っていくことにした。
「ほら、百合、家着いたよ」
「あれ、いつの間に着いたんだ」
「そうだよ、じゃあ俺帰るからね」
「うん、、、あ、だめちょっとまって」
「なに?もう遅いから帰らないと」
「ただいまぁ」
「お帰り、お母さん!待ってたよ」
百合が手を振るほうを振り向くと百合のお母さんがこっちに向かって手を振り返していた。
「百合、意外と帰ってくるのはやかったわね」
「そう?結構もう遅い時間だと思うけど」
「そういう意味じゃないわよ」
「こんばんは、姫紅さん」
「こんばんは、聖朱君。なんだか久しぶりに見た気がする」
「ねえ、お母さん前に言った通りよろしくね」
「もちろん、わかってる。それじゃ聖朱君うちに上がってって」
「え、でも」
「ほらはやく」
百合に背中を押され、わけのわからないまま百合の家に招かれた。
家に入るといつもの花の甘い香りがした。
「お邪魔します」
「いらっしゃーい」
「ご飯すぐ作るからちょっとだけ待ってて」
「はーい、それじゃ私の部屋で待ってよ」
「わかった」
ご飯ができるまで百合の部屋で時間を潰すことにした俺と百合は二階に上がり百合の部屋に入った。
「百合、いきなりびっくりしたよ」
「聖朱君」
部屋に入るなり百合はドアを閉めて俺に抱き着いてきた。
「どうしたの?今日はやけに甘えてくるな」
「聖朱君、今日は楽しかった?」
抱き着いたままバス停に向かう途中で聞いたことをまた聞いてきた。
「楽しかったよ」
「わたしも楽しかった」
「なら、また行こう」
「行けるかな」
「行けるよ、いつでも。俺は百合となら行くよ」
「それが聞けて安心した。ねぇ聖朱君、今日何の日だかわかる?」
「わかるよ、今日は」
「二人ともー、ご飯できたよ!」
何の日か答えようとしたとき、百合のお母さんが遮るように晩御飯ができたと俺と百合を呼んだ。
「今行くー!」
百合はそれに答えるようにとっととリビングに向かってしまった。
俺もそれにつられて一階に下りることにした。
リビングに行くとテーブルにはレストランに出てきそうなふわっとしたたまごが乗っかっているオムライスが並べられていた。
「いただきまーす」
「いただきます」
「どうぞ召し上がれー」
百合のお母さん特製オムライスはたまごがとろっとしていて手が止まらなかった。百合の方を見ると黙々とオムライスに集中していた。
「ごちそうさまでした!」
「お粗末さまです、二人とも食べるの早いね」
「すごくおいしかったです。ごちそうさまでした」
「よかった」
百合のお母さんは満足そうに笑みを浮かべた。
やっぱり親子だからなのかその笑みが百合が笑う時の顔に似ていた。
食べた後、百合と百合のお母さんと今日行った水族館のことやこの間、気前のいい老店主がいる服屋に行ったことを話した。ずっと話していると時間はいつの間にか九時を回っていた。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。姫紅さんご飯ありがとうございました」
「こちらこそ急だったのにありがとうね。またいらっしゃい」
「私送ってくよ」
「いいよ、もう暗いし」
「いいから、いいから」
百合は強引にも俺についてきた。
家を出て手をつないで隣で歩く百合はいつもみたいに鼻歌は歌わなかった。かわりに聞こえてくるのは虫たちの歌声だけだった。
空を見上げると夜空には満月と一緒に小さな星の光がオーケストラのステージを照らすスポットライトように静かに光っていた。ずっと歩いて、公園の前まで着くと虫の音さえも聞こえなくなって逆に夜の静寂が響き渡った。
「誕生日おめでとう」
どれくらい時間が経ったろうか、ずっとお互いに黙ったままの夜空の下で百合はやっと口を開いてその一言だけを言った。
水族館に行く計画を立てたときに無意識に今日を提案したときに百合が何か隠すような顔をしていた理由にやっと納得がいった。八月七日、妙にリアルな夢を見る前に考えてたこと。さっき百合の家で言いそびれた答え。でも、なんで俺は自分の誕生日を忘れてしまっていたんだろう。毎年どっちかの誕生日が近づけばお互いに祝っていたはずなのに。
去年だって…あれ、去年の誕生日ってなにしたっけ。おととしもその前の年も俺と百合はどういう風に祝ってたっけ。霧がかかったように思いだそうとしても前みたいに思い出せなくて何年の昔のことように思えた。
「ありがとう」
ありがとう。何も思い出せなくてただそれだけしか言えなかった。公園のベンチに座ると夏の少し涼しい夜風が吹いて公園の外灯には蛾やカゲロウが戯れているのが見えた。
また沈黙が続いて、出会ったばかりの頃の気まずさを無理やり思い出される。
それと同時に焦りさえも感じてくる。
「百合、ハグしよう」
その焦りに身を任せた俺はいつの間にか百合の体温を求めてしまった。
百合は頷いて手を広げた。百合の体は細くて、何回かハグしているのにいつか知らないうちに消えてしまうんじゃないかって不安になった。
「百合、顔を上げて欲しい」
本当に消えてしまうかもしれないと思って顔を見たくなって名前を呼ぶと百合は静かに俺と目を合わせた。少しだけ寂しそうな顔をした百合の瞳は薄暗い中、月や星、公園の小さな外灯に照らされ潤みながらも光っていた。
沈黙がまた響く
俺と百合はどちらからでもなく、自然にお互いの唇を重ね合わせた。
短いそのキスはサルビアの蜜を吸ったような甘酸っぱさがあった。




