第1話 降臨、そして、家賃
安アパートの薄い壁に、甲高い絶叫が響き渡った。
「な……なんだ、この脆弱な生物はーーーーーっ!!!」
姿見の前に、一人の少女が立っていた。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。
血のように赤い瞳。
しかし、その体は今にも折れてしまいそうなほど華奢で、胸の起伏も乏しい、あまりにも幼いものだった。
その少女は、鏡に映る自分の体を指さし、わなわなと震えている。
(――ふざけるな)
(この我が、こんな矮小な器に押し込められているだと?)
混乱する頭で、必死に情報を探す。
この部屋は?
この体は?
我は、一体、今、何者なのだ?
視線が、ちゃぶ台の上に無造作に置かれた、数枚の書類に吸い寄せられた。
一番上の紙には「賃貸借契約書」とあり、借主の欄にその名が記されている。
『赫 フレア』
「……かがり、ふれあ…?」
口に出してみたものの、全く馴染みのない響きだ。
これが、この器の名前らしい。
かつては終焉の魔王フレアと呼ばれ、世界を支配した存在である我が、なぜこんなふざけた名前の、か弱い少女の姿に……。
フレアが愕然としていると、ベランダの窓の隙間から、一匹のゴールデンハムスターが、息を切らし、ホコリまみれの姿で部屋に侵入してきた。
そのハムスターと目が合った瞬間、フレアの脳内に、懐かしくも冷静沈着な声が直接響き渡る。
『――ようやくお目覚めになられましたか、我が主、ルキフェリア様』
「ヴェルゼスか!?なぜ貴様がここに!その見るも無惨な姿はなんだ!」
『話せば長くなります。どうやら我々は、"ニホン"という異世界に転生したようでございます』
ヴェルゼスの説明によれば、この世界は「カネ」という力ですべてが回っているらしい。
ふんぞり返って話を聞いていたフレアは、尊大に言い放った。
「ならば話は早い。この世界の王をひれ伏させ、全ての富を我に献上させればよかろう」
『主の圧倒的なお力があればそれも可能でしょうが、いかんせん、その肉体では……。魔力の回復にも相当な時間がかかります』
「ちっ…面倒なことよ。まあよい。とりあえず、腹が減った。何か食わせろ、ベルゼ」
『はっ。…と言いたいところですが、主よ。実は、我々の前には、絶望的な問題が一つ…』
ヴェルゼスが前足で示した先には、一枚の紙があった。
先ほどの契約書の下から、わざとらしく少しだけはみ出している。
それは、赤い印も生々しい督促状だった。
「なんだそれは?挑戦状か?」
『いえ、あれに従わねば、我々はこの城から強制退去させられる、という最後通牒にございます』
「…は?我を、この我を、住処から追い出すだと?面白い!会ってひと思いに捻り潰してくれるわ!」
憤慨するフレアをよそに、ヴェルゼスは机に向かって猛然とダッシュした。
小さな体で、必死に電源ケーブルによじ登り、全身を使って、なんとかプラグをコンセントに差し込む。
さらに、机の上を走り回り、全身で体重をかけて、PCの電源ボタンを「ポチッ」と押した。
『ふぅ…!この肉体、テコの原理の応用が必須ですな…!』
起動したPCの画面に、動画サイトのトップページが映し出される。
その中央で、圧倒的な光とオーラを放つ映像が再生されていた。
きらびやかな衣装を纏った、人気Vtuberの配信。
画面には、滝のように流れる賞賛のコメントと、色とりどりの高額スーパーチャットが乱舞している。
その光景は、まるで現代に降臨した神への、信者たちの祈りと貢物のようだった。
フレアは、思わず身を乗り出した。
赤い瞳が、初めてこの世界に来て、真の輝きを放つ。
「……見ろ、ベルゼ。あの者こそが、この世界の『王』の一人だ」
「軍勢も、領地も持たず、ただ己の存在だけで大衆の魂を掴み、富と信仰を一身に集める。…なんと効率的で、なんと美しい、新しい支配の形か!」
フレアは立ち上がり、画面の中の偽物の神を、そしてその向こうにいるであろう、この世界の全ての人間を睨みつけ、不遜な笑みを浮かべて宣言した。
「決めたぞ!我も、この世界の『王』になる!」
「我が名は魔王フレア!この世界の全ての人間をひれ伏させ、再び頂点に君臨してやろう!」
「まずは、手始めにあの偽物の王どもを引きずり下ろすことからだ!」
その宣戦布告は、ボロアパートの六畳間に、虚しく、しかし力強く響き渡った。
赫フレアの、新たな世界征服(と、家賃を払うための戦い)が、今、静かに幕を開けた。