第13話 王の哲学、そして、聖女の憂鬱
クイズ対決から数日が経ち、ネットの熱狂も少しずつ日常の喧騒に溶け始めていた。
だが、ボロアパートの一室では、魔王フレアの祝勝会(本人のみ参加)が、未だに盛大に繰り広げられていた。
「ふははは! 見ろベルゼ! 我が言葉の真意を、ようやく民が理解し始めたようだな!」
フレアが勝ち誇ったように指さすPCの画面には、「#魔王様の体感時間」「#石の上にも痔」といったハッシュタグが、未だトレンドの上位に君臨している。
クイズに大敗したことなど、彼女の記憶からは綺麗さっぱり消え去っているどころか、「我が圧勝であった」と都合よく上書きされているようだ。
戦利品としてコンビニで買ってきた一番高いプリンを天に突き出すように掲げ、彼女は高らかに宣言する。
「ふん、児戯に等しいポイントの優劣など些事!」
「民草の注目、そして熱量、全てにおいて我が圧倒しておったわ!」
「あれは、民がどちらの魂に、より惹かれたかという証明に他ならん! つまり、我が勝利よ!」
そのあまりのポジティブさというか、もはや現実改変能力に、ヴェルゼスは呆れつつも、内心では(まぁ、エンターテイメントという観点では、確かに主の圧勝であったが…)と認めざるを得なかった。
彼はチラシの裏に、今回の対決で得たアリアのデータを、鉛筆の芯で冷静に書き込んでいた。
『聖女の皮を被った鉄壁の女』『煽り耐性・極』『笑顔の圧が強い』――そんな物騒なメモが増えていく。
◇
一方、その『鉄壁の女』ことアリアは、自室で一人、静かにPCの画面を見つめていた。
彼女の部屋は、純白の壁紙に、ミニマルな家具。
塵一つない、完璧に整頓された空間。
それは、彼女の心の在り方をそのまま映し出したかのような、秩序と調和の世界だった。
勝利を報告した際、マネージャーは完璧な勝利を称えつつも、こう言った。
「ですが、話題性という点では、少し彼女に持っていかれてしまいましたね。次は、もう少しアリアさんの『人間味』を見せていく戦略も考えましょう」
人間味。
その言葉が、アリアの胸に小さな棘のように引っかかった。
正しくあること。清らかであること。それが最も価値あることだと信じてきた。
しかし、あの魔王の「間違っているが、面白い」在り方が、多くの人を惹きつけている。
その抗いがたい事実が、アリアを魔王フレアという存在への探求へと駆り立てていた。
(敵情視察です…二度と、あのような挑発に乗らないためにも、相手を理解しなくては)
自分に言い聞かせ、彼女はフレアの過去の配信アーカイブをいくつか再生してみる。
お絵描き配信を開けば、理解不能なクリーチャーが生まれ、コメント欄は爆笑の渦。
料理配信を開けば、生命が誕生し、カオスな追いかけっこが始まる。
そのどれもが、彼女の理解と秩序の範疇を、あまりにも軽々と超えていた。
「…むちゃくちゃな方」
思わず声が漏れる。
この人の周りでは、常に世界の理が歪んでいるかのようだ。
そして、人生相談の回を開いた。
序盤は『服が裏切った』などと破天荒な回答を繰り出し、いつもの調子だった。
アリアは、やはりこの人とは相容れない、と眉をひそめる。
しかし、配信が進み、最後の「いじめられて死にたい」という、痛切な相談に対する、フレアの静かな一言を聞いた時、アリアの指が、ぴたりと止まった。
『――ならば、逃げよ』
その声には、いつもの尊大さも、戯れもない。
ただ、深く、重い痛みを伴う響きがあった。
それは、全てを失い、絶望の淵を覗いた者だけが持つ、魂の音色。
アリアの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
炎に包まれる村、助けを求める人々の声、そして、力及ばず、ただ立ち尽くすことしかできなかった、無力な自分。
守りたかったものを、守れなかった後悔。
(この人、は…)
今まで感じていた、本能的な嫌悪感や、得体の知れない恐怖とは違う感情。
それは、あまりにも苦く、あまりにも切ない、「共感」とはまだ呼べない、しかし確かな「何か」。
アリアは、PCの画面に映る、不遜な笑みを浮かべた魔王の顔を、ただじっと見つめていた。
彼女は、自分の心に生まれた、今まで知らなかった感情の正体を探るように、そっと胸に手を当てていた。
(この胸のざわめきは、何…?)
秩序を乱す、忌まわしき敵。
そう断じるには、彼女の魂の音は、あまりにも悲しく、そして孤独だった。
アリアは、無意識のうちに、自分のチャンネルの配信予定表を開いていた。
そして、そこに新しいタイトルを打ち込む。
『お悩み相談室、開きます』
それは、今まで彼女が避けてきた企画だった。
人の心の闇に触れることは、自分の心の平穏を乱すから。
だが、今は違う。
知りたい、と思った。
あの魔王が見ている世界を。
救いの手を差し伸べるのではなく、ただ『逃げよ』と厳しく言い放った、その魂の在り方を。
◇
それから数日後の夕暮れ。
ヴェルゼスが「主よ、先日の敗北…いえ、その、引き分けを挽回するため、次なる手立てを考えねば…」と進言すると、フレアは窓の外に視線を向けたまま、鼻で笑った。
「ふん、矮小な勝利よな。我が見ているのは、あのような盤上の勝敗ではない」
彼女の瞳は、夕日に染まる街並みを、まるで己の王国を見渡すかのように見つめている。
「我が姿を見て、民の魂が少しでも燃え上がったのなら、それでよい」
「王とは、民を導き、その魂を輝かせる者。それ以外に、我が覇道など存在せぬわ」
その言葉は、勝敗を超越した、彼女の揺るぎない「王」としての哲学を示していた。
(ああ、やはり…)
ヴェルゼスは、主君の言葉に静かに目を伏せた。
その小さな胸の奥で、一つの決意が、より硬く、より熱を帯びていくのを感じていた。
魔王と聖女。
二人の魂が、まだ見ぬ未来でどのように交錯するのか。
それは、まだ誰にも分からない。